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暴力的支援団体(?)で働いてみて思うこと ~支援団体スタッフ徹底インタビュー~

インタビュー・文・写真 ぼそっと池井多

 

リバイバル版への序文

この記事は2年前、2022年4月に、

第1回「ここで働いてみて思うこと」暴力的支援団体スタッフ? 徹底インタビュー 
第2回「暴力的支援団体」スタッフインタビュー

という2回シリーズで本誌から配信させていただいたものを1回にまとめたリバイバル版である。

初回の配信時は長引くコロナ禍のために経済的不況が日本列島を覆い、本誌のような弱小メディアも手売りの機会がないために財政難に陥った。そこで、切り札として本記事を有料配信することにより起死回生を図ったのだった。

そのとき記事をお金を出して読んでくださった読者の皆さまには心から御礼申し上げたい。しかし、そういう方々は数としては少なく、本記事はそのままほとんど読まれないまま過去に埋もれていくこととなった。

それではもったいないように思われた。
映画などは公開から2年経つと無料配信されるものが多い。そこで弊誌の有料記事も2年経ったら無料で公開してみようか、ということになった。

月日が経ったぶん古くなった部分もあるが、一部を改訂するのみでリバイバル配信させていただくことにする。

 

インタビューに応じてくださった、ある全寮制自立支援団体でスタッフとして働く等々力とどろき(仮名)さんは、その団体では中堅のポジションであり、団体を代表できる立場ではないので、私のインタビューに応じることにより、団体が無用な批判にさらされることをつとに恐れていた。

そこで、彼の本名はもちろん、彼が働く団体も含め、「固有名詞はいっさい公表しない」という条件のもとにインタビューを配信することになった。

等々力さんが働いている団体を「暴力的支援団体」だと語るひきこもり当事者を、私は知っていた。また、等々力さん本人も自分の団体がそう呼ばれていることに異論を唱えなかった。そのため、インタビューは彼の働く団体が「暴力的支援団体」であるという前提で進行していった。

このような経緯があるので、この記事シリーズのタイトルを含め、複数個所において等々力さんが所属する自立支援団体を「暴力的支援団体」と表現している。

ところが、インタビューを文字に起こしてから編集部が調べたところ、この団体は既存メディアからの報道によって「利用者からの苦情があった団体」と報道されたことはあったものの、「暴力的支援団体」と報道された事実は確認されなかった。
読者の皆さまはその点をお含みおきの上、お読みいただきたい。

 

支援スタッフ自身の「生きづらさ」

ぼそっと池井多:まず、あなたがどのように今の支援団体のスタッフとして働くようになったのか、その経緯を教えてください。あなたご自身もかつてはひきこもりだったのでしょうか。

等々力:いいえ。私自身もいわゆる「生きづらさ」は抱えていましたが、ひきこもりにはなりませんでした。私はよく、うちの利用者さんには「自分はひきこもれなかった人間だ」と自己紹介しています。

ぼそっと池井多:「ひきこもれなかった」というのは、どういうことでしょう。

等々力:自分のひきこもる部屋がなかったとか、親がとても活動的でたえずあちこち連れ回されていたとか、今にしてみればいくつか理由を挙げることができます。

でも、そういうことも決定的な理由にはならないでしょう。ひきこもりになる理由が決定的に決まらないように、ならない理由も決定的に決まらないのです。今の仕事を始めてから、たくさんのひきこもり当事者の方々と接して、ひきこもる部屋がなくてもひきこもりになる人はなる、ということを学んでいます。

ぼそっと池井多:「生きづらさ」を抱えておられたというと、ご両親との関係などはいかがでしたか。

等々力:親に何かをやらされる、ということはありませんでした。むしろ放任だったのかもしれません。でも、何かをやっても親が認めてくれる、ほめられる、ということがありませんでした。それから、親は「これをやれ」は言わなかったけど、「それはダメ」は多かったです。

だから、私は勝手にやってこれたところがあります。こちらが相談しても、聞いてくれないじゃんと思って、私はだんだん親に相談しなくなりました。

ぼそっと池井多:「働く」ということに関してはいかがでしたか。

等々力:親に相談しないで、自分のやりたいようにやってきたんですが、そのかわり定着もしませんでした。何をやっても、
「自分がほんとうにやりたいことはこれじゃなくて、何か他にあるんじゃないか」
「ちゃんと親に認められるためには、何か他の仕事にしなくちゃいけないんじゃないか」
などと思って定着できなかったのです。
そのため、いろいろな職業や立場を転々としました。

ぼそっと池井多:安定した職業人生を歩んだわけではなかったのですね。

等々力:はい。そういう意味では、やっぱり自分が親に認められたいという欲求を追いかけ続けてきたのだと思いますね。
そうこうするうちに、ひきこもりの人たちの話を聞いて、欲求については共通している気がして、今の支援団体でスタッフをさせていただくことにしたのです。

 

支援団体で働いてみて思ったこと

ぼそっと池井多:始めてみて、どうでしたか。

等々力:じつは私はこの会社に入るまで、ひきこもりについてよく知りませんでした。今の仕事を始めてから、ひきこもりはいろいろな要因がかけ合わさって起こる、とても複雑でデリケートなことだと知りました。
今も仕事をやりながら、ひきこもりの人たちの感覚について学んでいるところがあります。

ぼそっと池井多:会社からは支援スタッフとしてどのような教育を受けましたか。

等々力:職場でまず、いちばん初めに言われたのが、
「自分たちが正しいことをしていると思うな」
ということでした。

「自分たちが、彼ら彼女らを変えられると思うな。
できるのは、ただ一緒にいるだけだ。
ただ心をこめて一緒にいることだけだ。
そのあとは、もうなるようになるしかない。」
と教育されたのです。

ぼそっと池井多:へえ、それは意外ですね。
それを聞いて、あなたはどう思いましたか。

等々力:最初は面喰らいました。
それまではひきこもりの支援といえば、とっても正しいことをやっていると思っていたので。

ぼそっと池井多:そりゃ、そうでしょう。施設に入ってこられた当事者さんとは「ただ一緒にいるだけ」で、何か就労訓練みたいなプログラムとかやらないんですか。

等々力:就労訓練というか、いろいろなことに慣れていくプログラムはいちおう用意しています。しかし、それに参加することは強制していないし、参加したからといって効果があるかどうかは誰もわからないのです。
正直いって、支援のプロであるはずの私たちにもわかりません。ある人には効果があるかもしれませんが、他のある人にはないかもしれない。

ぼそっと池井多:利用者さんのなかには、親から強制されてやってきた当事者もいるわけですよね。

等々力:はい、残念ながらいらっしゃいます。そういう家庭は、送り出す親の方もつらいようです。

 

当事者の人権をどう思っているのか

ぼそっと池井多:ひきこもり当事者の間にも、自立支援団体についての意見はいろいろありますが、少なくとも私が個人的に知っている当事者たちは、良い印象は持っておらず、「暴力的支援団体」と呼んでいました。
そういう団体による人権侵害などが行われたという報道もあります。

等々力:はい、知ってます。

ぼそっと池井多:そのあたりのことは、どう思われますか。

等々力:支援は暴力であってはならないし、当事者の人権は侵害されてはならないものだと思います。

ぼそっと池井多:でも現実に、いやがっている本人を連れてくるのは、当事者の人権侵害にあたるのではないでしょうか。
本人がひきこもりでなくなることを願っているのは親にすぎず、本人はひきこもりのままでいいと思っている場合もあると思いますよ。

かりに、本人がひきこもりから脱することを願っていたとしても、
「全寮制の合宿施設に入れられるのはいやだ」
と思っている場合もあるのではないでしょうか。

等々力:もちろん、あります。
本人がいやがっているのに連れてきていいのか、という点については、私たちにもつねに葛藤があります。

ぼそっと池井多:だったら、本人がいやがっているのに、無理やり連れてくるなどということは、やらなければいいじゃないですか。

等々力:少なくとも私たちは、本人がいやがっているのに暴力的に●●●●連れてくるということは絶対にしません。なぜならば、それは本人への裏切り行為になると考えるからです。
また、本人がひきこもりのままでいいと思っていても、それでその先どうするのか、ということに関して考えを共有しなければなりません。
親御さんからご依頼を受けている以上、私たちにはそういう問題にアプローチする義務があります。

ぼそっと池井多:そう、その「親御さんから依頼を受けている以上」という点がネックになるのだと思います。
ここで、「親御さんと契約してお金を受け取ってしまったから、連れてくるのだ」というのは、本人にとっては理由にならないと思います。なぜならば、本人が希望した契約ではないからです。

等々力:そのとおりです。だから私たちも葛藤するわけです。
でも最終的に、子どもの立場である当事者本人が、
「いったん親と離れることで自分にとって良いことがある」
と納得すれば、その問題はクリアされます。
実際、私たちの寮や施設に入っていただくことで、当事者さんが親の影響力を脱して良くなる部分がかなりあります。
ところが、私たち自立支援施設を批判する報道には、そういうことは書かれませんよね?

ぼそっと池井多:まあ、そうですね。
自立支援団体に批判的な報道は批判一色で、賛同する報道は賛同一色という、白黒どちらかという傾向があると、私は思います。
それはおかしいです。報道とはほんらいできるだけ中立的、客観的なものであるべきで、どちらかの方向へ煽動する目的の報道はジャーナリズムではなくプロパガンダでしょう。

たしかに、人間が報道する以上、「神の視点」のような絶対的中立な報道というものは原理的に不可能かもしれない。けれども、自立支援団体に関わる報道の偏向ぶりは、そのレベルではありません。

 

自立支援施設で行われていること

ぼそっと池井多:それでは客観的に考えて、当事者をそういう自立支援施設に入れることにはどういう意味があるのでしょうか。

等々力:合宿型の支援は、ジリツに向けた一つの方法にすぎません。ジリツは「自立」と「自律」、両方に書くことができますが、その両方の意味において言えることです。

ぼそっと池井多:なるほど。しかしジリツのためなら、他にも方法はあるでしょう。

等々力:そのとおりです。ここで私たちが合宿型を実施する理由は、まず第一に、先ほども申し上げたように、自分を認めてもらえる共同体の中で日々を過ごすことによって、親の影響力の及ばない場所で生きる力を獲得するためです。

ぼそっと池井多:生きる力というのは、はたして親の影響力の及ばない場所へ連れていかないと獲得できないものなのでしょうか。

等々力:そうとは言い切れません。他にも方法はあるでしょう。
でも共依存状態になっている親子には、離れて暮らす方法がとても効果的です。そこには本人への親からの解放と、親への子からの解放という二重の意味があるのです。

ぼそっと池井多:わかりました。それが第一の理由というわけですね。すると、自立支援施設に入れる第二の理由は何ですか。

等々力:第二は、ひきこもりについて偏見を持った一般の人々ではなく、生きづらさという同じ痛みを共有できる仲間と共に暮らすことにより、自分の良さも至らなさも、他人の良さも至らなさも、全部ひっくるめて受け容れられるようになるためです。自分も相手も、みんな良いところ悪いところがある人間なんだ、とわかれば人が怖くなくなります。

第三に、これは広く転地療養などの考えと似ていますが、それまでと違った環境で暮らすことが、それまで自分を縛っていた「とらわれ」を離れて新しく出発するのに適しているからです。

 

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入寮は本人の意思なのか

ぼそっと池井多:なるほど、そのように聞いていると、何から何まで正しいことばかりのようですね。
しかし、いちばん肝心なことである「はたしてそれは本人の意思なのか」という点が抜けているように思います。

私たちは「暴力的支援団体」を「引き出し屋」とも呼んでいますが、その行為が「引き出し」である所以は、本人の意思でないのに連れていく点にあるのです。その点についてはいかがですか。

等々力:入寮に際しては、多くの場合は親御さんからの依頼から始まって、本人に参加を打診します。そこで本人の意思を必ず確認するようにしています。私たちの場合、これはもう必須です。

一部の暴力的支援団体は暴力を使って本人を「引き出し」たり、親御さんに法外な料金を請求したりしているそうですが、私たちはそんなことは絶対ありません。

ぼそっと池井多:少し意地悪い質問かもしれませんが、御社も企業ですから利益は欲しいでしょう。ひきこもりを問題として抱える家庭の弱みにつけこんで、少しはぼったくっているということはないのですか。

等々力:そこは誤解があると思います。
日本の多くのひきこもり支援プログラムは、国や自治体からの委託を受けています。だから、よほどひどい金儲け主義でもないかぎり、親御さんに法外な料金など請求しなくても、企業として運転資金がなくなるということはないのです。逆にたんまり利益が出るということもありませんが。

少なくとも、私たちの会社に関していえば、「ぼったくっている」などということは絶対にありません。

 

なぜ利用者は施設から「脱走」するのか

ぼそっと池井多:いいでしょう、本人がいやがっているのに暴力的に引き出してくることはない、とうかがいました。

では、すでに連れてこられた当事者さんが、いざ施設に来てみたら期待していた所とは違っていて、「こんな所にはいられない。やっぱり自宅へ帰りたい」と思った場合はどうしますか。
いままで「暴力的支援団体」がらみで起こった問題を見てみると、たいてい施設から利用者が脱走することから問題が起こっています。本人が必死に「ここから出たい」と思わなければ、脱走など考えないでしょう。

等々力:おっしゃるとおりです。たしかに、全寮制の合宿で、一緒に暮らしていれば人間同士ぶつかることもあるし、関係がしんどい時もあります。
それにスタッフも人間ですから、対応を間違えたり戸惑ったりすることもあります。スタッフの多くも元当事者であり、お互いに人間として成長の途上にある同志なので、なおさらそういうことが起こります。
そういうときにぶつかったりすると、利用者としてはつらいから帰りたくなってしまうかもしれませんね。

ぼそっと池井多:やはりそうでしょう? 帰りたくなったら、帰してあげるのが本人を尊重することではないのですか。

等々力:そこは難しいところです。一見そう見えるかもしれませんが、短絡的にそうとは言えない場合も多い。一筋縄では行かないのです。

ぼそっと池井多:なぜですか。そこは重要なので、ていねいに教えてください。

等々力:たとえば、本人が本心では自宅に帰りたいわけではなかったりするのです。施設へ来るのに、当事者は皆、ものすごい心のハードルを越えてやってきます。
失礼ですが、ぼそっとさんは私たちのような寮へ入った経験はおありですか。

ぼそっと池井多:ないですね。

等々力:ならば、想像していただけるでしょうか。
当事者たちは、私たちの施設へやってくるときに、大きな覚悟を決めてやってきます。なのに、ちょっと帰りたくなったからといって、すぐ帰ってしまうと、その努力が無になります。それはもったいないとは思いませんか。

それから、私たちにとって利用者さんは親御さんから預かっている大切な命なので、ご本人を危険から守るということもしなければなりません。利用者さんが勝手に帰ってしまうと、その責任が果たせません。

もし利用者さんのことを「どうでもいい存在」だと思っていれば、私たちもすぐに帰すでしょう。その方が簡単なのです。でも、それでは本人を大事にしていないことになりますよね。

ぼそっと池井多:じゃあ、どうするんですか。

等々力:ここが私たちの仕事の正念場です。私は会社を代表して発言できないんですけど、私個人が仕事をしながらいつも悩んでいるのは、こういうところです。

ぼそっと池井多:では、あなた個人はそういう時どうしていらっしゃいますか。

等々力:とにかく本人ととことん話し合います。合宿生活のなかの、具体的に何がいやになって帰りたくなっているか、一つずつ語ってもらい、それぞれについて解決策を考えます。

ぼそっと池井多:それは大事なことだと思いますが、そこでいう「解決」というのが、どういう考え方に基づいたときの「解決」かにもよると思いますね。

等々力:私が持っている考え方は、こういうものです。……
もともと正しい答えがあるわけなどないですから、本人の言うことを聞いて、こちらの想いを伝えるというコミュニケーションの中からしか、答えにはたどりつきません。だから、マニュアル化もできません。毎回、問題はちがうから、そのたびに私たちは考えなくてはなりません。過去に起こったのと同じように見えても、毎回ちがう問題なのです。

でも結局、どこまでの管理が最適か、という問題になってくると思います。まったく管理しなければ、依頼主の親御さんに不誠実であるばかりでなく、ご本人にも不誠実なのです。かといって、管理が強すぎれば、本人の自己肯定感の回復は望めませんし、それこそご本人への人権侵害になってしまいます。

 

あなたたちも「暴力的支援団体」では?

ぼそっと池井多:「暴力的支援団体」の報道が出るたびに、あなたはどのように思っていますか。

等々力:どこか一つの団体がああいうふうに報道に出てしまうと、うちもそういう暴力的団体と一緒に見られて、ものすごくやりにくくなる部分があります。

ぼそっと池井多:そうでしょうね。しかし、あなた方の団体も「暴力的支援団体」の一つだと言っているひきこもり当事者がいますよ。私はそういう当事者に実際に会ったことがあります。

等々力:そうでしょうね。……そうだろうと思います。
たしかにうちが問題になったことが、過去においてありました。

ぼそっと池井多:その点については、どう思っていらっしゃいますか。

等々力:当事者もスタッフも、お互い人間同士ですから、関係は悪くなったり良くなったりします。そういうものでしょう、人間って。
そんな中で当事者さんが、
「もうここは非人間的な扱いをするから、いやだ。出たい」
とおっしゃったわけです。

本人が、
「こんなはずじゃなかった。もうこんなところにいたくない」
と思うようになれば、初めは良い場所だと思っていた施設も、自分を閉じ込める監獄に見えてくることでしょう。そうすれば、私たちスタッフはみんな「非人間的な扱い」をする者に思えてきて、「人権侵害」をしてきてくると感じ、「脱走してでも帰りたい」と思ってしまうと思います。

そうならないように日頃から努力しているわけですが、そうなった時にどうするか。そこで私たちがどういう対応ができるかですね。

さっきも申し上げたように、私たちとしてはこういうとき、ご本人の話を徹底的に聞き向き合うしかありません。そういうことをせずに、
「なんだお前、そんなことを言うか」
みたいなことを利用者さんに言っちゃって、さらに揉めて、よけい関係が悪くなるケースもあるんです。

そうなると、もう最悪です。
私たちも、利用者の人権を侵害したいなんて、これっぽっちも思っていないのに、結果的にそうなってしまう。それだけは避けなければならない。

じゃ、どうするのか。「こうあってほしい」という理想と、「でも実際はこうだ」という現実のはざまで、無数の言葉がせめぎ合う。
それらをお互いの心の中に落とし込み、形になるように拾い集めます。
答えのない問いなので、えらく時間がかかるときもあります。
でも、そうやって手探りで最適解にたどりついていくしかないのです。

ところが、そういうプロセスも何もすっとばして、ああいう感じで批判的にメディアに取り上げられてしまうと、
「なんだ、やっぱりあそこも暴力的だ」
という話になって、悪い風評として定着してしまいます。
それは、いっしょけんめいにやっている私たちからすると、とても悲しいことです。

ぼそっと池井多:じゃあ、どうしたらいいんでしょうね。

等々力:私は、「大事なのは、最後まで当事者さんと一緒にいる」ということだと思っています。途中で放り出したり、裏切ったり、何かを強制したりはしない。

強制したって、どうせうまくいかないんですよ。「暴力的支援団体」と批判されるリスクを引き受けながら、私たちは自分たちがやっていることを信じて、利用者さんたちと共同生活をしているのです。
私たちを「暴力的支援団体」だと言われる方には、「そうではない」と私ははっきり自信をもって言えます。

ぼそっと池井多:なるほど、そういう正念場のときに、マニュアルはないので、スタッフがご自分の頭で考える、というのはわかりましたが、御社全体の方針というものもあるのではないでしょうか。

等々力:うちの社の方針としては、そういうときにともかく
「自分が正しいことをしていると思うな」
「自分が『支援している』という驕りを持つな」
と言われています。
私も、それに尽きるのではないかな、と思います。

とにかく、ここに居たい、居てもいいと思う利用者さんたちといっしょに居る。
話を聴く。話し合う。
つまるところ、それしかできないのでは、と。

ぼそっと池井多:多くのひきこもり当事者と接してこられて、あなた個人は今、「生きづらさ」とは何だと思いますか。

等々力:多くの「生きづらさ」が、「自分の正しさを証明するために常に他人を否定しなければならない人の犠牲者」として生まれてくるのではないか、と考えています。

そういうとき、私は「正しさ」の怖さに震えます。
ある人にとっては、まさに生き延びるために必要なものであった「正しさ」が、他のある人には致命傷になる。諸刃の剣のようです。
「正しさ」という名のもとに「対話の拒否」と「排除」が起こります。それに抗おうとする叫びと絶望の沈黙は、紙一重であると思います。

でも問題の核心はシンプルで、そこから生まれる「この人は私の話を聞いてくれない」そして「世界は私の声を受け付けない」という絶望にあるような気がします。
私はこの連鎖を断つために、お互いに思ったことを話したり聞いたりできる小さな空間とつながりで社会を満たしていくことが、皆が生きづらさから抜け出す道ではないかと考えています。
傷つける人も、傷つけられる人も、どちらも罪はないのに、抜け出せない負の連鎖にはまっているだけなのだと思います。

そのためにも、自分たちの「正しさ」に酔わないこと。
自分が人を変えられる、支援というものができる人間だという慢心を持たないことだと思います。私自身はつねに排除される側とともにありたいと思います。

必要なのはゴールで待っている偉い先生ではなく、
「大変だよね、まあゆっくり一緒に行こう」
と、話を聞きながら隣を一緒に歩いてくれる誰かなのだと思うのです。

ぼそっと池井多:なるほど。・・・このくらいにしておきましょう。
今日は、あなたご自身の言葉で語っていただいた印象があります。
だいぶ厳しい質問もさせていただきましたが、それはお互いの「言論の自由」を尊重するためだったことは、もちろんご理解いただいていると思います。
どうもありがとうございました。

等々力こちらこそ、ふだん考えていることをいろいろ整理する良い契機となりました。どうもありがとうございました。

 

インタビューを終えて

接触できなかった「敵」

私もかつて「暴力的支援団体」を批判する記事を書いていた一人である。

ところが、書いているわりに、私は「暴力的支援団体」に自ら接触したことがなかった。そういう団体から人権を侵害されたと訴えるひきこもり当事者や家族の方々からお話を聴く機会はあったが、それは「暴力的支援団体」と対立する立場の専門家がお膳立てした場に限られており、そこには肝心な団体側の言い分を語る出席者はいなかった。

ひきこもり当事者たちの間に影響力がある専門家の中には、
「暴力的支援団体の関係者と友達になっている者は、私との友達関係を切らせてもらう」
という趣旨をSNSに投稿している方もいた。これは他に社会に寄る辺がない思いで生きているひきこもり当事者にとっては「破門」のように恐ろしい通告であった。
こんなこともあったので、もしひきこもり界隈と呼ばれるコミュニティに属していたいのなら、たとえ中身がわからなくても「暴力的支援団体」はとにかく批判しておかなくてはならないという存在であるような、いわばイデオロギー的な同調圧力が漂っているように私は感じていた。

本記事のインタビューに応じてくれた等々力さんが勤めるような「全寮制自立支援団体」は、一般メディアに「暴力的支援団体」として報道された記録はないが、利用したひきこもり当事者から苦情があったことは確認されており、一部の当事者たちからは「暴力的支援団体」として批判されていた。

そのため「全寮制自立支援団体の人のインタビューがしたい」などと言おうものなら、もうそれだけで「暴力的支援団体」の支持者と見なされ、ひきこもり界隈から追放されかねない空気が感じられていた。

そういう感覚を抱いていたのが私だけでなかったことは、のちに2024年1月になって開催させていただいた或るイベントの折に、他の参加者たちから同様の回想が続いたことからも明らかになった。

 

変化の到来

転機が訪れたのは2020年だった。

当の「暴力的支援団体」と目された団体から、それまでの「暴力的支援団体」に関する報道は誤りであるというクレームが提出され、NHKがこれを読み上げた。(その後クレームを出した団体は敗訴し、判決が確定している)また私自身には、「暴力的支援団体」を批判するひきこもり当事者を批判するひきこもり当事者からコンタクトが来るようになった。私としては依然として当時は何が正しい情報なのかわからなかった。

そこで私は、そのころ定期開催されていたひきこもり系イベント「庵-IORI-」 でそういうことをオープンに話せるテーブル(分科会)を開かせていただき、件の団体を支持する立場からも、また批判する立場からも、等しく対話をする場を設けた。すると、予想外に多くのひきこもり当事者・経験者が、私たちが「暴力的支援団体」と呼んできた団体を支持していることがわかったのである。20名あまりの参加者たちは、ほぼ半数ずつで賛成派と反対派に分かれた。

いっぽうでは、私の元へ体験談を寄せてくださる当事者や家族たちのなかには、「暴力的支援団体」を批判する専門家たちが支持する団体からの支援被害について訴える方々が混じるようになっていった。 


誤解のないように申し上げておくが、私自身は暴力的手法のひきこもり支援を受けることはまっぴら御免である。またひきこもり当事者の主権を侵害するいかなる支援にも反対する。
さらに、「暴力的支援団体」に指定された団体から支援被害を受けたひきこもり当事者などいない、などと申し上げるつもりもまったくない。私は実際にそのような団体の寮生活から命からがら逃走した当事者の方にお会いしているし、不当な診断書を書かれて精神病院に閉じ込められた当事者の方からご連絡をいただき、弁護士に連絡して救出に携わったこともある。

しかしそのことと、「暴力的支援団体」vs「ひきこもり界隈」という対立の構図を推進することはまた別である。


友敵理論とひきこもり界隈

ナチス・ドイツの理論的支柱となった政治学者カール・シュミットは、
「敵をつくれば国家は強くなる」
と言った(*6)。これは国家のみならず、広く共同体一般について言えることだろう。俗に「友敵理論」と呼ばれている。

 *6. カール・シュミットがこれを言ったのはあくまでも一般論としてであり、もともとナチスの政策を正当化するためではなかった。彼の言葉がナチスに利用されたのである。

 

いまさら言うまでもなく、ひきこもり当事者は各人各様、望んでいる将来像もバラバラである。
また「暴力的支援団体」とされた団体たちもけっして一様ではないだろう。各社それぞれに方針も方法論も異なる。さらに一つの団体のなかでも、そこで働いているスタッフの考えはバラバラのようだ。

反「暴力的支援団体」で盛り上がった経年の潮流は、このようにバラバラな支援者たちを「暴力的支援団体」と一括して「悪」というラベルを貼り、このような「敵」の設定を軸足にバラバラであった「ひきこもり界隈」が結束し、共同体として強くなる効果があったと思われる。

しかし、それによって一般の当事者や家族にはどのような影響があったのか、検証されてもよいのではないだろうか。

 

ひきこもり界隈と「対話」

今回のインタビューで等々力さんは、彼が勤める支援団体が社会的に掲げているタテマエを語るのではなく、あくまでも彼自身の言葉で誠実に自分の考えを私に語ってくれたと思う。対決型インタビューとして、彼にはいろいろ厳しい質問を投げかけたが、「言論の自由」の意味がわかっている彼は怒り出すこともなく紳士的に答えてくれた。その誠実さに私は敬意を持ち、また深く感謝もしている。

近年は「対話」というワードも万能薬のように使われるようになってしまったように思う。「対話」をテーマに含めば、イベントやシンポジウムが無難に企画として成り立つ。私生活や現場では「対話」などまったくやらない人も、「対話」という概念をもっともらしく語るだけで立派な社会的言説になってしまう。

そこへ行くと私は対話原理主義者ではない。対話に頼ることは多いが、すべての問題が「対話で解決する」などとはとうてい言う気になれない。

しかし、ひきこもりが日本社会で語られ始めて30年が過ぎた今、ひきこもりと対話の関係で思うことがある。人は、対話の可能性と不可能性を冷静に見極める必要がある。対話に不信感を持っている人も、かたや対話に信仰のような価値をおく人も、さすがにそのことには同意してくれるのではあるまいか。
ひきこもりに関することで何らかのかたちで対話を推進している方々は、予定調和的になごやかな場だけに儀礼的に「対話」という概念を持ちこむのではなく、立場が峻厳に対立する場にこそそれを導入し、何らかの役に立ててほしいとひそかに望むものである。

 

(了)

 

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