「多様性」対「多様性」
私は一人のゲイとして、同性婚に賛成だ。
自由に結婚できたらよいと思う。
しかしそこには、「人は結婚してこそ幸せ」という価値観がある。
セクシャルマイノリティ(性的少数者)のなかには、性的感情のない「アセクシャル(無性愛)」という性がある。
アセクシャルの人にとっては、同性婚が制定されたとしても、ありがたいとは限らない。
同性婚が、「人は結婚をしてこそ幸せになれる」というメッセージだと、パートナーを持たないアセクシャルを、追い詰めることになるためだ。
「性的少数者のために同性婚を制定しよう」という言い方は、「性的少数者」であるはずのアセクシャルの人を、除外してしまっている。
(そのため、結婚制度そのものを廃止すべきという議論もある。そうなると家族制度を根底から揺るがすもので、同性婚よりさらに大ごとだ。)
もう一つ別の例。
駅のホームなどでは、目に障碍がある人のために、路上に凹凸のある点字パネルが設置されている。
弱視の人には道しるべとなるもので、障碍がある人にとっては、たくさんあった方が便利だろう。
だが、より使いやすくするために、点字パネルの高低差を大きくしたとする。
そうなったときに、良いことばかりとは限らない。
足の不自由な人が使う車イスが、越えられない段差となるためだ。
視力障碍のマイノリティに配慮したとき、車イス利用者という、別のマイノリティを困らせるかもしれない。
「多様性」に配慮しようとしたとき、マイノリティとマジョリティ(少数派と多数派)の関係ではなく、マイノリティ同士の関係をこじらせうる。
「多様性」は、楽ではない。
いろいろな人に配慮せねばならない面倒くささや、覚えるべきことが増えていく大変さがある。
未来のための言葉が明るすぎる
同様の言葉に、「ダイバーシティ」もある。
訳すとそのまま「多様性」になるが、特にビジネスの世界で使われている印象だ。
「イノベーション創出のために、ダイバーシティ経営を推進しよう」など、カタカナの多い主張で用いられている。
他に、「SDGs(エス・ディー・ジーズ)」という言葉も流行りだ。
「Sustainable Development Goals」=「持続可能な開発目標」の略称で、2030年までに世界が達成すべき目標が整理されている。
その中には、「ジェンダー平等を実現しよう」や、「すべての人に健康と福祉を」などの文言が含まれている。
それらはもちろん、悪いことではない。悪いことではないが、やけに明るく使われているのが、気にかかってしまう。
特に企業のコマーシャルや、活動的なスポークスパーソンにとって、「多様性」や「SDGs」は、輝かしい未来を約束しているかのような印象だ。
それらが明るいのは、上辺を明るくとりつくろわねばならないほど、中身に暗さがあるためではないだろうか。
SDGsの目標の一つは、「ジェンダー平等の実現」である。
だが日本は、世界経済フォーラムが公表している「ジェンダーギャップ指数」において、2021年は120位だった。
日本の男女格差の改善は、進みが非常に遅い。
企業や行政で「女性活躍」を語るのも、男性たちが多いのではないだろうか。
また、LGBTはその生きづらさゆえに、そうでない人に比べて精神疾患の率や自殺率が高い。
LGBTを含めたダイバーシティを推進しようとする会社役員たちは、おそらく異性愛者たちだろう。
少なくとも、自身の性を根本的に悩んでこなかった人たちのように見受けられる。
私は「多様性」を明るく語る会社員に、小さからぬ違和感がくすぶってしまう。
「男女格差解消」や「LGBT差別撤廃」のことを、演台に乗って主張するのは、男性の、異性愛者たちなのだ。
自身の能力を発揮できず、社会でつぶされていった女性がどれだけいたか。
自ら命を落とし、また、殺されていった同性愛者がどれだけいたか。
(「殺されていった」は比喩ではなく、日本でも同性愛者を狙った殺人事件が起きている。私はゲイだと自覚した十代のころ、自殺願望を抱くとともに、他殺されることを危惧した。)
もし私が「多様性」を語るとしたら、意気揚々としたスピーチなどできない。
仮に整備されたバラ色の未来が広がっているのだとしても、過去の苦渋の荒地が長すぎるのだ。
私は慎重に言葉を選びながら、贖罪のように、しゅくしゅくと語らざるをえないだろう。
はじめに過去への謝罪を口にしてから語り出すのでなければ、私は「多様性」を勧める演説家を信じない。
あたりまえとされる日本社会のなかには、マイノリティにしか見えない歴史、マイノリティにしか見えない景色が隠れている。
女性の出世には「ガラスの天井」があるというが、おそらくマイノリティには「ガラスの墓」がある。
「多様性を推進しよう」と能天気に語れる人たちは、私には墓石の上に立ってスピーチしているように見える。
「イノベーション」について力説する正社員
つけ加えて言うと、「イノベーション」という言葉も、語られ方が奇妙だ。
聞くところによると、「革新」や「新機軸」を意味しており、これまでにない価値観の創造を訴える言葉らしい。
特定の発明品というよりは、画期的な変化や、新しい制度設計をもたらすことが「イノベーション」のようだ。
ある「イノベーション」は、高齢の会社員男性が、「これからの日本に必要なこと」として語っていた。
有能な役員らしく、高級なスーツを着こなし、大手メディアの取材に(したり顔で)語っていた印象がある。
だが、イノベーションの意味は「100点満点」や「120点」のことではない。
過去の価値判断や尺度を一掃し、まったくあたらしい価値観を創出するものだ。
イメージでは、これまでタテ型のグラフで数値を計っていたものが、数字のない球体の大きさが問われたり、無形物を感覚で判断するようになるくらいの、根本的な変化である。
ということは、現在の価値観で有能とされた会社員は、本当のイノベーションが起きたら、不利な立場に置かれるのではないだろうか。
その会社員は、過去の実績によって出世し、現在の価値判断によって、人に指示を出せるような高所から語っている。
その場所に立って、「これまでの古い尺度を撤廃しよう」という人なのだ。
このような妙なねじれは、どう考えたらいいのだろうか。
「女性活躍を」という人は男性で、
「LGBT推進を」という人は異性愛者で、
「イノベーションを」という人は過去の尺度において有能で、
さらに、「これからの時代に学歴は無意味だ」という人には学歴がある。
上辺の言葉を並べる人は、自らが汚れていない印象を受ける。
身体性がないため言葉に説得力がなく、耳に残らないのだ。
ダイバーシティを訴える人の会社に、「不登校」経験者のクオータ性(一定の比率で人数を割り当てる制度)があるわけでもない。
「多様性」や「イノベーション」といっても、「ひきこもり」の権利を確保しようとする企業役員はいない。
商売にならないような不都合な「多様性」は、そもそも議論の俎上(そじょう)に上げていない。
嬉々として「多様性」を語る人たちは、私には遠くにある演説台から、別の高台にいる人たちに向けて語っているように思える。
その高台は、マイノリティにしか見えない「ガラスの墓」だ。
誰かが明るい未来のための演説をしているとき、私はその足元にある、過去の歴史の暗さばかりが目についてしまう。
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文 キクイ ヤシン
1987年生まれ。詩人。個人ブログ http:// http://kikui-y.hatenablog.com/
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