ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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お前が私でないことの悔しさ 格差社会の底辺から

Photo by Pixbay 

 

以前、外国の漫画で、こんな作品を読んだ。
ある時、二人の、まったく同じ人間が、別々の家に生まれる。
(SFではないのだが、クローンのようなものだと、思ってもらえたらいい。)
一人は金持ちの家で、もう一人は、貧乏人の家だ。
仮に、金持ちのAと、貧乏人のB、とする。

二人は、両極端な環境で、成長していく。
赤ん坊のとき、Aは、立派なベビーベッドの中で、すやすやと眠っている。
一方で、Bは、粗末な部屋の片隅に、寝かされている。
二つの家は、経済的資本も、文化的資本も、大きく違う。
学生時代のAは、優れた教師や、級友に恵まれ、勉強もはかどりやすい。
Bは、騒がしい家で、家事も手伝わねばならず、勉強の時間を捻出することが、難しい。
さらにBは、十代の後半に入ると、学費を稼ぐために、アルバイトをせねばならなくなる。
学業に専念する時間はなくなり、学歴にも、教養にも、差がついていく。
大学生のAが、クラシックコンサートに行ったのと、同じ日に、Bは、アルバイト先で、「お前は出来そこないだ」、と怒鳴られている。

やがて、二人は大人になり、仕事に就く。
ある時、二人は偶然、パーティ会場で出会う。
Aは、人から成功の秘訣を聞かれ、「大切なのは、絶え間ない努力だよ」、と微笑みながら、語る。
もう一人のBが、どこにいるかといえば、低賃金のウエイターとして、Aに、ワインを運んでいる。
そっくりなのは、顔だけだ。身なりも、身分も、まったく違う。
同じ人間が、同じ時代の、同じ国に生まれたというのに、Aにだけ、順風満帆な、人生がある。
Bには、ない。
生まれと育ちが、人生を、まったく違うものに、変えてしまう。

 

私の話は、ここからだ。
私は、日々を過ごしていて、憤(いきどお)りを、覚えることがある。
メディアに登場する、少なからぬ論者が、自分の生まれ育った、環境からの恩恵に、無自覚であることだ。
要約するなら、マジョリティゆえの、無自覚な特権性、ということになるだろうか。
政治家や、医者や、教育者等が、気にさわるほど、偉そうに語っていることがある。
リベラルな知識人の言葉にも、高慢(こうまん)さが、たびたび含まれている。

典型的には、「成功者の私」が、「失敗者のキミ」に教えてあげる、とでもいうような、語り口だ。
「自分は努力によって成功したが、キミはそうではない。もっと強い意志を持って、精進せねばならない」、と教授するような、そんな、話ぶりだ。
個人的な落ち度があるかのように、聞こえてしまう。私のような貧困層や、「生産性」の低い者が、悪いのだろうか。

(いわゆる、自己責任論にあたるものだ。
しかし、私が本当に言いたいことは、これほど、明確ではない。
もっと、うっすらと、微量な含み方をしている。
ある種の、寛大な語りに含まれていることも多く、批判しづらい。
私はこのあたりのことを、うまく抽出することができない。)

 

無自覚にも、高慢な語り口でいられる人は、おそらく、大病の経験や、マイノリティの当事者性に、あまり苦しまないできたのではないか。
安全な環境で、心身が脅かされずに、育ってきた人が、多いと思われる。
権力や知識の有無は、個々人の努力を反映している、と思われがちだが、実際は、かなり怪しい。
学歴一つとっても、個人の努力だけで、決まるものではない。
子どもの学歴と、親の収入には、はっきりとした、相関関係がある。
例を挙げると、東京大学の入学者は、富裕層に偏っている。
東大生の家庭は、四割が、年収一千万円以上、だという。
上野千鶴子は、2019年の、東大の祝辞で、格差を指摘している。
当人たちに向かって、「あなただけの努力でここまできたわけではない」、という趣旨のことを、言いきった。
そのときの祝辞では、東大における男女格差についても、告発されている。
もう四年前の話になるが、記憶に残る、スピーチだった。

 

もしも、あるエリートの「成功」者が、なんらかのマイノリティであったなら、高慢な語り口は、できなかったはずだ。
もしも私のような、マイノリティだったなら、横暴な言葉を振りかざす人間には、なれなかったはずだ。
(私は、「不登校」や、「ひきこもり」を経験した、アダルトチルドレンで、セクシャルマイノリティの、貧困層だ。しょせんは、非障碍者の、「男性」という特権性の上でのことだが。)

私は普段、比較的穏やかとみなされる性格を持って、一市民として、それなりに、穏当に暮らしている。
しかし、内心では、「こんなはずではなかった」、という、何者かへの怨嗟(えんさ)が、熱く煮えている。
苦渋の中で、怨恨(えんこん)の気泡がふつふつと、静かに出続けているような、状態でいる。
私は、悔しい。
ある政治家の、無知蒙昧(むちもうまい)が。ある企業家の、したり顔が。ある精神科医の、横柄(おうへい)さが。私は、悔しい。
生まれ育ちが違えば、まったく違う立場で、あったはずだ。

 

旧約聖書のうちでも、特に重要な『ヨブ記』に、このような記述がある。
ヨブは、耐え難い試練に見舞われ、絶対的な存在である、神を疑う。
それらは当然、周囲の人々から、糾弾(きゅうだん)される。
ヨブも、人々の批判が正論であることは、わかっている。
それでもなお、ヨブは、弁論する。

そんなことは聞きあきた、
君たちはみなわずらわしい慰め手だ。
風のような言葉にははてしがあろうか、
いったい何が君を駆って言葉を続けさせるのだ。
わたしとても君たちのように語りたくなるだろう、
君たちとわたしが位置を交換できれば。
わたしも言葉をもってがなり立て
君たちに向かって頭を振りたいものだ。(関根正雄訳)

立場が反対だったなら、語る言葉も、反対になっていただろう。
私は、なぜこのような人生の、このような人間になったのか、と嘆く。
十代の頃、学校へ行くことは、本当にできなかったのか。
孤立しない生き方は、できなかったのか。
――ACや、LGBTだからって、苦しみを、抱えていることはない。なぜキミは、今からでも努力しないのか?ひきこもり経験者だって、成功した人間がいる。キミも頑張って、資格の勉強でも、始めてみたら、いいではないか?将来のために、もっと、強い意志を持って、さらなる努力を、すべきではないか――? 

私だって、環境が違えば、誰かに向かって、そう言えたかもしれない。
脅かされることのない、裕福な立場から、誰かを批評し、叱咤激励できるほどの、「有能」な人間で、いられたかもしれない。
誰かにため息をつき、頭(こうべ)を振って、説教できたかもしれない。

しかし私に、そのような人生は、ない。
惨憺(さんたん)たる生活に甘んじながら、誰かの「正しい」主張を、耳にしているばかりだ。

 

 

 

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文 喜久井 伸哉(きくい しんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。ブログ http:// http://kikui-y.hatenablog.com/