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『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

ひきこもり基本法は誰のために ~ 法制化する意味を蚊帳の外から考える ~ 【地域で支えるひきこもり 第8回】



文・ぼそっと池井多

正論と真論

ひきこもりの世界を一般の方々へ説明するときに、私はよく「正論」と「真論」という語を使う。

家族や支援者を含め、ひきこもりでない人々がひきこもりに関して語っていることは、「働かざるもの喰うべからず」にせよ、「地域で支えるひきこもり」にせよ、表面的にはみんな正しくて、どれも正論であることが多い。しかし、ひきこもり当事者の感覚からすると、どうも何かが違うように思う。

では、それに対してひきこもり当事者たちが語っていることは正しくないのかといえば、そんなことはない。それなりに正しいのである。いや、「正しい」と言うよりは「真実」なのである。そのため、いわゆる「ふつうの人たち」が語る「正論」に対して、ひきこもり当事者たちの言葉を私は「真論」と名づけた。

なにやら仏教、それも密教か禅宗の用語のようだが、そうではない。

ぼそっと池井多 講演スライドより

「正論」は、象徴的にいえば昼の言語である。
たとえば選挙カーの屋上に立って候補者が演説しているような言葉であり、隅から隅まで市民的な正しさで固め、論理も一貫しているように聞こえる、政治の言葉である。

それに対して「真論」は夜の言語である。
もともとひきこもりは昼夜逆転が多いが、夜も更けてからインターネット上を飛びかうひきこもりたちの言葉である。

政治家の演説には決して出てこない事実。公共の電波からはけっして流れてこない言葉。社会を支配する法令の体系が隠し持っている非合理性を暴き出し、現実から乖離した距離をあぶり出す語句の数々。……それらがひきこもりたちの真論である。

正論は、合理的な一貫性を持たせるためにエビデンス重視であり、真論は、エビデンスが出せない深い領域を言葉にするので、主観的なナラティブが中心となる。

正論は体系から成っており、真論は泥沼として広がっている。

正論と真論が真っ向からぶつかるのであればまだ良い。ところが多くの場合、それらはぶつかりもしない。幾何学でいう「ねじれの関係」、つまり立体交差のような位置関係にあるため、語られている平面がちがっていて、交わることがないのである。

ぼそっと池井多 講演スライドより

悲願の法律

なぜ「正論」と「真論」という概念を冒頭に長々と説明したかというと、それが今から私が論じようとしている「ひきこもり基本法」に深く関わるからである。

通称「ひきこもり基本法」はかれこれ20年も前から制定が求められてきた法律らしい。しかし、実際にどのような条文が案として用意されているのかは一般に知られておらず、その点は大きな謎に包まれている。

いいかえれば、ひきこもり界隈のなかでも極めて特権的な立場にあるトップの人々しか具体的な内容を知らず、私たち一般のひきこもり当事者はほとんど何も知らないのが「ひきこもり基本法」だ。

「ひきこもり基本法」というからには、それは「ひきこもり」のための法律であるはずだが、主人公であるひきこもり当事者が何も知らないというのは、いささかおかしな話だと言わざるを得ない。

 

10月7日、私が主宰を務めるオンライン対話会4Dフォーディーは、

ひきこもり基本法は私たちをどう変えるのか

というテーマで開催した。しかし、条文案が公開されていないため、インターネットで収集できる周辺情報をかき集め、それらをジグソーパズルのようにつなぎ合わせて推測していくしかなかった。

 

なぜひきこもり基本法が必要なのか

なぜひきこもり基本法が必要なのか。

おそらくこの法律を制定しようとしている人たちが一番に掲げる理由は、「ひきこもりを対象とした法律がないから」であろう。

たとえば、学校へ行かない児童生徒のためには教育機会確保法(*1)があり、「死にたい」と思う人のためには自殺対策基本法(*2)があり、生活に困っている人のためには生活困窮者自立支援法(*3)がある。

これらの法律が対象とする人々は「ひきこもり」と微妙にかぶる(*4)が、ぴったりと一致するわけではない。たとえば、もう不登校といわれる年齢ではなくなった大人で、差し迫って死にたいというわけでもなく、明日の食費に困るほど経済的にも困ってもいない「ひきこもり」はどうしたらいいのか。……いわゆる「制度のはざま」というやつだ。そこで新たに「ひきこもり」をド真ん中に据えた法律を作ろう、ということらしい。

では、いま行政のひきこもり支援は、法律もないのに、なぜおこなわれているのだろうか。その法的根拠は何だろうか。

それは、厚生労働省(*5)や文部科学省、内閣府などから各自治体へ出された通達通知(*6)であったり、改正社会福祉法(*7)や地方自治法(*8)の一部条項といった法令であると思われる。

 

*1. 教育機会確保法 正式には「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」。2017(平成29)年施行。
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=428AC1000000105_20230401_504AC0000000076

*2. 自殺対策基本法 2006(平成18)年施行。
https://www.mhlw.go.jp/content/000527996.pdf

*3. 生活困窮者自立支援法 2015(平成27)年施行。
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=425AC0000000105

*4. 微妙にかぶっているが、ちゃんとひきこもりに運用されるように通達もされている。

*5. 厚生労働省による通達・通知 たとえば代表的なものは2019(令和元)年6月14日づけで厚生労働省 社会・援護局 地域福祉課長から各自治体の生活困窮者自立支援制度主管部署宛に発出された「ひきこもりの状態にある方への自立相談支援機関における対応」という通知である。以後もそれに追加するかたちでいくつもの通達・通知が発出されている。

*6. 通達・通知 「通達つうたつ」とは、上級の行政機関が関係する下級の行政機関や職員に対してその職務権限の行使を指揮し、職務に関して命令するために発出する文書のこと。ただし、法的な指揮監督権がない相手方への示達は慣例的に「通知」と呼ぶ。

*7. 改正社会福祉法の一部条項 「重層的支援体制整備事業」の創設を規定した社会福祉法第106条の4。同法は2021年4月に改正されたもの。

*8. 地方自治法の一部条項 同法第245条の4第1項の規定による「技術的な助言」であることが言及されている。
例 文部科学省からの依頼「ひきこもり支援における関係機関の連携の促進について」2021年10月
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/mext_00039.html

www.mext.go.jp

 

支援の温度差は解消できるのか

「ひきこもり基本法を制定すれば、ひきこもり支援が各自治体にとって義務になるから、自治体のあいだにある温度差が解消できる」

という人々がいる。
たしかに、自治体によってひきこもり支援には温度差や濃淡があることを私もよく知っている。支援を受ける側からすれば、令和の日本語でいう「自治体ガチャ」である。

またどこの自治体にも、ひきこもり支援に熱心な職員とそうでない職員がいるものだ。熱心な方は経費で落ちない分に自腹を切ってまで、ひきこもり支援に走り回ってくださっている。そのような中で、熱心でない担当者にあたってしまうのは、さしずめ「職員ガチャ」である。だから、熱心でない職員に当たったからといって、その自治体のひきこもり支援ぜんたいを批判するのは、ほんらい正しい批判とはいえない。

 

私がある地方都市、A市へ行って、そこに住む当事者さんの依頼を受け、彼を行政の支援につなげようと当地のひきこもり相談窓口に来所しようとした時のことを、本誌にも書いたたことがある。(*9)

来所のアポイントメントを取ろうにも、メールは受け付けていないというので、電話恐怖症の私は泣く泣く電話をかけた。

ところが電話に出た職員は非情にも、
「今日は担当者が不在なので、また別の日にかけなおしてくれ」
などとのたまう。

私は何日もA市に留まるわけにいかないので、結局その当事者さんを自治体の支援につなげることはできないままオメオメと敗残兵のように東京へ帰ってきた。私の目には、これがA市のひきこもり相談窓口による面倒くさい相談者を追い返すための水際作戦に見えたものだ。「行政の怠慢」とも言えそうだし、厚生労働省の通達にたがうようにも思われた。

しかし、このようなことが起こるのは、はたして現在のひきこもり支援の法的根拠が強制力を持たない「通達」にすぎないからだろうか。逆にいえば、もし強制力を持つ法令を作れば、このようなことは起こらなくなり、ひいては全国どこの自治体でも一様のひきこもり支援が行なわれるようになるのだろうか。

ここで「そうだ」と答えるのは正論の平面だと思う。真論としては「こういうことは法律を作ったところでしょせんは同じ」と考えるのである。

 

それはなぜか。

まずA市は厚生労働省の通達に背いたり、改正社会福祉法に違反していたわけではない。

ちゃんとひきこもりの相談窓口を設置しているし、重層的支援体制も敷いているようだし、そこに担当者もおいている。担当者が勤務時間帯に居眠りをしていたわけでもない。
ただ、担当外の職員が担当外の仕事をする熱意を持たず、熱心な職員をフォローする体勢が部署内のシステムとして整備されていなかっただけである。それすらも、もしかしたらそれぞれの職員がかかえているそれぞれの担当職分で精一杯だったからにほかならず、通達に背く意図などなかったのだ、と好意的に解釈したい。

行政には「公平性の原則」というものがあるが、これなどは正論の平面に属する概念の最たるものだといえよう。真論の平面からすれば、自治体で働いている職員は皆それぞれ違う人間なのだから、一人ひとりがまるで機械のようにいつでもどこでも寸分たがわない同じ対応をするわけではない、ということになる。

また、逆にもしひきこもり支援というものが、そのようにいつでもどこでも寸分たがわぬ機械のような対応でおこなうべきものならば、AIを使って全国統一して自動化してしまえばいい、ということになる。

ところが、そうではないだろう。相談者はAIが答えるチャットボックスのような対応ではなく、人間的な対応を求めている部分が大きい。そこで「人間的である」ということは、個人差があるということを含むのである。

こうしたことはひきこもり支援のみならず、すべての末端福祉行政に言えるだろう。それだけに、たとえば福祉行政のフロントエンドにおける運用の差異を集めた研究が価値を持ったりする(*10)

私がA市で体験したようなことを避けるために、たとえば、
「ひきこもり当事者からの相談受付は、電話だけでなくメールやSNSでもおこなうこと」
「担当職員が不在のときは代わりの職員が相談者からの相談内容を聞いて対応すること」
といった細かい点まで法令で規定することは可能か。

原理的には可能だろう。
しかし現実には、そのようなレベルでの具体的な規定は、法令に基づいた「規則」で定めることが多いようである。そして「規則」の根拠となる法令は、必ずしもひきこもり基本法のように新しく作られる必要はなく、現在の支援に運用されている既存の法令でまかなえる。

ぼそっと池井多 講演スライドより

そういった意味からも、私が体験したA市のケースは、ひきこもり基本法を作っても現実にはあまり変わらないのではないか、と思われる。強制力を持たせた法律を作ったからといって、担当でない人に担当外の仕事を強制することはできない。

また、埼玉県(*11)神奈川県大和市(*12)などの自治体は、すでにひきこもり基本法の条例版といえそうな条例を持っているが、このような自治体においてそのような条例を制定したからといってとくにひきこもり支援が「進んだ」という話も寡聞にして聞いたことがない。反対に、ひきこもり支援が「進んでいる」と聞く自治体に、ひきこもり基本法の条例版のような法令が存在するかと言えば、これもまた私の不勉強のせいだと思うがそうは聞かないのである。

 

結局、法律があろうとなかろうと、やる所はやる、やらない所はやらない、ということになるのではないか。

法令は現場において範囲内で運用できる一方、範囲をマイナスに振れば合法的に手を抜く助けにもなる。だから真論として考えると、この文脈において支援は「法令」や「制度」よりも、「人」であり「出会い」なのだ。

したがって「問題があるなら法令を作ればよい」という発想ではダメだと思う。もちろん法令が必要になる場合も多いが、法制化することが問題解決の万能薬などではないことは肝に銘じておく必要がある。(*13)

たとえば、いじめの根絶を目指していじめ防止対策推進法(*14)が2013(平成25)年に施行された。しかし、この法律が施行されてもいじめはなくならず、旭川女子中学生いじめ自殺事件(*15)を初めとして、数々の凄惨ないじめ事件は後を絶たない。最近では9月に福岡で女子高校生がいじめ被害を訴え自殺している(*16)

かくして、いじめ防止対策推進法は、
「法令を作っても問題が解決するわけではない」
という現実を語る代表例のようになり、存在するだけでほとんど役に立たない「お飾り法」として存在している。

 

また先日、埼玉県で虐待防止条例(*17)の改正案が提出された。
子どもの虐待が起こらないようにしたいからそういう法令を作ろう、というのはまことに正論である。しかし、正論に基づいて法令を作ろうとしたら、かえって法令にしばられて当事者たちの生活が不便になることが指摘され、県知事は、
「現行法で対応できる問題。新しく法令を作るニーズはない」
と表明し(*18)、提出した議員団は改正案を取り下げたようである。

 

基本的に、法とは人をしばるものである。
福祉関係の法令がたくさんできると、それだけ人々が弱者にやさしくなり、社会が良くなると思いがちだが、実際はそんな単純なものではなく、社会がそれだけ自然状態(*19)から離れ、融通が利かない世の中となり、「生きづらさ」が増すという側面もあるのだ。

 

*9. 本誌ひきポス 攻めよりも守りを 「地域で支えるひきこもり」を考える 第7回

www.hikipos.info

*10. 全国で違う生活保護運用 ローカルルールを研究、実例集に(福祉新聞 2023.06.27)
https://fukushishimbun.co.jp/topics/30061

fukushishimbun.co.jp

*11. 埼玉県ひきこもり支援に関する条例 2022(令和4)年3月公布https://www.pref.saitama.lg.jp/a0705/hikikomorijourei.html

*12. 神奈川県大和市こもりびと支援条例 2022(令和4)年9月公布https://www.city.yamato.lg.jp/section/toshokan_jokamachi/komoribito/images/komoribito.pdf

*13. そのことは制定を要請している団体の先の幹部もわかっているようである。

*14. いじめ防止対策推進法 2013(平成25)年施行
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=425AC1000000071_20221001_503AC0000000027

*15. 旭川女子中学生いじめ凍死事件 2019(令和元)年~2021(令和3)年
https://ja.wikipedia.org/wiki/旭川女子中学生いじめ凍死事件

*16. 福岡高2女子いじめ被害訴え自殺事件 西日本新聞 2023(令和5)年9月 
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1126840/

*17. 埼玉県虐待防止条例 もともと2017(平成29)年に埼玉県で制定された法令。今回の改正案ではそこに「小学3年生以下の子どもに留守番をさせることは禁止」「子どもだけで公園で遊ばせたり、登下校させることは禁止」などの内容が盛り込まれていた。

*18. 埼玉県知事「新条例のニーズはない」 虐待対応は現行法で対応可能
https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/hoiku/76349/

sukusuku.tokyo-np.co.jp

*19.  自然状態 『社会契約論』を著し、近代民主主義の祖でもあるルソー(Jean-Jacques Rousseau 1712 - 1778)が「自然に返れ」といったのには、そういう指摘も含まれていると私は考えている。

 

法制度がもたらす「有徴化」

こんなことを見てきたものだから、
「法制化しても支援の最前線は実質的にそんなに変わらないだろう」
と私は考える。

しかしそういう考えを理解したうえで、こういう人もいるだろう。
「どうせ変わらないならば、新たな法令を作らせてやればいいじゃないか。それで作りたい人は満足するのだから」

たしかにそうである。
「法令を作る」という行為自体に社会参加の感覚を求めていて、それを得ることで人生の空虚を埋め、充実感を得たいために法令の制定に奔走している人々も居る。

また、一部の政治家のように、
「はい、私は法令を作りましたからね。それで務めは果たしました。だから次の選挙も私に投票してください。それで実際にお宅の問題が解決しようがしまいが、ぶっちゃけそれは私はどうでもいい」
と考えているとしか思えない人々も居る。

ところが、新たな法令を作ることにより、その法令の主人公である当事者たちが迷惑するとなれば話は別である。そして、そういう事例はこれまで枚挙にいとまがない。最近では、LGBT理解増進法(*20)の成立に反対の声をあげたLGBT当事者たちの姿が記憶に新しい(*21)

その法律がないころは、ひっそりと自分なりのペースで暮らしていけたのに、へたに法律が作られてしまったものだから、社会に意識されるようになり、かえって暮らしにくくなった。これでは理解ではなく差別を促進する法律だ、という批判であった。

 

また、これは以前から社会心理学や精神医学などで有徴化として知られる問題でもある。

ひきこもり関連の著作で知られる作家の上山和樹氏は「名詞化はひとをパッケージ化する」として「ひきこもり」という名詞を問題視した(*22)が、私はそれも有徴化問題の裾野であると思う。

つまり、名詞化は有徴化という作用がとくに強く働く磁場を持つが、なにも名詞化しなくても同類の傾向はどこでも起こりうる、ということである。

わかりやすく言えば、「ひきこもり」という名詞を生み出さなくても、社会が「ひきこもる (to withdraw socially)」という動詞的な現象をことさら意識するようになれば、ひきこもる人が周囲から不要な注目を集める場面が増えてくる。「こもりがち (reclusive)」といった形容詞でもよい。

人を分類すること自体が差別の淵源であることは、いまさら説明するまでもないだろう。法令が制定されれば、法令の対象となる人々はおのずから「分類」され、差別の対象として新設されるのである。

 

そこを、正論の人はこう考えるだろう。
「何かマイノリティの社会集団に対して新しく法制化がおこなわれると、それまでその集団を知らなかった大衆も、その社会集団を新たに意識するようになるから、それで差別が起こらないようになる」

ところが、悲しいかな、現実の人間はそんな性善説ばかりで動いてはいない。そういう法制化によって対象者にしるしがつけられ、よけいに暮らしにくくなるという現象も起こる。上記(*21)に言及したLGBT当事者たちは、そういう現実を見据えたのである。

 

ひきこもりに関しても、現実に起こった話として、ある地方のひきこもり当事者の方から、次のような笑うに笑えない証言を私は聞いたことがある。

ある田舎の過疎の村で、それまで当たり前のように地域社会に溶けこんで暮らしていた「働いていない人」が、メディアや行政がひきこもりに関して注意を喚起した結果、「ひきこもり」として有徴化してしまった。
そのため、もはや気安く外に出ていけなくなり、家の中にひきこもるようになった

 

このような実例からも、「ひきこもり基本法」などという、今よりもはっきりと社会におけるひきこもりの存在を一般の人々に意識させる法令を作ったならば、今までにもましてひきこもりが有徴化され、それによってさらにひきこもりになってしまう場合がじゅうぶん考えられる。

はたして法制化を求めている団体は、このような人間的な現象に対処するための条文を用意しているのであろうか。

ひきこもり「有徴化」による影響の一例か?
2023年7月31日NHK「あさイチ」を放送するテレビ受像機



法制度がもたらす分裂と分断

もし「ひきこもり基本法」がひきこもり当事者に歓迎されるとしたら、それは「ひきこもり給付金」やひきこもり関連イベントへ通う交通費を支給する条項であろう。

「何かもらえるなら賛成する」という当事者は多いはずである。私もそうだ。しかし、給付金である以上は、もらえる資格を明文化しなければならない。要請団体が政府与党へ提出している文書によると、

「ひきこもり支援の基盤となる新たな『ひきこもり認証評価』を明記した基本法の制定」(*23)

と書かれているから、ここで「ひきこもり」と認証された者だけが「ひきこもり給付金」の対象となる、という構想だと思われる。

では、どういう人が「ひきこもり」と認証されるのだろうか。逆にいえば、どういう人が「ひきこもり」から追い出されるのであろうか。

同団体による2022年版のひきこもりの定義によれば、
「ひきこもりとは、概ね自宅などにとどまり社会的に孤立していることによって、本人への支援が必要と判断される程度に生活上の困難を有している状態を指す。」
となっている(*24)

厚生労働省や内閣府がこれまで採用してきた、精神医学的な判断から派生したひきこもりの定義ではなく、新たに生活上の困難があるかないかでひきこもりを決めるようにしたいと考えていることがうかがえる。
これはひきこもりという生活状態を疾病化しようとしたり、ひきこもり支援そのものを医療化しようとする一部の精神医学者の企てを阻止するという意味では有用だろう。しかしその「生活上の困難」の有無は、誰がどのような基準で判断するのだろうか。

たとえば富裕層にもひきこもりはいるから、世帯収入は判断基準にならないだろう。外に出られるひきこもりの存在も認めているから、外出頻度でもなさそうである。多くの人々と交流があっても孤独に苛まれる人はいるから、交流人数ではないだろう。どんな便利な生活をしている人も、目を皿のようにして探せば「生活上の困難」は見つかるものだ。

 

すでに政府与党で「ひきこもりの定義」の見直しは始まっている。(*25)
これまでは社会参加を回避している期間が原則的に6ヵ月以上の者をひきこもりと認証してきたのを、もっと短い期間でも認証できるようにしようという見直しである。

だが、これによってひきこもりになったばかりの若い当事者は恩恵を受けるかもしれないが、長期高齢化した当事者たちに光が当たらなくなる恐れはないのだろうか。

また、ひきこもっているのが何ヵ月だから、何日だから、といった期間による判断では、それぞれの当事者が社会に対して持っている心のなかのハードルの高さや、他者と関わることができない理由などがなおざりにされる可能性もある。

 

*20. LGBT理解増進法:正式には「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」。2023年6月23日施行。

*21. LGBT法成立も当事者ら反発のワケ 日テレNEWS 
https://www.youtube.com/watch?v=FXyf0uOaFA0

*22. 上山和樹『動詞を解放する技法』多文化間精神医学会誌「こころと文化」第15巻第1号, 2016

*23. 2021年4月 p.01 https://tinyurl.com/3dtx5cfm

*24. 厚生労働省資料ページ  2022(令和4)年6月10日 
https://www.mhlw.go.jp/content/12602000/000948283.pdf

*25. 2023年6月19日 福祉新聞「引きこもりの定義改め早期介入 議連が厚労大臣に提言」
https://fukushishimbun.com/topics/30004

 

さて、このように「ひきこもり認証」の方法に多くの議論が必要とされているはずだが、それがどのような方法であれ、ひきこもり給付金がもらえる範囲を規定すると、そこに入る当事者と入らない当事者が生じ、ひきこもり界隈に分断が起こる可能性がある。

分断は、上から支配する側にとっては好都合だが、そのコミュニティを構成する成員(いわゆる当事者)たちにとっては歓迎できないことではないのだろうか。これまでひきこもり界隈以外のコミュニティにおいて、そのコミュニティに関わる法制化がおこなわれたために、そのコミュニティに深刻な分裂が起こった例は枚挙にいとまがない。

法制度を作れば、対象者の要件を明文化する必要が不可避的に生まれ、その要件から漏れた当事者たちが疎外されたり、明文化された内容によってコミュニティの全体像が変わってしまうということが起こる。

こうした過去の反省を受けて、「ひきこもり基本法」ははたして危惧される分裂を回避するためにどのような条文を案として持っているのかが注目される。

 

目的は労働力確保か

以上のように「ひきこもり基本法」の制定を要請する団体側の理由を想像してきたが、いっぽう要請を受ける側である政府の意向はどのようなものだろうか。

それは内閣府のウェブページ(*26)を見ればわかるように、かなり要請団体とは方向性のちがうものである。
ようするに政府は、少子高齢化社会の到来によって不足している労働力を確保し、低迷している経済を盛り返すための手段として、ひきこもりと呼ばれる人々の「社会復帰」(*27)を画策しているとしか思えない。

すなわち、もし政府与党が要請団体の求めに応じて「ひきこもり基本法」の制定に動くならば、それはひきこもり人口層を一億総活躍地方創生のために休眠労働力として活用するのが狙いとなりそうである。もしひきこもりが単なる失業者で、仕事が与えられるならいつでも喜んで働く人々だったならば、これによって両者の思惑は合致するだろう。

しかし、そうではないことは明らかである。
ひきこもりの中には「働きたい」「働きたくない」という気持ちが葛藤しながら混在しているものだと思う。その時々によって異なる側が表面に出てくるので、「就職氷河期プラットフォーム」のような単純な職業の供給では解決していかないはずである。

 

*26. 内閣官房 就職氷河期世代支援プログラム
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/shushoku_hyogaki_shien/index.html

*27. 社会復帰 私は、ひきこもりはすでにひきこもりであることで社会の一部である、と考えているので、ひきこもりがひきこもりを辞めて就労することを「社会復帰」と表現することには大きな抵抗感をおぼえるが、文脈上で一般名詞として「社会復帰」を使わざるを得ないときには使用する。

 

法令を作るよりも大切なこと

一般当事者は策定に関与できているのか

「ひきこもり基本法」制定運動に関しては、その法律の主人公であるはずのひきこもり当事者が法案の策定にどれだけ関与できているのか甚だ疑問である。

いちおう特権的な当事者が策定メンバーに加えられているようだが、特権的な当事者という時点ですでに一般当事者とはいえない属性を持ち、なおかつ形式上のアリバイとして加えられている感もあるため、それを以て「当事者も法案の策定に関わりました」とはとうてい言えない状況だと思う。

先日、某芸能事務所の記者会見で質問をしてよい「指定記者」と相手にされない「NG記者」が設定されているとして問題になったが、ひきこもり界隈も体制側が歓迎する「指定当事者」「御用当事者」と、相手にされない私のような「NG当事者」に分かれているのではないだろうか。

こうした状況で法令が決まっていくのは、一種の密室政治であるといってよい。もしひきこもり当事者に関わる法制度を決めていくのなら、やはり
Nothing About Us Without Us(私たちのことを私たち抜きで決めないで)
という当事者主権の原則に立ち返って、アリバイではなく実質的に当事者も加えてほしいものである。

 

「当事者」と「本人」

そもそもひきこもり当事者がこの法令の主人公ではないのではないか、という心配も拭い去れない。

「ひきこもり基本法」という通称によって、「これはひきこもり当事者のための法律なんだよ」ということを思わせているが、法制化をめざす団体が家族会であることから、
「実際には、ひきこもりの家族のための法律を作ろうとしているんじゃないの?」
という疑念を私は持っている。

最近、その団体はひきこもりの「当事者」という表現を使わず、代わりにひきこもりの「本人」と呼ぶようになった。本人・経験者・家族と分類しているのである。これは「家族も当事者」「家族会も当事者団体」だという主張と整合性を持たせるためだと推測される。

私には、この新しい分類の呼称は詭弁に聞こえる。
「当事者」という名詞は、「配偶者」などと同じく、「○○の」という限定修飾語がつくことで文脈における意味が定まってくる。ひきこもり界隈で私たちが語っているのは、言うまでもなく「ひきこもりの」当事者である。

たしかに家族も、家庭内で起こっている誰かの「ひきこもり」の生活状態から発生している問題の当事者かもしれないが、「ひきこもりの」当事者ではない。

また、従来の「ひきこもり当事者」を「本人」と表現するなら、「経験者」もまた「本人」であるはずだ。なぜ「本人」と「経験者」を別のカテゴリーにするのだろうか。

そして、そもそもなぜこの団体は呼び方の変更を行なったのだろうか。もしかしたらそれは、
「『ひきこもり基本法』は当事者のための法律だけど、『家族も当事者』だから家族のための法律で何が悪い」
といった論理を構築していくための布石なのではないか、と私はにらんでいる。

つまり、その団体はほんらいは「ひきこもり家族救済法」といった主旨の法令を作りたいのだが、そうすると
「ひきこもり当事者を放置して家族だけ救われようというのか」
といった批判が当事者たちから出てくる恐れがあるものだから、「ひきこもりの家族」を法案の主人公に持ってこずに、あくまでも「ひきこもり本人」が法令の恩恵を中心的に受けられるように印象づけるために「ひきこもり基本法」と通称しているのではないか、と私はにらんでいるわけである。

 

家族会で活躍している親を持った子どもの当事者

私のところへよく、
「家族会で活躍している親を持った子どもたちの当事者会を作ってください」
といった声が当事者の方から寄せられる。
お話をうかがってみると、親御さんが家族会の活動にのめりこみ、しかも活動内容が親自身の社会参加の手段となっているだけで子ども当事者のためになっていないので当事者が不満を溜めこんでいる、という状態であるようだ。

「それじゃあ当事者は、親がやっている家族会に出て、そうした不満を吐き出せばいい」
という方がいるかもしれないが、それは家族の論理であって当事者のそれではないだろう。

家族会の常連メンバーはみな家族同士つながっている。ただでさえ引っ込み思案の当事者がそういう場に入っていって会の雰囲気に逆らって何かを発言することは、ハードルが高すぎるのだ。そんなことができるなら、そもそもひきこもりになっていないだろう。
だから、「そういう悩みを持った子ども当事者たちだけで語り合える場がほしいから作ってほしい」と私におっしゃるのである。

 

ひきこもりを問題として抱えるご家庭はどうしても閉塞しがちである。だから、親御さんが何か社会的な活動をして、エネルギーを外に発散するのは悪いことではない。

しかし、その内容がいま自分の目の前にいる「ひきこもり」から逸れていき、親自身の社会参加としての活動としての側面ばかり強めていくとなると、子ども当事者は、
「社会へ出ていけなくて苦しんでいる私のひきこもりをダシにして、親自身が社会に対して持っている承認欲求を充たしているだけじゃないか」
と感じるようになる。
ところが、家族会の活動は、いちおう親が「ひきこもりの子」のためにやっているはずだから、このタテマエに押しつぶされて、子ども当事者は憤懣のやりどころがなくなっていくのである。

もし「ひきこもり基本法」制定運動が、じつはひきこもり当事者のためではなく家族のためだということになると、ひきこもり当事者から見たその運動は、自分をダシにした家族の自己満足ということになるのだ。

 

私自身の親はひきこもり家族会をやっているわけではないので、私はそういう問題の当事者ではないため、私にそういう当事者会を作る資格はないと思う。けれど、そういう当事者たちの声を理解できないわけではない。

というのは、私の母親も社会に対する承認欲求に飢えた過活動的な人だったからである。母が地域の活動やPTA活動などあれこれ手を出していたことを、子どもの私は苦々しく思っていた。

なぜならば、そうやって母は外を走り回り、社会で活躍するぶんストレスを抱え込み、家に帰ってきて子どもの私を虐待しストレスを発散することで自らの精神的バランスを取っていたからである。わざわざ外からストレスを輸入して私に注入していたのに等しい。

母はそれでよかったかもしれないが、母のストレス発散の矛先となった私は、母からぶつけられた感情のゴミを体内に蓄積して身動きができなくなり、やがて働き始める齢になってひきこもりになったのである。

こうした経験を持つので、「親の会の親をもった子どもの会を」と求める当事者の方々には、私は強く共鳴するところがある。

 

先日、私のツイートに対してこのようなコメントをいただき、目から鱗が落ちる思いがした。

「家族会の大きな目的は『親が変わる』ことで、それ以上でもそれ以下でもない。」

そうなのだ。

原点に返ればそういうことなのに、私たちはいつのまにかそれを忘れているのではないだろうか。

 

「親が変わらないうちに子どもを変えようとしたり、社会を変えようとするのは方向を間違うことになる」

まさにこの言葉を「ひきこもり基本法」の制定に動いている人々に贈りたいと思う。

 

……「地域で支えるひきこもり」を考える 第9回

 

 

<筆者プロフィール>

ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
ひきこもり当事者としてメディアなどに出た結果、一部の他の当事者たちから嫉みを買い、特定の人物の申立てにより2021年11月からVOSOT公式ブログの全記事が閲覧できなくされている。
著書に
世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。

詳細情報 : https://lit.link/vosot
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