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散髪はアイデンティティ・クライシス 床屋恐怖症との闘争(および敗北)

文: 喜久井伸哉 画像:Pixabay

 

私は、床屋へ行くたびに、小さなセルフ・ネグレクト(自己放任)を起こしている。

床屋に求めるのは、私を、「物」として扱ってくれることだ。
「お仕事は?」とか、「お休みの日は?」などと、話しかけてきてほしくない。
丁寧なヒゲソリや、トリートメントのアドバイスも、いらない。
工場で部品を処理するように、ただすみやかに、カットしてほしい。
できるだけ早く立ち去りたいので、十代のころから、短時間で終わる千円カット(今や物価上昇で、千円以上するが)にばかり行っている。

 

床屋は、多くの人が日常的に利用する施設としては、かなり異例だ。

自分の頭部を、見ず知らずの他人にゆだね、ハサミを向けられて、自身の一部(髪)が、切断される場所だ。
病院を除けば、個人の体が、これほど無防備な状態で、他人から触られる場所も珍しい。
床屋が怖い人のなかには、発達障害で肌を触られたくないとか、先端恐怖症でハサミが怖い、という人もいる。
私は、単純に見ず知らずの人と顔を合わせて、世間話という荒行をしたくない、ということもあるが、それだけではない。
私は今後も、警戒心が治まらない気がする。

 


床屋に恐怖を感じない人も、比較的奇妙な場所だという点には、同意してくれるだろう。
哲学対話をおこなっている永井玲衣は、『水中の哲学者たち』(晶文社 2021年)という本のなかで、美容院は哲学的な場所だ、と述べている。

まず、希望の髪型を伝えるために、美容師から、「どうしたいですか?」と聞かれる。
これは、「どういう自分になりたいですか?」という、問いかけにつながってくる。
人は外見によって、自分がどのような存在であるかを示す。
永井氏は言及していないが、髪型の変化は、ルックスを良くするだけでなく、自己顕示欲や、社会的な立場の表明になるものだろう。
軍隊や、収容所や、学校で、頭髪の自由を奪うのは、個人が組織に従属している象徴だ。

また、美容院では、小一時間にわたって、鏡で自分の顔を見ることになる。
永井氏は、自分自身と、自分の鏡像と、美容師との、三者の対話が起きている、と指摘している。
自分がどのように自分を見て、また、人からどのように見られるのか、を問う空間になっており、哲学的、というのもうなずける。


私が床屋に怖さを感じる理由の一つは、「どういう自分になりたいか?」、という哲学的な問いに、答えを出せていないせいだ。
私は、特に奇抜な髪型を望んでいるわけではない。
ただ、男性の髪型としては、やや長めを好んでいる。
その、「やや長め」にすぎない数センチに、長大な支障が生じる。
おおげさにいうと、アイデンティティ・クライシス(自己同一性の喪失)の小爆発がある。

世間の一般的な男性像からすると、髪が長いこと。
それは、どういうことか。
(「世間」と「一般的」と「男性」という言葉の哲学性については、ここでは深く立ち入らない。)
前髪がまゆげより下に伸びたり、襟足がうなじを隠すくらいの長さになると、外見上の中性的・女性的な印象が増してくる。
そのためあまり長いと、人からの視線が、気になってくる。
気がかりなら切ればいい、というだけのことだが、ここには、いくつもの対立軸が関わってくる。
散髪のたびに、「『思い通りにしたい』という内圧」と、「『こうべきだ』という外圧」が、ぶつかってしまう。
自己と他者、
個人と集団、
男性性と女性性、
革新と保守、
能動と受動、
独尊と従属、
絶対性と相対性
欲求と当為(とうい)……など。
散髪においては、これらの対立を、乗り越えねばならない。
乗り越える、というより、対立をなかったことにして、何もかも、髪と一緒に、切り捨てねばならない。
べつに、髪型を好きなようにしたところで、誰かから何か非難されるわけでもないのだが、それでも、常識からわずかでもはずれた外観になってくると、どうにも、落ち着かなくなってしまう。

 

私は床屋で、セルフ・ネグレクトのような感覚が起こる、と言った。
それは散髪のたびに、対立軸というか、自分自身のニーズを、ないがしろにしているためだ。
これまでずっと、散髪のたびに、うっすらと、傷ついてきた。
自分からお金も払っているというのに、傷つくというのは、本来おかしい。

人によっては、整髪がケアの役割を果たしていることだって、あるだろう。
ファッションがそうであるように、気分が良くなることだってあるはずだ。
それに、トリートメントという言葉は、直接的に、「治療」の意味もある。
日常的には聞かないが、一応、精神医療の用語として、存在している。

精神科医で作家の帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)は、あるとき患者の病状について他の医師と話したとき、『治せないかもしれませんが、トリートメントはできます』、と言われたという。
患者の様態を整えたり、手当をする姿勢として、「トリートメント」という言葉が腑に落ちた、と著書のなかで語っている。

また、これは余談だが、邦画の『愛を乞う人』(平山秀幸監督 1998年)という傑作で、女性が整髪をする場面があった。
髪を整えることが、同時にケアを表す場面となっており、二重の意味での、見事な「トリートメント」をとらえていた。

私もいつか、散髪が、精神的なトリートメントになることが、くるのだろうか。
前回の散髪から、もう数か月が経ぎている。
この髪は、不自然な長さにまで伸びて、ボサボサになってきた。
近いうちに、また、床屋へ行かねばならない。

 

 

 

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ 
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2024/01/31/170000

 

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