(文・南 しらせ)
私は大学時代に就活の不安から抑うつ状態になったことがきっかけで、ひきこもり始めた。卒業後はしばらく家にいたが、母の勧めで、不登校やひきこもりなどを支援するNPO法人に不定期ながら通い始めた。
就労移行支援事業
当時通っていたNPOのスタッフから「就労移行支援事業」の存在を教えてもらったのは、その法人に通いだしてしばらくしてからだった。
「就労移行支援事業」とは、ざっくりいえば、病気や障害をもっていて一般企業に勤めることが難しい人を対象に、就労に向けた支援する公的な制度である。期間は原則2年間で、「作業所」と呼ばれる場所で、色々な作業(一般の会社でいう仕事)などを経験しながら、一般就労を目指す、といったものだ。
当時私は精神科に通っていて(現在も通っているが)、精神科での診察料が1割になる制度、「自立支援医療」を利用していた。この制度を利用していることで「就労移行支援事業」も利用できるとのことだった。
私がこうした制度を利用しようと考えた際に、大きな壁になったのが「福祉制度への漠然とした不安や抵抗感」だった。大学を卒業して無職になるまで、私はこうした制度や居場所があることを全く知らず、福祉の世界は完全に未知のものだった。
悩んだ末、利用できるものは利用しようということで、私は地元の作業所に見学に行くことにした。
作業所という新世界
人生で初めて訪れた作業所は、商業施設などが立ち並ぶ一帯から少し離れた、雑居ビルの中にあった。普段なら気にとめないような、なんてことない建物だった。
部屋に入ると、私は見たことのない風景に圧倒された。そこには内職用の資材が入った大きな段ボールがいくつも積み重ねられており、さらに奥に進むと、利用者の方が机の上で内職の作業をされていた。
利用者は10人程度。若者から年配の方までおり、男女比も同じくらいだった。事前に施設側から、利用者の多くが私と同様、精神疾患を持っている方々だとは聞いていた。
ただ皆さんが実際に作業をしている姿を目の前で見ると、そのなんともいえない雰囲気に、私はとても戸惑った。時間の流れがその場だけ少し遅いというか、空気が少し重いというか、今振り返っても当時の感覚を、うまく言葉で言い表せない。
ただはっきり覚えているのは、私がこの輪に入って同じ作業をすることを想像した時に、強い恐怖や抵抗を感じたことだ。
「この場所が、この人たちが怖い。嫌だ」
私の心に潜んでいた否定的な感情が、私を黒く覆った。
自分が福祉当事者になることへの恐怖
作業所の見学を通して、私は自分が今まさに、これまで馴染みがなかった福祉の世界の入り口に、当事者として足を踏み入れようとしていることを実感した。未知の世界に私は恐怖し、彼らの存在を素直に受け入れられなかった。私と彼らは違うのだと思いたかった。
この作業所という場所が、私には一般社会へ繋がるためのスタートラインではなく、大きな鳥かごのように思えた。もしかしたら一生ここから出られないのではないかと不安を感じ、なんともいえない息苦しさを覚えた。
私自身も精神疾患を抱え、作業所を利用しようとしている当事者の一人なのに、どうして利用者の皆さんのことをよく思えないのだろうか。
もしかしたら私は、偽善者ぶったとんでもない差別主義者なのかもしれない。そう思うととても苦しくて苦しくて、自分のことが嫌になった。作業所で感じたどんなことよりも、そんな私自身が、何より一番怖かった。
見学の後に体験利用という形で、その作業所に通って実際に作業も経験した。しかし最後まで作業所の雰囲気に馴染めず、結局その作業所の本利用は見送った。
時給150円という壁
作業所への抵抗感を覚えていた私だったが、かといっていきなり一般就職を目指す勇気も持っていなかった。悩んだ末、私は前回とは別の作業所で就労移行支援を利用し始めた。
そこは調理を主とする作業所で、私は洗い物など水回りを担当した。次から次へと出てくる皿や鍋の洗い物。シンクに前かがみになって同じ姿勢を保ち続けるのも、腰にきた。大変な作業だった。
工賃(給料)は1時間作業して、150円。つまり時給150円だった。作業所での作業は、一般的な労働とは違う概念だと説明は受けていたが、それでも最低賃金も大きく下回る給料に、最初は唖然とした。しかし前回見学した作業所も似たようなもので、これが福祉の世界の常識なのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
作業所の担当者は工賃について、「今は将来の投資の時期だから……」とよく言っていた。担当者も工賃の低さを申し訳ないと思っていることは、私にも分かっていた。だからこそ余計にやりきれなかった。
正社員など望まないから、せめて最低賃金で働かせてほしい。それまで私が当然と思っていたことは、実は当たり前ではなかった。時給150円という、多くの人がその存在すら認識していない透明な壁が、一般社会と作業所の間にはあった。高い、高い壁だった。
私たちはここにいて、頑張っていて、生きているのだ
作業期間中、私はずっと、作業所にいる自分が何者なのかを考え続けていた。自分は一般社会のレール上にはおらず、また心理的に作業所の当事者にもなれきれていない、と感じていた。利用者の方と積極的に交流することもせず、ずっと一人で過ごしていた。色んなことが中途半端だった。
そんな私とは対照的に、作業所の皆さんは色々な特性や特徴を持ちながら、真面目にひたむきに作業に取り組まれていた。皆さんそれぞれが自分の役割を全うしようと努力されていたように、私の目には映った。彼らの真剣な横顔や笑顔が眩しくて、羨ましかった。ふと私の心の底から、ある思いが湧き上がってきた。
「どの業界も人手不足だというけれど、ここにこんなに頑張っている人たちがたくさんいるのに……。私たちはここにいて、頑張っていて、生きているんだ。誰か、気付いて。どうか私たちのことを、いないことにしないで」
あの時の私はどういう立場で、そう思ったのだろう。傍観者のつもりでいながら、いつの間にか私も、いち当事者になっていたのかもしれない。けれどやっぱり、傍観者だったのかもしれない。
私は自分の胸からあふれたその感情をどう扱っていいのか分からず、誰にも言えないまま、またそれを胸にしまいこんだ。
それでも福祉制度を利用するしかない現実との葛藤
作業所で過ごす2年間が、終わった。結局私はこの作業所を利用して、一般企業に就職はできなかった。期間の途中で体調を崩して長期療養を余儀なくされたのだ。その後復帰はしたが、もう以前のように作業に入ることは難しく、就活どうこうのレベルではなかった。
制度の利用を終え、私はまた家でひきこもる生活に戻った。その間に在宅でできる仕事を何度か試した。しかし簡単な内職のような仕事しかできず、収入も時給換算すれば、作業所にいた頃と同等か、それ以下の時もあった。
やはり外で、時給で働くことが一番手っ取り早い。しかし体調的に1日数時間のアルバイトができない。今の私は、福祉制度なしにひとりでは生活できない人間なのだ。となると、また作業所を利用するしかない。次に利用するなら「就労継続B型」という区分になるそうだが、作業所の待遇は当時とそう変わらないだろうと思うと、どうしても再利用に踏み出せない。
そうやって私は、もう何年も同じ思考を繰り返し、ひきこもり続けている。今でも思い出すのは、一緒に作業所で作業をした利用者の皆さんのことだ。あの真剣な横顔。あの笑顔。皆さんまだ作業所にいるのだろうか。それとも一般企業に就職されたのだろうか。
私一人だけが、もうずっと取り残されているように感じて、ふと涙が零れる。私は何者なのか、その答えはまだ分からない。
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執筆者 南 しらせ
自閉スペクトラム症などが原因で、子ども時代から人間関係に難しさを感じ、中学校ではいじめや不登校を経験。現在ひきこもり歴5年目の当事者。