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【ひきこもり歴史館】第3回 かつては社会に尊重されていたひきこもり ~そとこもりとしての修験者・行者・聖~

写真・ぼそっと池井多

文・写真 ぼそっと池井多

 

いつかこの目で見たいと願っていた御堂は、中国山地の奥深く、鳥取の秘境と呼ばれる三徳山みとくさんの中腹にあった。

鳥取へ講演にお呼びいただいた折に、私は足を伸ばすことにした。

国宝、三佛寺さんぶつじ投入堂なげいれどう
創建は706(慶雲3)年、飛鳥時代にさかのぼるという。

クレーンも何もない、そんな時代にいったいこれだけの木材をどうやって山壁まで引き揚げたのか。
堅い岩が精巧にり抜かれ、御堂は1300年もの間、絶妙なバランスで建ちつづけている。
役行者えんのぎょうじゃが平地から法力によって山に投げ入れて作ったとされているが、実際には誰がどのように建造したかは謎である。

 

この謎を見るためには、三佛寺の山門から修験道しゅげんどうを1時間半ほど登っていかなくてはならない。
山の標高は900mとそんなに高くないが、つい里山ハイキングのつもりで歩き始めてしまうと、すぐにとんでもない間違いだと思い知らされる。

おそろしく険しい登山である。もうロック・クライミングに近い。巨木の根を梯子はしごにして登り、垂直近く切り立った岩を鎖でじる。ふと振り返れば、そこは崖となって谷底へ落ちている。

参拝の途中で命を落とす方が多いため、日本全国で8万近くある寺社のなかで三佛寺は「最も危険なお寺」などといわれている。

写真・ぼそっと池井多

なぜ昔の修験者たちはこんな険しい崖の上に御堂をつくったのか。

ここで私には単純な理由が思い当たった。
「世俗でうつだったから」
というものである。

登攀とうはんのあいだ、ふと油断すれば命に関わるために、ほとんど頭の前頭葉は使わず、使うのはもっぱら旧脳であり、自らが持つ野性の勘だけが頼りとなる。
こうなると鬱になっている余裕がない。

鬱を振り払うには最も効果的で危険な方法である。

 

さらに問いが進む。
では、なぜその人たちは世俗で鬱だったのだろう。

すると現代人の私には、「適応障害を起こしていたから」という答えが思い浮かぶのである。
「ふつうの人生」に合わなかった人たちが、世俗の村を離れ、修験者や行者となって山にひきこもり、生きていく居場所を獲得したのだと思う。

 

中世のこもりびと

いまの日本では、いわゆる「村」、すなわち村落部に住んでいる人は全人口の36%にすぎないが、都市らしき都市がまだ成立していなかった当時、「ふつうの人」すなわち一般民衆はみんな「ムラ(村 / 群)」に住んでいた。

村人にとって、おそらく人間は2種類に分かれていただろう。

1つめは、自分たちのような村人である。
それは必ずしも自分たちの村に住む者を意味しない。たとえ他処の村であっても、自分たちと同じように定住し、農耕にいそしみ、季節ごとの祭礼をおこなう人々である。

もう1つのグループは、外からやってくる人である。
「よそ者」といってもよい。折口信夫おりぐちのぶおのいう「客人まれびと(*1)である。「まれびと」という音訓は「稀人」、つまり、ごくまれにしかやってこない人であったろう。

 

*1. まれびと:民俗学者折口信夫が1929(昭和4)年に提示した概念。村の外からやってくる来訪者を異界からの使いとする「まれびと信仰」を考察した。「客人」を「まれびと」と訓じて、それがほんらい「神」と同義語であり、神は冥界からやってくることを古事記や日本書紀、各地の民間伝承の記述から推定した。

 

「よそ者」や「まれびと」はどこからやってきたのか、村人たちは知らない。出生地も放浪へ至る経緯も知らないのである。だから、村人たちにとって「よそ者」や「まれびと」は不気味な存在だったにちがいない。

しかし、村人たちは「よそ者」「まれびと」を珍重した。敬意を払い、「ひじり」と呼んだ。なぜならば、彼らはマンネリ化した村人たちの日常生活に新風を吹き込んでくれる貴重な存在だったからである。

この「よそ者」や「まれびと」こそ、現代でいえば「そとこもり」だったのだと思う。
すなわち、昔の日本にも「ふつうの人」の社会になじめず、そのレールから外れていく者たちはいた。彼らはムラ(村 / 群)という共同体に群れて定住する人生は送れなかった。なかには、故郷から追放された者もいただろう。

 

故郷から追われた者たち

私も故郷がない。

昭和の高度成長期に転勤族の息子として育ったため、横浜で生まれたが、2歳で離れている。小学校へ上がるまでは千葉県柏市で育ったが、故郷と呼べるようになる前に再び転居した。

そういう私にとっては、家族が故郷だったのかもしれない。
しかしその家族も、私が母の虐待に感謝しなければそこに居続けることができないという状況になり、私はそれだけはできなかったため家族から追放された(*2)

 

*2. その経緯は以下の記事に詳しい。

www.hikipos.info

 

家族から追放された私はもはやこの世界のなかに故郷に代わるものさえ持たず、世界に寄る辺を持たないために、一時期はカルト精神医療に吸い込まれて何年もの歳月を搾取されたり、それで自棄やけっぱちになって金もないのに夜の街をさんざん飲み歩いたり、肥大した寂寥と張り裂けんばかりの叫びを秘めて魂はあちこちを彷徨した。
じっさい空間的に「そとこもり」として海外を放浪した期間も長かったが、国内に帰ってきてからも魂の放浪は続いている。

そんな私は、いまだにどこへ行っても「よそ者」である。

 

ひるがえって、中世の「よそ者」はどうであったか。

「そとこもり」として生きていくことは、修験者しゅげんじゃ行者ぎょうじゃとして人々から尊重されることでもあったのではないか。
そうやって生きていく道というのは、けっして制度や法律といった短期間に人為的に用意されたものではなく、長い歴史のなかで、まるで森の植生のように自然と人間社会のなかに培われ、存在していたものである。

行者たちが通った道  写真・ぼそっと池井多

生産しなければ人間ではない時代

時が経ち、近代化の波がやってきた。
ものごとは資本主義原理で考えられるようになり、
「現代において現状維持は後退を意味する」(*3)
などと言われるようになった。

つねに生産や前進をしていなければ、人間として認められない時代となったのである。

 

*3. ミッキーマウスやディズニーランドの父、 ウォルト・ディズニー (1901-1966) の言葉とされる。

 

すると、ひじりあるいは修験者、行者として、「ふつうの人」のコミュニティーとは別のサークルで生きていた人々は、「ふつうの人」から敬意も尊敬も得られなくなった。

やがて「ひきこもり」という語が "発明" され、社会のレールから外れた者や資本主義原理に基づいた生産に勤しまない者は、その範疇にからめとられていくようになった。

「ひきこもり」として憐憫を払われ、就労移行や居場所を勧められ、働くとなると障害者枠に入れられ、社会「復帰」を促されている。

 

そもそも「そとこもり」も含めて、「ひきこもり」は国を挙げて行政が躍起になるほどの大事おおごとなのだろうか、という問いは尊重されてよいだろう。
「生産してない」「経済発展が遅れる」という見地に立つから大事になるだけであって、人間の歴史をもっと高みから俯瞰すれば、「ひきこもり」は古来から人間にあった自然な現象として何ら大事ではないかもしれない。

修験道を登りきり、三佛寺投入堂を下から見上げながら、私はしばらくそう考えていた。

 

参考文献
  柳田国男『被差別民とは何か』河出書房新社 2017年
  沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』文春文庫 2004年
  山口昌男『いじめの記号論』岩波現代文庫 2007年

 

・・・ひきこもり歴史館 第4回 へつづく

 

<筆者プロフィール>

ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
ひきこもり当事者としてメディアなどに出た結果、一部の他の当事者たちから嫉みを買い、特定の人物の申立てにより2021年11月からVOSOT公式ブログの全記事が閲覧できなくされている。
著書に
世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。

詳細情報 : https://lit.link/vosot
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