(文 喜久井伸哉 / 画像 Pixabay)
近年、ひきこもりの人などに向けた〈オンラインの居場所〉が増えています。ネット上で人と交流できるのは便利ですが、メリットばかりではありません。ひきこもり経験者の声をお届けします。
コロナ禍以降、ZOOMなどを使った、オンラインでのやりとりが一般化した。
在宅ワークをする人もいれば、家にいながら、遠方のイベントに参加するもいる。
「ひきこもり」向けの、オンラインの居場所も増えた。
テレビ番組や新聞・雑誌でも、たびたび取り上げられてきた。
報道を見ると、現代的な試みとして、良いサポートになるのではないか、と期待されている。
「ひきこもり」の「問題」に対して、いままでにない、何か、新しい「解決策」になるかもしれない、という雰囲気がある。
オンラインの居場所が、「ひきこもり」のサポートになるかどうか。
個人的には、疑問がある。
おそらく、活用できるのは、一部の人だけだろう。
(「居場所」自体がそうだ、ということは、ひとまず置くとして。)
私自身が、「ひきこもり」であったときに、オンラインの居場所を、利用できたとは思えない。
それに、私は今も、オンラインでのやりとりが、好きになれない。
はじめは、何度も利用していれば、そのうち慣れるだろう、と楽観していた。
しかし、そのまま数年が過ぎて、いまだに、苦手なままでいる。
オンラインでの交流は、とても中途半端だ。
「情報であるはずなのに、情報として使えないもの」、が多すぎる。
生身の人と会ったときなら、五感のすべてが動き出す。
視覚や、聴覚や、皮膚感覚や、嗅覚がはたらく。
空気感においては、味覚さえ、あなどれない。
それが、道具を介すると、情報が限られてくる。
電話であれば、音声情報だけ。
写真では、相手の顔や姿の視覚情報。
メールの文章では、言葉だけ。
直筆の手紙なら、文字とともに、筆跡や用紙選びが情報になってくる。
それらは、相手の一面を、限定して伝える。
一方、オンラインは、どうか。
映像があるため、顔も、声も、動きもわかる。
他の媒体に比べて、多くの情報がある。
にもかかわらず、生身の相手と話すときの情報量とは、比較にならないほど、劣っている。
相手の情報が、「わからない」わけではない。
かといって、完全に「わかる」のでもない。
「わからないわけではない」ものが多すぎるせいで、疲れてしまう。
私にとって、オンラインは「あらゆる情報を複合している」、というより、「あらゆる情報を欠損している」、という感じがする。
視力が落ちるように、五感の、すべての感度が落ちる、とでも言おうか。
眼も、皮膚も、耳も、ここ(私)にあるのに、その使い道が、ただごとではない。
オンラインのとき、声はどこに向かって、どのように聞かれているのか。
視線の方向はバラバラで、誰かにうなづいても、どの方向に、なぜしているのかがつかめない。
生身の人が声を発したときの、空気の振動も、存在感の波長のようなものもない。
優れた舞台役者には、人を引き付ける、オーラや、カリスマ性のようなものがある。
それは、微弱なものなら、誰にだってあるだろう。
ある人が「居る」ことの特別さも、声が振動する特別さも、誰にだってある。
それが、オンラインでは、感じられない。
このような話は、コロナ禍以降、目立って指摘されてきた。
学問的には、メルロー=ポンティの「間身体性」(実際に人と会い、交流することで、自分と相手との関係を認識するという考え)や、マイケル・ポランニーの「暗黙知」(経験や勘などの、言語化されない知)、といった着想が、あらためて注目を浴びた。
コロナ禍によって、もっとも痛手を受けた分野の一つは、演劇だろう。
オンラインで演劇を発信する試みもあったが、定着していない。
元から、テレビやネットで、演劇の上演を観たい、というニーズは少なかった。
テレビドラマは人気なのに、なぜ、演劇の映像は、人気にならないのか。
それは、生で観てこその、「味わい」が、欠損しているせいだろう。
セリフやストーリーの、「情報」を得るだけでは、面白さにならない。
舞台なら伝わったはずの「味わい」が、映像だけだと、なくなってしまう。
観ることの充実感はあっても、欠落感が、ぬぐいきれない。
ノイズまじりの顔と、電子音で再現された声の交流は、「情報」にすぎない。
生身の人を体感する、「味わい」には、程遠い。
私は、「ひきこもり」向けの、オンラインの居場所に、あまり、期待していない。
オンラインでの交流を勧める人は、「情報」を、過信していないだろうか。
このことで思い出すのは、子どもの自殺の増加だ。
(これは、発想の飛躍ではない、と思う。)
コロナ禍において、学校の風景は様変わりした。
全員がマスクをし、表情を隠す。
給食の時間は、机をバラバラに離し、「黙食」を徹底する。
休校になった時期は、オンラインで授業がおこなわれていた。
教科書の内容を教えるための、頭に詰め込む「情報」は維持されていた。
しかし、人と接するときの、皮膚感覚の「味わい」は維持できなかった。
その中で、子どもの自殺が、急増していた。
コロナ禍前の、2019年は、子どもの自殺が、339人。
(これでも、悲痛な数なのだが。)
それが、要因はさまざまであるにしても、コロナの感染拡大以降に、急増した。
2022年の子どもの自殺は、512人だった。
これは、コロナの混乱なかで、報道がかすんでしまったが、まぎれもない、惨事だった。
気がついたときには、海辺に大量の魚が打ち上げられており、なすすべがない、とでもいうような。信じがたいほどの、惨状があった。
成長し、人との関係を生成して、ビジネス的な思考に慣れた人(つまり、大人)であったなら、「情報」だけでも、耐えられるかもしれない。
しかし、関係を生成していくさなかの人(つまり、子どもであり、一部の「ひきこもり」)には、「味わい」が要る。
人や物事との関わりを、オンラインで代替できる、と思える人は、子どもの頃を、思い出してほしい。
誰も、「情報」だけで育った人は、いないはずだ。
〈オンラインの居場所〉について、もう一つ、付けくわえる。
ひきこもりにオンラインを進めるのは、もしかして、安易な連想ではないか。
「リアルの交流が苦手な『ひきこもり』だから、オンラインの交流が向いているはずだ」、という発想は、ないだろうか。
だとしたら、少々差別的だ。
「オンラインで交流したい」、と思うくらいの人なら、リアルでも、交流したいと思っているのではないか。
私としては、「情報」よりも、「味わい」を大切にしてほしいと思う。
「ひきこもりだからこそ、オンラインでの交流が向いていない」という見方も、なくしてはならない。
とはいえ。
オンラインの居場所に、個人的には期待できない、というだけで、役に立たない、と言っているのではない。
居場所の種類は、多い方が良く、当然ながら、数も質も、豊かであってほしい。
オンラインの居場所にも、多くの可能性が、開かれている。
メタバース(インターネット上に作られた仮想空間)で、アバター(自分の分身となるキャラクター)を操作するなどして、交流する方法も、模索されている。
近々、行政が関与しておこなう、メタバースのイベントもあるくらいだ。
これからも、というより、これからこそ、発展していく分野でもあるので、関心をもっていたい。
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000