自分を受け入れられない
私は、自分が良い人間になれると思っていた。
働いて、親孝行をして、恋愛や結婚をして。
本当はもっと、幸せに生きていけたはずだと思う。
しかし半生をふり返ってみると、どれもうまくいかなかった。
私は世の中から孤立して、引きこもりの不毛な歳月を過ごしてきた。
冷静に自身の境遇を考えると、受け入れがたい自分が現れてくる。
「自分を引き受けられない」感覚は、一部の「ひきこもり」当事者に共通したことかもしれない。
20年以上前に出版された、上山和樹の『「ひきこもり」だった僕から』(講談社 2001年)にも指摘がある。
ひきこもりの当事者手記として、最初期に出された本だ。
ある場面で上山氏が講演をしたとき、親の一人が、ひきこもりの息子のことを嘆く。
親が息子に話しかけても反応が鈍く、それはまるで、息子にとって「自分の状況が“自分の状況”になっていない」かのようだ、という。
上山氏は、「ひきこもり」の核心を突く至言だと言っている。
それは、本来ありえたはずの自分の姿と、実際の自分の姿とがかけ離れすぎているせいで、現実の自分を引き受けることができない状態ではないだろうか。
圧倒的な事実を前にして、
「こんなことあるわけがない」と否認し、
「こんな事実は認めない」と怒りがわく。
とても冷静に受け止められない衝撃なのだ。
「こんな自分などありえない」、という衝撃は、たとえるなら、死の宣告のようなものではないだろうか。
「死の過程」のように苦しさを受けとめる
死との向き合いかたをつづった一冊に、E・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』がある。
終末期医療(ターミナルケア)にたずさわる人の、「聖書」とまでいわれている古典だ。
ここには、余命宣告を受け、自身の死に直面した人々の姿が記録されている。
有名なのは、「死の過程」を記した五つの段階だ。
健康な人間が、あるとき急に余命を宣告されたなら、眼前に迫る「死」にとまどい、どうすればいいかがわからなくなる。
ロスは、人が「死」を受け入れるまでの衝撃と受容までの流れを、以下のように整理している。
死の過程
第一段階 否認と孤立
第二段階 怒り
第三段階 取り引き
第四段階 抑鬱
第五段階 受容
ごく簡単に、五つを見ていく。
(私的な要約だが、原著は全編にわたって神聖な筆致であり、そもそも簡単に示すべきではないが。)
第一段階は、否認と孤立。
自分の命が長くないことを医者から告げられ、混乱し、動揺する患者の心理である。
「そんなことあるわけがない」と否認し、適切な医療から自ら遠ざかるケースもある。
第二段階は、怒り。
なぜ自分だけが苦しまねばならないのかと、周囲に怒りを向ける。
宗教心のある人は、なぜ自分を罰するのか、自分が何をしたというのか、と、神に怒りを向ける人もいる。
第三段階は、取り引き。
深刻な病状であっても、子供が「いい子にしていれば治るのではないか」と考えたり、
信仰心のある人が「神に祈れば救われるのではないか」と願うなど、救済をさぐる期間である。
第四段階は、抑鬱。
抑鬱にも種類があるが、自身の境遇を認め、折り合いをつけようとしている期間にあたる。
そして第五段階が、受容。
死という圧倒的な事実を見すえ、困難がありながらも、時間をかけて受け入れようとする段階である。
私自身は、直接的な死の危険を体験したことはない。
しかし自殺を考えたことや、圧倒的な現実を前にして、自己を放棄したくなったことはたびたびある。
上記の「死の過程」は、衝撃的な事実を受け入れるためのプロセスとして、人生観に影響するほどの参考になった。
「こんなことはありえない」という自分自身の否認・怒りから、受容へと至る道筋である。
「ひきこもり」を例にとるなら、はじめには、「こんなもの自分ではない」という否認。
そしてガッコウ教育や家族に対してなど、自分を困難におとしいれたものへの怒り。
そこから、どうすればいいかという取り引きの思索と、どうにもならないのだという抑鬱の期間。
そのあとの受容は……、どうやらまだこれからのようだ。
評論家の芹沢俊介氏には、「自分と折り合いをつけられる分だけ、人と折り合いをつけられる」という言葉がある。
自分自身を受け入れることが、他の何者かを受け入れられる自分になることでもあるだろう。
つけ加えると、この五つの過程は、親の側の衝撃にも適用できるはずだ。
親に混乱があると、子供がひきこもったときに、「うちの子に限ってありえない」と、はじめは否認するかもしれない。
誰かのせいではないかと、他に怒りを向けるように原因を探す。
解決策を探し、落ち込むが、いつかは受容に至る……という流れも、とりあえず、可能性としては、ありえる。
「ひきこもりを生きる」
「死の過程」は、がんの治療に関する書物でよく参照されている。
それらの書物を読んで、印象的な表現があった。
がんサバイバー自身による、「患者を生きる」、もしくは、「がんを生きる」という表現だ。
一時的に手術が成功しても、闘病が完全に終わるわけではない。
薬を飲み続けるケースや、再発に苦しむケースがある。
そのようなときに、「がんを克服した」・「がんを乗り越えた」とは言い切れない。
それを勘案しての、「がんを生きる」という表現だ。
私は不登校もひきこもりも経験しているが、それらが終わったとはいえない。
時間的に過ぎ去ったのだとしても、とてもではないが「克服した」・「乗り越えた」という感覚ではない。
上記の表現を借用すれば、「不登校を生きる」・「ひきこもりを生きる」がふさわしいように思われる。
過去をなかったことにはできない。
かといって、「克服」や「乗り越え」も難しすぎる。
そんな美談にはできないのだ。
「解決」ではなく、「完治」ではなく、「治療」でも、「終結」でも、「ゴール」でもない。
自分の過去を受容して、私は私のひきこもりを生きるのである。
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文 キクイ ヤシン
1987年生まれ。詩人・ライター。個人ブログ http:// http://kikui-y.hatenablog.com/
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