文・ぼそっと池井多
たとえば、こんな4人がいたとしよう。
Aさん:19歳、男性。
いじめから不登校になり、何のために勉強するのかわからず、大学へ行く気も起こらない。日中は部屋から出ず、家族が寝静まると一階へ降りてきて独りで食事をする。
部屋でアニメとオンラインゲームをしているときだけ、生きている感覚を得られる。あとは死んだようにベッドに横たわっている。結婚はおろか異性と交際したことはなく、ひきこもっていて、孤独を感じている。
Bさん:30歳、女性。
周囲の勧めがあり、20代のうちに駆け込むように結婚と出産をしたものの、思い描いていた結婚生活と現実との落差に打ちのめされ、家から出られなくなる。
近所やママ友とのつきあいにもウンザリして、夫以外の人とリアルな交流を持てず、買い物以外の外出をせず、ひきこもっていて、孤独を感じている。
Cさん:66歳、男性。
仕事はとくに好きではなかったが、いちおう会社を定年まで勤め上げた。会社へ行かなくなったら、とたんに外出することもなくなり、目的もなく自宅に居続けている。
長年連れ添った妻も自分を理解しているとはとうてい思えず、ひきこもっていて、孤独を感じている。
Dさん:38歳、無性。
男性として育ってきたが、さまざまな社会との接触面で性的違和感をおぼえ、それが周囲に伝えられないために、人々の無理解に疲れ果てて外出ができなくなってしまった。
いまさら女性としてのアイデンティティを持つ気にもなれない。自分のような内面世界を持つ人が他にいるとは思えず、ひきこもっていて、孤独を感じている。
この人たちを結ぶ共通点が、
「ひきこもっていて、人間関係がない」
ということであるとき、その状態像をあらわす語に括られて、今はみんな「ひきこもり」と呼ばれている。
すると、この4人は「ひきこもり」として、あたかも生きていく上で抱えている苦悩や問題が共通しているかのように、社会的に表現されることとなる。
社会はそのように4人を見なすことで、いろいろ便利なのである。
ところが、見なされた当事者たちにしてみると、こんな感情が湧き起こることがある。
「なぜあの人が、自分と同じに分類されるんだ」
「なぜあの人は、あれだけ環境に恵まれているのにひきこもっているんだ」
このような感情から互いに、
「あいつはひきこもりじゃない。
本当のひきこもりとは、自分のように苦しんでいる人のことをいう」
と排除しあうようになるまでに、そう長くはかからない。
このときに、社会は「ひきこもり」を蔑視する傾向にあるにも関わらず、当人たちが自分を「ひきこもり」の側に置こうとする理由のなかには、「ひきこもり」でないと自分の生きづらさを社会的に発言できないように感じる、いわば発言権の確保が入っている。
「なぜあの人は、あれだけ環境に恵まれているのにひきこもっているんだ」
と、一人の当事者が別の当事者へ向ける疑問の刃の奥には、
人は 自分の絶望だけは しっかりと感じられる
という法則のようなものが潜んでいる。
裏返せば、いくら想像力や共感能力といったものを総動員しても、人は他人の絶望を自分の絶望ほど切実に感じられない。
共感ということがよくわかっている人ほど、この残酷な限界を知っている。
社会から疎外されたひきこもりが
ひきこもりから疎外される
ロシアの文豪トルストイは、
「幸福のかたちは一つだが、不幸のかたちは人の数ほどある」
と言った。
その応用編で、
「ひきこもりが、ひきこもりから出ていけない理由は、ひきこもりの数ほどある」
といえるだろう。
メディアなどによって誰か特定のひきこもり当事者が取り上げられると、あたかもその当事者に「ひきこもり」全体が代表されたかのように錯覚されるので、
「それでは、私のような事例はひきこもりではないというのか」
といった不穏な感情が湧き起こる。
自分が「ひきこもり」という集合から切り離され、置いていかれるようで、あわてるのである。
ひきこもることによって世界から疎外された自分が、ようやくひきこもりという共同体にたどりついてその先の人生に歩み出そうとしていたのに、そこから隔絶し、またもや疎外されるように感じてしまう。
ところが、もともと多様な人生を、「ひきこもっている」という状態だけで一括りにしたものだから、その集合の中身は初めから同じではありえない。
つまり、「ひきこもり」という状態で多くの当事者を一括りにした時から、すでにそこには隔絶や疎外が内在しているのである。
「ひきこもり」に替わる語とは
状態像から発生した語「ひきこもり」に一括りしてしまうことが問題だ、ということはこれまで多方面で指摘されてきた。
「ひきこもり」に替わる語が求められている。
しかし、実効性のある対案は、いまだどこからも出てきていない。
昨年末にNHKが3週間にわたって横断的にいろいろな番組でひきこもりを取り上げる「こもりびと」キャンペーンを実施し、本誌ひきポスも「ETV特集」などに登場させていただいた。
そこには、「こもりびと」が「ひきこもり」に替わる語としてはどうか、というNHKの提案がこめられていたようにも思う。
たしかに、「ひきこもり」から「ひき」が消えることで、ひきこもりが持ってきた敗者のイメージが削ぎ落とされ、また「びと」をつけることによって、主体的に隠遁という行為をおこなっているような語感が生まれる。
たとえば、「ボケ老人」「痴呆」といった以前の表現が「認知症」と言い換えられることにより、
「ああ、あれは誰でもなりうる病気なのか。何も人間的な価値が下がるわけではないんだ」
と一般人の認識が変わっていった先例がある。
それと同じように「ひきこもり」から蔑称的なニュアンスを拭い去ることにより、社会のひきこもりに対するイメージを向上させることはできるかもしれない。
しかし、「ひきこもり」が「こもりびと」へ移行したところで、一括り問題は解決しない。
冒頭のAさん、Bさん、Cさん、Dさんは、人生上の同じような悩みを持って「こもりびと」になっている、と社会から見なされるだけかもしれない。
「ひきこもり」という名称に一括りにする問題は、まだまだ先が長そうである。
(了)
<プロフィール>
ぼそっと池井多 東京在住の中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的に35年ひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。2020年10月、『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(寿郎社)刊。