(文 喜久井ヤシン 画像 Pixabay)
「力を入れろ」ではなく「力を抜け」と言ってほしい
世の中ではよく、「がんばれ」や「集中しろ」といった言葉が発せられる。
「ひきこもり」に対しても同様で、「力を入れろ」と急かされているような感覚になる。
しかし私は、「ひきこもり」に対してもっともいうべき言葉は、「力を抜け」だと思う。
私が「ひきこもり」だったときには、心も体も緊張しっぱなしだった。
自分がせねばならないと感じられることが大量にあり、神経がずっと張り詰めていた。
もし「がんばれ」という言葉が、緊張感をもつことや、気力をふりしぼるという意味なら、私にはまったくいらなかった。
私が世の中にいる魅力的な人を思う浮かべてみても、緊張感をもって過ごしている人は思い浮かばない。
神経を張り詰めさせているタイプより、気楽さや適当さをもって物事に取り組める人の方が、人格的にも成熟しているように思う。
何かをせねばならないときに、「力を入れる」ことは、ある意味では簡単なことだ。
むしろ「力を抜く」ことの方が、それぞれの人に技術がいり、難しい。
「引きこもり」ではなく「居着きこもり」がある
思想家の内田樹氏によれば、優れた武道家は、対戦相手と向かい合ったときに、体の力が抜けているという。
思いきり体を硬くしていては、相手の不意の動きに反応できない。
力を入れていない状態であれば、相手の動きに即座に反応することができる。
力みすぎは失敗のもとであり、武道には「居着き」という用語もある。
「居着き」は「足の裏が地面に張り付いて身動きならない状態」といった意味で、武道家にとって致命的だ。
「居着き」が起きていては、相手に対して柔軟に対処することができず、新しい動きに移ることが難しい。
私にとって「ひきこもり」の苦しさは、この「居着き」のようなものが心身に起こることだった。
人との関係や外の物事に対する自由がなくなり、柔軟に動き出すことができない。
外に対して「引き」こもっていることよりも、「居着き」によって、自分のありようが硬直してしまう。
「引きこもり」よりも、「居着きこもり」という方が、自分を表す言葉として合っている。
支援にあたっても、「引きこもり」を「引き出す」ことではなく、「居着きこもり」をやわらげることを重視すると、対応が変わってくるのではないかと思う。外に出るかどうかは課題ではなく、恐怖や緊張を起こすものを取り除き、いかに体の力を抜けるかが支援の主眼であればいいと思う。
『急いでゆっくりしろ』
「居着きこもり」を解消させるとしたら、真剣にリラックスすることが必要だ。
私の体験からすると、何となく過ごしているだけで力を抜くなんてできない。
言葉は矛盾しているかもしれないが、全力をかけて、真剣に休息を求めなければ、リラックスはできない。
私はストレッチをするとか、マインドフルネス(瞑想の一種)をやってみるとか、リラックスするための技術や方法に取り組んだことがある。
「がんばる」ことがあるのだとしたら、それはただ一つ、「真剣に休む」ことに向かってだったと思う。
緊迫感をもって、積極的に「休む」ことを追い求めないと、私は休息できなかった。
それほどまでに、私の「居着きこもり」は強固だった。
古代ローマの時代、皇帝のアウグストゥスは、味方の将軍に向かって『ゆっくり急げ』と言った。
性急さや無謀さをいましめ、慎重な態度をとれという指示だ。
日本のことわざでいう、「急がば回れ」にあたる言葉だろう。
この言葉をもじり、反対の意味で使わせてもらうと、「ゆっくり急げ」ではなく、「急いでゆっくりしろ」というコンセプトこそ、私が取り組むべきものだったと思う。
「ゆっくりする」ことを喫緊の課題として、毎日真剣に取り組む。
「急がば回れ」ではなく、「回るに急げ」とでもいうべきことだ。
リラックスする技術は、一朝一夕には身につかない。
真剣に休もうとすることが、「居着きこもり」をやわらげて、生活をこなしていくための手段になると思う。
「急いでゆっくりしろ」という言葉は、今でも私の標語の一つだ。
参照 内田樹著『死と身体』医学書院 2004年/野津寛編著『ラテン語名句小辞典』研究社 2010年
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執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年生まれ。8歳から20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」を経験している。
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