編集者註
韓国は、ひきこもりに関する社会環境が日本と最も似ている外国である。
韓国の若者たちが、ある意味、日本以上に厳しい社会状況にあることは、本誌でも以前にこのような記事でご紹介した。
そんな韓国でひきこもっていたモカ(모카)さんは、私が開催しているオンライン対話会「4D(フォーディー)」にもソウルから参加してくださっていたが、先月に東京へ来る機会があり、初めてリアルでお会いした。
本記事は、韓国の社会福祉士サニーさんが行なった質問に答えて、モカさんが語ったことを手記ふうにまとめたものである。
はじめ韓国のひきこもり関連団体のサイト「두더지땅굴(ドゥドジ タンクル / もぐらトンネル)」に掲載されたものを、私がミミさんから紹介され、再編集して日本語に試訳し、日本語に堪能なモカさん自身に校正していただいた。
文:モカ
編集(韓国側): サニー / ミミ
編集(日本側): ぼそっと池井多
こんにちは。モカと申します。
私は以前1年ほどひきこもっていました。
え? ひきこもりの期間としたら短い方だって?
そうかもしれませんね。
でも、持病の薬をたくさん服用し、社会的にまったく活動できなかった時期まで含めると期間は2〜3年になります。
持病とは双極性障害です。
この病気のために、私は韓国では国民の義務とされている軍隊にも行けず、病院の閉鎖病棟に2ヶ月ぐらい入院していました。
憂うつ感は今も私のなかにあります。
それが症状として表に出ていないだけです。
私のなかに私の精神がない
私が中学校2年生だったときに、父が植物人間になりました。
父は、私がそれから二十歳になるまで意識が戻らないまま生きていました。
父親が亡くなる直前に、私は日本へ留学しました。
私にとって日本留学は、現実逃避でした。
家では、意識が戻るあてもない父の看病を続けることで、私は心身ともに疲れ果てていました。
当時の私の生活には、たえず重苦しい空気がたちこめていたのです。
私は、
「私のなかに私の精神がない」
ということに気づきました。
だから、日常の重苦しい、望みのない生活環境から逃げ、どこか新しい場所へ行って生き直したかったのです。その場所が日本でした。
幼いころから、私は日本の文化が好きでした。
日本での暮らしは、特につらかったり、適応しにくかったりしたことはありませんでした。
しかし、日本にいる間に私の双極性障害が発症しました。
そのため留学生活を続けるわけにいかなくなり、私はあきらめて韓国へ帰ることになりました。
帰ってきたら、ひきこもりが始まったというわけです。
猫とインターネットだけが友達
あの2~3年の歳月を振り返ってみると、最も大変だったのは他者との意志疎通でした。
私は自分のことを「生まれ損ない」だと思ったので、すべての人と連絡を絶ちました。
でも、その一方で無性に人とつながりたい気持ちもあったのです。
独りでいるのはとても寂しいことでした。
当時、2012年から2013年にかけてのころは、インターネット上のコミュニティが今ほど活発ではありませんでした。
また韓国では、ひきこもりに対する認識がまだそれほど広がっていなかったので、他の人たちから見れば、私は「ただ家に居る人」でした。
私はものすごく孤独でしたが、もしかしたらどこかに自分と同じような状態で苦しんでいる人がいるかもしれない、とも考えていました。
なぜならば、私は日本の文化が好きなので、日本ではさかんにひきこもりについて語られていることを知っていたからです。
どうしても誰かとつながりたいと思ったので、私は猫を飼い始めました。
またインターネット上のコミュニティを通じて少しずつ自分の状況を言葉にし始めました。
それまで私は両親にも、周りにも、あまり話をしないタイプでした。
けれど、この時ばかりは、ともかく誰かに話をしたかったのでしょう。
ネット上には、 私の話を聞いてくれる人たちがいました。
コメントやリアクションをもらうと、それだけで心がなぐさめられました。
そのころ私が書きこんだ言葉にこんなものがあります。
「身体を怪我したら、その傷が治るまで静かな所で休養するでしょう。
ぼくは心に怪我をしているのです。だから今はひきこもっていることに何の不思議もありません」
これは私の合理化かもしれませんが、この言葉をたくさんの人に肯定されて、だいぶ気が楽になりました。
助けは求められなかった
そのような合理化が自分の弱い部分を弁護してくれたのはよいのですが、
「自分は故障した人間だ」
「一般の人とちがう」
「精神を病んだ患者だ」
「存在価値がない」
などといった考えがずっと私から離れず、自尊感情が低下するといったこともありました。
傷ついた患者にはケアが必要かもしれません。
誰かに助けを求めることが必要だったかもしれません。
でも、私は自分をケアしてくれる誰かを探して助けを求めたことはありませんでした。
唯一、ケアを求めた先が精神医療機関でした。
しかし、精神医療機関でも「ひきこもり」は病名ではありませんでした。
韓国社会で、2012年から2013年にかけての当時では、精神疾患を持つ者に対する偏見は2023年現在よりもさらに深刻でした。
そのため私は誰かに自分の状態を打ち明けることができませんでした。
誰かに私のケアを頼むことはできなかったのです。
私は自分で自分を理解しながら、時をやり過ごしていくしかありませんでした。
コロナ禍は苦労がなかった
「ひきこもり中に助けや力になった本や映画は?」
とよく聞かれます。
しかし、本や映画のようなものが、私にとって外へ出たくなるような契機をもたらすことはありませんでした。
それよりも、私はひきこもりになる以前に見た番組や、幸せだった幼いころに見た作品をたくさん見ることで癒されていました。
やがて外に出られるようになっていくと、
「また日本へ行きたい」
という希望をつなぎながら、日本の放送も多く見ました。
「ひきこもり生活はどんなものか」
というのもよく訊かれる質問ですが、これは本当にひきこもり当事者によってさまざまだとしか答えようがありません。
部屋から出られない人はとうぜんひきこもりと呼ばれますが、たとえ部屋から出られても社会的に孤立していれば、そういう人々もひきこもりだと思います。
韓国ではひきこもりに関する固定観念が強いです。
一般の韓国人は、ひきこもりというと、風呂に入らず運動もせずブヨブヨと肥満して住んでいる家はゴミ屋敷で臭くてたまらない、といった人のことを考えるでしょう。
しかし実際に会ってみれば、風呂も入らず掃除もしないひきこもり当事者は10人に2人ぐらいです。
私が出会ったひきこもり当事者たちは、みんな服もきれいに着ており、言葉もしっかり話せる人たちばかりでした。彼ら彼女らは社会的に孤立しているだけで、自堕落な生活をしているわけではありません。
この3年、コロナ禍によって、私たちは誰もが半強制的に社会的な関係から断絶させられました。
私は以前にひきこもりとして暮らしていく能力を培っていたので、いまさらコロナ禍はそんなにつらいものではありませんでした。
私は、ちょうどひきこもりを克服して、外へ出られるようになって、外へ出ていったところが社会的に孤立して、さらにコロナ禍が始まったために社会の中に行く場所がなくて、それで再び部屋の中に戻ってきてひきこもりました。
(了)
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