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「不登校」では語ることができない もし「不来校」や「スクール・マイノリティ」という名称だったなら

喜久井伸哉 「不登校」最終解答試論②

 

おお、友よ、このような響きではない!
もっと心地よい歌を、
もっと歓びにあふれた歌を、
歌おうではないか
(ベートーヴェン「交響曲第九番」)

 

 

私はこれから、自身に起きた「不登校」のことを、語ろうと思う。

しかし、語ろうとした瞬間から、この言葉では語ることができない、という唖(おし)に直面する。

冒頭の「不」という言葉を発した瞬間から、自分の体験したことの意味が、ただちに腐りはじめてしまう。

「不登校」の名が「不登校」である限り、私は私の「不登校」を、語ることができない。

 

そもそも、「不」という字を含んだ名称そのものに問題がある。

公正に考えようとしたとき、一方の物事に「不」という否定形がついているのはおかしい。

もし女性のことを「不男性」と言い、外国人のことを「不日本人」と言ったなら、言葉そのものが差別だ。

「不・男性」や「不・日本人」といった言葉で議論をしたり、物事を主張しようとしても、公平な判断が成り立たない。

にもかかわらず、「不・登校」ではこの何十年にもわたり、まっとうな議論をしていると考えられてきた。

 

大勢の子供の長期欠席が問題であるとしたら、その「原因」は、日本の教育制度にあるはずだ。

もし私が、「大勢の子供が長期欠席をしている原因は何か」の質問に答えるなら、「日本の教育制度のせい」と答える。

だが、「不登校」の名称によって、「あなたの不登校の原因は何か」が問われると、このような返答が理解されない。

社会に対する問題提起ではなく、「子供個人が学校に登校しない(できない)」という矮小化が起きてしまう。

 

 

もし「スクール・マイノリティ」」だったなら

 

「不登校」をめぐる調査では、子供に「人間関係」「いじめ」「勉強についていけない」など、複数の項目から「原因」を選ばせている。

だが「不・登校」を前提としている限り、「問題」と「原因」とは必ずズレてしまう。

子供に「原因」を求める設問そのものが、根本的に無意味であり、日本の教育制度が変わらないでいるための、有害な仕組みの一つでさえあるのではないか。

 

社会のさまざまなマイノリティ(少数派)においては、このような「原因」の問い方は起こらない。

たとえば個人に対して、

「なぜあなたはLGBTになったのか?」

「なぜあたなは被差別部落になったのか?」

「なぜあなたは在日コリアンになったのか?」

といった質問をすることは、発想そのものが無知によるものだ。

マイノリティは国家の歴史や社会情勢によって生じるため、一人一人に「原因」を問い、何らかの答えを求めるべきものではない。

「原因」を問われたところで、「原因」は社会全体にあるため、個人が答えられる範囲を超えている。

 

「不登校」が、「スクール・マイノリティ(学校教育上の少数派)」と言われていたらどうだったろうか。

まず「なぜあなたはスクール・マイノリティになったのか?」という質問が、子供個人に向かいづらくなる。

「マイノリティ」の名称があることで、社会のマジョリティ(多数派)や教育制度の関係で生じていることが理解しやすく、子供一人の意志や選択を問うものではなくなる。

「不・登校」の名称でなかったなら、長期欠席が、子供(もしくはその親)の「責任」になっている状況を立ち切れたはずだ。

 



もし「不来校」と言われていたら

 

元来の言い方を反転させるだけでも、「不登校」の名称の問題がわかる。

たとえば、もしこれが「不来校」という名称だったならどうか。

子供が学校に「登校しない」という「不登校」ではなく、学校側の目線から見て、子供が学校に「来校しない」という、「不来校」という言葉だ。

 

「不登校」=「子供が学校に行かない」ではなく、

「不来校」=「子供が学校に来ない」。

 

現在の「不登校の子供が過去最多」という報道は、「不来校の子供が過去最多」という表現に変わる。

これだけでも、子供の責任ではなく、学校教育の責任であることがわかりやすくなる。

「不登校が約22万人いる」という報道から、「不来校が約22万人いる」という情報になるだけでも、子供個人の責任化がやわらぐ。

 

「不登校になる原因は?」という問いかけも、

「不来校になる原因は?」に変わったなら、質問のマイクを向ける対象が、子供個人から、教育者たちの側に転じる。

 

「不来校の原因」の答えが「いじめ」であったとしても、それは「不登校」の子供個人が「いじめを受けた」という、「被害の体験」として処理されるのではない。

「いじめ」が発生したことによる「不来校」の事例として認識されやすくなる。

いじめを受けた子一人が「不登校」になった、という認識ではなく、教室内でのいじめの発生によって「不来校」を生んだ、という学校側の観点が確保される。

子供個人ではなく、学校側の「問題」としての事例が積み重なれば、教育制度を柔軟にするための改革意欲も高まるのではないか。

 

少なくとも「不登校」という名称が、どれほど子供個人に過大な責任を負わせているかを忘れないでほしい。

この数十年、「不登校の原因」や「不登校の統計」が、さも有益なように報道・研究されてきた。

しかし「不登校」という概念そのものに、教育制度の問題解決をさまたげるためのメカニズムがある。

「不登校」の名称を脱却し、この概念を解体しなければ、私は自分一人の「不登校」の経験さえ語れることができない。

 

 

 

   注記

 本稿では「問題」として扱っていますが、本来「不登校」は深刻にとらえられるべきものではありません。(ある観点においては、長期欠席などどうでもいいことです。)あくまで社会的な風潮の反映と、私自身が問題化させられてきたことの反映において、「問題」として描写しているにすぎません。

 私は80年代から90年代にかけて、蔑称的な含意を持った「登校拒否」の名称を批判し、乗り越えることで「不登校」を公的な用語にまで至らしめた人々の、気骨ある活動の歴史に敬意を表します。「不登校」の名称に到達した歴史は、教育者や活動支援者、そして何より子供を守ろうとした母親たちの名誉の歴史です。(日本の教育史や「不登校」を論じる学者たちは、母親たちの偉大な達成を不当にも看過しています。)しかし、私は過去の勇気ある母親たちを尊敬しつつ、先人たちへの不敬をおかしてでも、「不登校」の名称を滅却し、別の言葉で語られるようになることを望んでいます。「登校拒否」を乗り越え、「不登校」を生み出した歴史的な膂力が再び興ることを、私は生涯をかけて希求しています。

 

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。8歳からホームスクーラー(「不登校」)となり、ほぼ学校へ通わずに育った。約10年の「ひきこもり」を経験。20代の頃は、シューレ大学(NPO)で評論家の芹沢俊介氏に師事した。現在『不登校新聞』の「子ども若者編集部」メンバー。共著に『今こそ語ろう、それぞれのひきこもり』、著書に『詩集 ぼくはまなざしで自分を研いだ』がある。
Twitter https://twitter.com/ShinyaKikui

 

 

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