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【男性の生きづらさ】 金や地位はなくとも日本語能力を磨いておく ~男のサバイバルについての一考察~

画:ぼそっと池井多 with Stable Diffusion 1.5

 

文・まさと

編集・ぼそっと池井多

 

生きづらさを抱えるなか、男はどうサバイバルすればよいのでしょうか。
女性の生きづらさを解決することをライフワークにしている上野千鶴子さんの『女たちのサバイバル作戦』という著書を土台にして、男たちのサバイバルについて考えてみたいと思います。
私の人生が詰んでしまった絶望的な状況からなんとか生きてきた実体験をご紹介し、女性の生きづらさや貧困問題と相対化することで男のサバイバルについて考察していきます。

 

社会から排除される病に罹った

私は幼少期から精神が不安定でした。
今から考えてみると、もともと脳内物質のバランスが崩れやすい体質だったのと、母親の言葉の暴力に常にさらされてたのが根本的な原因です。うつ状態には波があり、自分が競争社会に順応できるのだろうか、という不安をいつも抱えていました。
当時は「良い大学から良い会社」というコース以外の人生は大きな困難が伴いました。親もそれがわかってたのか、私の気持ちを聞くこともせず教育虐待をしました。私は進学以外の可能性がまったく模索できない状況に閉塞感を感じました。そのなかで、よりマシな選択として人生を楽しむ達人のように見えるラテン民族について大学で学ぶことにしました。

大学は本当に楽しかったのですが、日系企業に就職する以外の選択が見つけられませんでした。子供の頃から生きていけるのか不安で、ホームレスになるのではないかと脅えていて、落伍恐怖のようなものが人一倍強かったので、普通に就職してしまいました。なんの意味があるのかわからないような業務と、意地悪な年配の女性に年がら年中叱責され、精神が破綻してしまいました。クリニックを受診したら「入院しないと危険だ」と精神病院に回され、強制入院になりました。カルテが少し見えたら「精神分裂病」(*1)と記載されていて絶望的な気分になりました。

 

*1. 編集部註 当時の呼称。現在の統合失調症

 

公務員試験を受験する

退院しても、精神分裂病的妄想は強いままでした。妄想というか、自分が社会に適応できないダメ人間でホームレスになるのではないか、という暗い気分による強迫観念と言っても良いかもしれません。

弟が就職活動の一環として、公務員試験の予備校のパンフレットを持っていました。公務員なら私でも出来るのではないか、という安易な気持ちから、私は父に
「公務員試験の予備校に行きたい」
と相談したら
「学費を出してくれる」
と言ってくれました。

私は公務員試験の勉強に適性があったようで、予備校生活は充実していました。おかげで精神的にも安定しました。しかし、投薬された向精神薬に副作用があり、また精神分裂病を甘く見ていたので、そのうち服薬を止めてしまいました。早朝に起きて問題集を解き、予備校の開門と同時に自習室で講義前に勉強していたのですが、薬を飲まずこのような生活をするのは危険でした。不眠から始まって、異常性欲や危険信号があったので、精神病院を受診しようと思い始めたのですが、受診する前に錯乱状態になり入院となりました。

 

社会の偏見は厳しかった

入院中に徹底的な投薬を受け、半年くらいで退院したのですが、その後も陰性症状の無気力に苦しみました。

単発のアルバイトや日本語教師の資格をとって、日本語学校の非常勤講師をしたりしていました。精神疾患があるのを伏せていればとくに勤務に問題はありませんでした。ただ正直に精神分裂病のことを話してしまうと、公的な職業訓練の受講からも排斥されました。

精神分裂病が統合失調症と呼び名が変わるまで、犯罪者予備軍だとか優生保護法の対象と思う人が多かったように思えました。服薬は絶対条件なので、通院のためにその点は周囲には考慮してもらわなければなりません。そういう病気を持っていることを隠しながらフルタイムで働くことはとても困難でした。

 

精神障害が法定雇用率に認定される

そのころは実家に住めて、タダで食事が出来たので、焦らないで済みました。
「そろそろ何とかしなければ」
と思い始めたとき、私が住む埼玉県に、ニート支援のNPOに委託した支援センターができました。
そこに通いカウンセリングを受けていくなかで、障害者雇用で働く方法があると知りました。障害を隠さずに働ける方法があると知って、私は希望を持ちました。そのために、パソコン技能を習得しようと思い職業訓練を受験したら合格しました。訓練校の面接では精神疾患のことは伏せたのですが、入校したら就職支援の教官に「障害者雇用を探している」と相談しました。教官は実践的な訓練をしてくれる企業を紹介してくれ、私はそこで訓練を受け企業の就労に結びつけることができました。これが私の社会復帰の一歩になりました。

 

精神障害者を社会のゴミと思う母

障害者雇用で働くためには、障害者手帳が必要です。
「手帳を申請する」と言ったら、母親は感情的になり、
「障害者なんて社会で生きていけない」
などと根拠のない妄想をわめき散らし、私は辟易しました。エリート志向の女性は、差別主義者なのだと思いました。私が必死でサバイバルしていくために、愚かな母親は障害物でしかありませんでした。

こうした経緯を経て、ある損害保険会社で働くことになりました。
この会社は労働環境がものすごくよく、私に陰性症状があってもじきに仕事に慣れることができました。
やがて県の障害者交流センターのスポーツ施設が無料で利用できることを知り、仕事にも余裕ができたので、休日はそこのプールで遠泳をして体力をつけることにしました。向精神薬の副作用もあってメタボと言われていたのも解消し、陰性症状もなくなりました。食事を制限するのも統合失調症の症状を抑えるのに効果があると思い、昼食を高カカオチョコ50gだけにしました。そうしたら、今度は痩せすぎてしまい、水泳が出来なくなったので、運動はヨガに替えました。今もヨガは続けているのですが、精神の安定に効果的です。

 

損害保険会社を退職してから

ものすごい努力で統合失調症の陰性症状を克服し、仕事の貢献度があがり評価もされたのですが、全く昇給がありませんでした。低賃金のままでは親の死後の生活が不安だったので、所得を上げようと語学の資格にチャレンジしたり、すしアカデミーの土曜コースを修了したり、ピラティスインストラクターの資格をとったりしました。

世の中がどんどん過酷になってるのがプレッシャーでした。なのに厚待遇の正社員は、生活習慣病にもかかわらず過剰飲酒し、勤務中にしょっちゅうタバコを吸いに行っていました。私の気持ちはどんどん荒んでいき、会社の将来性も怪しく思って契約満了で辞めてしまいました。

日本料理の板前になろうと思い、雇用を探して、有限会社の寿司屋の板前見習いになりました。ここは長時間労働で休みも少ないため統合失調症の再発が心配なのと、生活に追われたことのない私はすし職人のなかで異質でした。
労働法の知識が全くない婆さんが威張っていたので、労基署に相談に行きました。円満退職できないようなら労基署が間に入る、と言ってくれて辞められました。続けてたらコロナでどうなってたかわかりません。

そのあとディスカウント店のアルバイトを月100時間程度やって最低限の収入を確保し、英語を勉強し本を読みまくりました。後に触れますが、活字から情報を得るのは、サバイバルにつながります。

 

親の介護問題

寿司屋を辞めて余裕のある働き方をしていたころ、父に末期ガンの診断がつきました。
私は在宅緩和ケアについての本などを読んでいたので、副作用の強い抗がん剤の治療は避けて、在宅で苦痛の緩和をしてなるべく家で看取りたい、というビジョンを提示しました。

家族で話し合いの場を持とうと躍起になった母には、なんのビジョンもありませんでした。
母が乳ガンで抗がん剤を受けたら生理が止まったらしいのですが、父のための話し合いの場でそれを言い出したので、いったい何のための発言なのか理解に苦しみました。
弟もノープランで、在宅ケアは父の意向に添っていたようでしたし、母のトンチンカンは不愉快で時間の無駄に思われたので、
「答、出たよね」
と私は話し合いから抜けてプールに行ってしまいました。

母のコミュニケーション不全にはこの先も悩まされます。その後、父のターミナル・ケアを担ってくれた中核病院に付属の訪問看護にお願いして、コロナで医療が崩壊状態のころ、父は安らかに息を引き取りました。

父が亡くなると、私は母と暮らすことになりました。こうなってくると母の介護も問題です。
介護のプロの力を借りないことには無理なので、
「介護保険制度を利用するには、まず主治医を持たないとだめだよ」
と私が言うと、母は私が悪意を持っていると妄想し、私が母を老人病院に隔離しようとしてると喚くのです。
母が資金的にじゅうぶんな介護を受けられるように父の遺産は全部母に相続させたのですが、認知症になると成年後見人以外は母の資産は動かせなくなります。そのため、このままでは共倒れになる危険がありました。
母は口を開けばトンチンカンな悪口ばかり、汚い音を平気で頻繁に出すので、私は母に、ゴキブリに感じるような生理的嫌悪感を持ってしまいました。こうなるともう母との同居は不可能と判断して、戸籍を分離し、単身で県営住宅に応募して無事入居できました。

 

新しい人生の基盤を築く

県営住宅に入居して、障害者手帳や自立支援を転入した市のものに再発行してもらう手続きを行ないました。ハローワークも大宮に担当が変わりました。手帳は2ヶ月くらいで手に入り、障害者雇用の求人に応募する準備が整ったので、そろそろ求職活動に本腰をいれます。県営住宅で独り暮らしをはじめて、野菜と肉を格安で買える場所を見つけ、玄米を30キロ袋で購入し、ぬか漬けを漬けて三食とも自炊しています。光熱費などの支出は想定したよりも安く、家賃も格安なので、障害者雇用の賃金と障害者年金を合わせたら余裕のある生活が出来そうです。

先日、障害者就労支援センターの面談を受けて登録してきました。センターで中年の男性がお茶を出してくれて、ジェンダーフリーのいい組織だというのがわかり、安心して支援をお願いできます。生活支援の登録も勧めてくれて、万が一私の精神障害が急に悪化したときに備えて、病院への福祉タクシーの手配や、働けなくなったら生活保護の申請のサポートをお願いしようと思っています。

また私が孤独死した場合、積み立てている年金型生命保険で特殊清掃とか散骨の代金を賄ってもらえるようにすることも考えています。
サポート体制も整い、最低賃金の障害者雇用でもフルタイムで就労すれば貯金ができそうなので、これでサバイバルの目途が立ったように思います。

もし父が建てた一軒家を相続していたら、固定資産税が結構高いし、火災保険等の保険料もかかりますし、一軒家は光熱費などユーティリティ支出が高いでしょう。それにリフォーム代金なんて出せません。おまけにトンチンカンな母親まで居ます。それを考えると、もし県営住宅に入居できなかったら、私はサバイバルできなかったと思います。

 

貧困と貧乏の違い

私の実体験を述べ終えたので、「サバイバル」という言葉を「生き死に」という意味ではなく、ここで「反貧困」ととらえて私が思考したことを述べてみようと思います。

女性の貧困についてのルポを読んでいたら、都内で十分な時給を得ているのに、貧困生活を送っている女性が出てきました。ネットカフェに泊まり、インスタント食品やコンビニ弁当を食べているのです。ネットカフェは一ヵ月で考えると割高で、インスタント食品やコンビニ弁当は生鮮食品を購入して自炊するより割高です。賃貸を借り自炊して生活するのに十分な収入があるのに、貧困になってしまっているのです。

公的な補助を調べて、敷金等を借り入れて公営住宅などに入居すれば、彼女の収入ではじゅうぶんに文化的な生活が送れることでしょう。お金がなくても、人間関係に恵まれ、情報強者であれば、貧乏かもしれないけれど文化的に生きられます。有効な情報から遮断されて、人間関係も断たれると、多少のお金があっても文化的に生きられません。この状態を貧困というのだと思います。

役所や支援団体から必要な援助を引き出してサバイバルするために、日本語能力は必須です。そこで私も今は日本語能力に意識を向けて日々コストの安い生活をしています。


・・・続く

 

 

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