(文 喜久井伸哉)
もし私の「ひきこもり」にゴールがあるとしたら、「職場で雑談ができたとき」だ。
「就労」ではない。
「ひきこもり支援」では、よく「就労」がゴールのように言われている。
外で働いて、自分のお金を稼ぐという点では、たしかに「社会的ひきこもり」の「解決」なのかもしれない。
しかし、私が働くようになっても、個人的な「ひきこもり」が終わったとは思えなかった。
私が初めて「ひきこもり」的でなく、「社会人」としてやっていけると思えたのは、「職場で雑談ができたとき」だ。
世間的な「ひきこもり」の定義や印象にしても、「家族以外との交遊がない」ことが挙げられる。
外で働き出したからといって、人との「交遊」が成り立つわけではない。
「雑談」のできる関係があってこそ「交遊」ではないか。
村田沙耶香の『コンビニ人間』には、職場での「雑談」の威力がとらえられている。
2016年の芥川賞を受賞し、ベストセラーとなった小説だ。
作品では、コンビニで働く恵子の心理が描かれている。
恵子は物事に「ふつう」の反応ができず、常に周囲の人々から奇妙がられてきた。
エピソードの一つをあげると、幼いころにペットの鳥が死んだとき。
恵子は鳥が亡くなったことを喜んで、親に「焼鳥にしよう」と提案する。
家にいる鳥が死んだのだから、恵子はお店で買う焼鳥と同様、「おいしく食べられる」と考えたのだ。
しかし当然、両親からは「鳥が死んで悲しくないのか」と困惑される。
恵子は「焼鳥を食べられる」という論理的な判断はあるが、「ペットのお墓を作る」といった、人間的な感情に欠けていた。
恵子は18年にわたってコンビニで働いており、仕事内容は熟知している。
接客の言動にはマニュアルがあり、業務はそつなくこなしているが、ただ一つ、「同僚との雑談」には苦労していた。
ある時、新人のバイトが突然辞めたことで、コンビニの人員が足りなくなってしまう。
同僚たちが「最悪だよねー」などと「雑談」をしているとき、恵子はその身振りを注視し、真似ようとする。
二人が感情豊かに会話をしているのを聞いていると、少し焦りが生まれる。私の身体の中に、怒りという感情はほとんどない。人が減って困ったなあと思うだけだ。私は菅原さんの表情を盗み見て、トレーニングのときにそうしたように、顔の同じ場所の筋肉を動かして喋ってみた。
「えー、またバックレですかあ。今人手不足なのに、信じられないです!」
恵子は自分の感情によってではなく、「こういう場合にはこう発言すべきだろう」という、コミュニケーションの模範を、業務マニュアルのように模倣する。
同僚は恵子の言動を受け入れるが、その「自然」な反応は作られたものにすぎない。
泉さんと菅原さんの表情を見て、ああ、私は今、上手に「人間」ができているんだ、と安堵する。この安堵を、コンビニエンスストアという場所で、何度繰り返しただろうか。
恵子は、同僚との「雑談」によって「人間ができる」という実感を得た。
就労でもなく、自立でもなく、「雑談」によって、自身の社会性に安堵している。
「人間」だと感じられない差異は、日常の細部に潜んでいる。
生まれ育った環境が少し価値観が違うだけでも、周囲から「浮く」ことになってしまう。
「子供は学校に行くもの」、
「大人になれば就職するもの」、
「男は女を好きになるもの」、
といった世間の自明性からはずれたとき、一般社会での「自然な感情」は、誰かから真似なければならないものになる。
なんらかのマイノリティであると、ありふれた言葉のやりとりのなかに、無数の、答えづらい質問が紛れ込んできてしまう。
私自身が経験してきた雑談の困難さで、ささいな一例を挙げると、
「不登校」による、「学校の給食で好きだったものは?」という話題への答えづらさ。
「ひきこもり」による、「これまで何していたの?」という質問への気づまり。
「ゲイ」であることによる、「好きな女性のタイプは?」という言葉の辛さ。
(女性のタイプを答えられないのは、男同士の集団の輪に加われるか否かを分ける、選別的な設問に失格する、ということだ。)
気楽な雑談は、多くの人にとっては野原での散歩のようなものにすぎない。
だが、ある人々にとっては地雷原となる。
そのため同僚との会話で、どうということのない笑い話に到達できたとき、私は「社会人」として認められたような安堵があった。
意識できるような感情は生じていなかったが、「雑談」が達成されたあと、私は静かに涙が湧き出ていた。
もっとも、安心感のある「雑談」のためには、就労という巨大な障壁を乗り越えなくてもよかったはずだ。
何らかの居場所や、サードプレイスや、就労圧力を受けないコミュニティなど、どこでだって「雑談」は発生する。
「ひきこもり」への支援策に話を戻すと、「働くこと」を全般的な主眼にすべきではないと思う。
まず、「雑談」が可能になるだけの、環境や人間関係に対する安心が要る。
旧来の「ひきこもり」像にしても、「家族以外との交遊がない」ことを一要素としてきた。
このことに対応するのは、就労の有無よりも、他人との雑談の有無であるはずだ。
少なくとも、誰かと適当な笑い話ができているとき、そこに社会的な孤立はない。
どうということもない、安全な会話ができたとき、私はその場所で、人間的に生きられるように思える。
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。8歳から教育マイノリティ(「不登校」)となり、ほぼ学校へ通わずに育った。約10年の「ひきこもり」を経験。20代の頃は、シューレ大学(NPO)で評論家の芹沢俊介氏に師事した。現在『不登校新聞』の「子ども若者編集部」メンバー。共著に『今こそ語ろう、それぞれのひきこもり』、著書に『詩集 ぼくはまなざしで自分を研いだ』がある。
Twitter https://twitter.com/ShinyaKikui
関連イベント情報
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