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ガッコウの呪いから逃れるために。古今東西 脱学校の名言・発言・条文集 ~明治小学校令から村上春樹まで~

(文 喜久井ヤシン)

 9月1日は子供の自殺が多くなる。多くのガッコウの夏休み明けにあたるためだ。
 私は七歳でガッコウへ行かなくなった時に、人生で初めて自殺を考えた。どうしてこの時に命を去らなかったのかはわからないが、今は思う。ガッコウと言われるあの場所は、わざわざ死ぬにも値しないところだ。
 今回は「行かなければならない」と思わせるガッコウの呪いから逃れるための、古今東西の発言(名言・条例文・そして罵倒など)を集めた。気になったものだけでも拾い読みしてくれたらいい。

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Ⅰ 大人の言うことを信じないために。教師罵倒発言集

教師なんぞは、誤った教えと混乱と破滅をもたらすしか能のない連中だ。子どもを学校にやるのは、毎日そこらで出会うろくでなしにしてもらうためなのだ。
(トーマス・ベルンハルト『子供』)

 

学校なんて無理に行くことないんだ。行きたくないなら行かなきゃいい。僕もよく知ってる。あれはひどいところだよ。嫌な奴がでかい顔してる。下らない教師が威張ってる。はっきり言って教師の八〇パーセントまでは無能力者かサディストだ。あるいは無能力者でサディストだ。ストレスが溜まっていて、それらを嫌らしいやりかたで生徒にぶっつける。
(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』)

 

図画の教師は、生徒の目を萎縮させ、手先を不器用にしたし、唱歌の教師は、生徒の声をつまらせた。地理の教師は世界を画一で無味乾燥に、聖書の教師は驚嘆する心を閉ざし、体育の教師は体の動きを喜びではなく罰にした。
(ピーター・ブルック『ピーター・ブルック回想録』)

 

〔…〕わたしは、お子さんが牢獄のようなところへ押し込められることを望みません。お子さんが、怒り狂う学校の先生の憂鬱な気質にゆだねられることを望みません。ほかの子どもたちにしている仕方で、一日に十四、五時間も、人足か何かのように彼を苦しみさいなみ、その精神をすっかりだめなものにしてしまいたくありません。
(モンテーニュ『エセ―』)

 

私は、教育を一個の人間の仕事の全部を占めるべきものだとは思わない。教育は、一日、最大限二時間、それ以外の時間は子どもと無関係に過す人々の手で行われるのがもっともよろしい。
(バートランド・ラッセル『怠惰への賛歌』 )

 

〔…〕骨を折って子どもを悪くしておきながら、子どもが悪いといって嘆く。
(ルソー『エミール』)

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Ⅱ ガッコウの歴史(の裏側)を知るために。近代学校史

 英語のCompulsory Educationは「義務教育」と訳されているが、日本に入ってきた当初の訳語は「脅迫教育」だった。中国から来た「勉強」という言葉は、元々「勉(つと)め強(し)いる」で強制すること、「学校」の「校」の字源は「枷(かせ)」という意味で、拘束するということだ。ガッコウにまつわる言葉には、悪い由来のあるものがけっこう見つかる。

 日本にガッコウができた当初も、全然受け入れられていなかった。拒絶反応の最も強く表れた事例の一つは「伊勢暴動」だろう。明治9(1876)年、特に大規模なガッコウが破壊され、小学校被害は三重県のみで79校にのぼる。暴動の原因がガッコウというわけではないにしても、処分者が5万人以上という歴史的事件だった。
 私には、ガッコウに問題がなかった時期なんてまったくないのではないかと思われる。たとえば明治6(1873)年には、新聞記事で岡山の保護者の発言が出ている。

 

学校学校というて村々に子供を一所へ集る所をこしらえておいて、目印の旗に番付けを記して立てておくと、それを目当てに唐人が来て集めてある村中の子供を一度にしめ殺して生き血を絞るという説もっぱらにて、十日ばかり前より子供を学校へやることも止めたよし
(『東京日日新聞』 )

 

 大人たちの方が、ガッコウへ行くと殺されかねないから、子供に「行くな」と言っていた。
 また「学校嫌い」の子供たちは、たぶんガッコウができた瞬間から登場している。永井荷風が明治42(1909)年に発表した「すみだ川」では、行った方がいいけれど行けない、青年の心情が描かれている。

 

つまらない。学問なんぞしたってつまるものか。学校は己れの望むような幸福を与える処ではない。
(永井荷風『すみだ川』)

 

 その明治時代の小学校令を見ると、学校外での学びが公的に許されていたと読める箇所がある。

 

〔…〕市町村長の認可を受け、家庭またはその他において尋常小学校の教科を修めること
(小学校令(明治33年)第36条)※原文はカナ表記

 

 ガッコウは絶対的なものではない。それにもかかわらず、現代は子供にガッコウを強制している。

 

実のところ、暮らしのなかに学校があるというのではなく、学校のなかに暮らしがあると解していいような歴史的季節にわたしたちは居合わせている。
(生村吾郎 『学校のやまいとしての登校拒否』 ) 

 

そもそも、不登校問題は、学校制度が絶対的な規範性を帯びるという1950年代の社会的変化によって生じたものである。したがって、考えようによっては、不登校問題というのは、不登校を問題――病理とか逸脱とか――と見る時代や社会があるという、ただそれだけのことなのである。
(山岸竜治『不登校論の研究』)

 

 ガッコウって、思っている以上におかしいんじゃないか。ガッコウおよび教育を批判する言葉を、以下でさらに並べてみる。

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Ⅲ 日本の教育を疑うために。ガッコウ批判名言集

学校に行くほどバカじゃない
(辛淑玉 『この人が語る「不登校」』)

 

日本の受験問題は不合理でナンセンスだと人はこぼすけれど、学識とか知性をはかるのが目的であってはじめてこの批判は成り立つ。受験問題が、思考を放棄した盲目的服従(官僚制においては有用な性質)を測定するのが目的であれば、これほど優れた制度はない。
(『ダグラス・ラミスの思想自選集』)

 

学校は家庭をつぶし、地域を消滅させようとしている。家庭や地域は、白旗をかかげたというよりは、もっと積極的にそれぞれが子どもに果たしていた機能をみんな学校に押しつけようとしている。学校の絶対化はいよいよ進むだろう。学校に、家庭を、地域をとられてはならない。なんだかずいぶんおそまきの叫び声のようだけれど、しかし障害をもつ子の親としては叫ばざるを得ないのだ。学校は暮らしの場になりえないという当然のことを、私たちはいま確認する必要がある。
(最首悟『星子が居る』)

 

それにしても、それにしてもだよ。天気がいいにもかかわらず、月曜日から金曜日まで、朝早くから夕方まで、必ずすべての子どもがある同じスタイルで生きていくっていうの、本当に異常だと思う。身体も心もしなしなと柔らかく多感な時期に、ある強制の中で教室という空間に座って、黙って黒板をうつし、テストを受けることを毎日続けている。時々ならまだしも、毎日続けている。こんなこと生物の生き方としておかしいよ。こんなに異常な暮らしを幼いときからやっていると、多かれ少なかれ病気になるよと単純に思う。
(五味太郎『勉強しなければだいじょうぶ』)

 

〔…〕まさにこの重大な時期に、子供の生活は、生命のない、色彩のない、また宇宙の脈絡から外れた教育工場にもちこまれるのです。教育工場の、灰色一色の、何の飾りもない壁が、死者の瞳のように子供をまばたきもせずににらんでいます。花の上に雹が落ちるように、次から次へと授業の嵐が吹きつけている間、子供たちはじっと動かないで座っていなければなりません。
(タゴール「タゴール国際大学の教育的使命」)

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Ⅳ 最も大切なものを育むために。条文・通知集

多くの人が話し合って決めた知の蓄積から考えてみても、やはりガッコウのあり方はおかしい。条例や通知の文言を以下に挙げる。


   「子供の権利条約」から

締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。

(子どもの権利条約 第十二条)

 

子どもの権利条約の第十二条に「意見表明権」がありますが、あの意見表明権から考えても生き方の表現として、学校を拒否することがあっていいと思います。「そういうことをやっていてはわがままだ」とか、「好き勝手させていいのか」などと大人は言う。でもそんなことを言ってる大人の方が、子どもの権利を侵害しているんだからわがままなんだけど、大人はそういう認識まるでないですよ。
(渡辺位『不登校は文化の森の入口』)

 

   日本国憲法と「不登校の子どもの権利宣言」から

 

1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
(日本国憲法 第二六条)

 

私たちには、教育への権利がある。学校へ行く・行かないを自身で決める権利がある。義務教育とは、国や保護者が、すべての子どもに教育を受けられるようにする義務である。子どもが学校に行くことは義務ではない。

(不登校の子どもの権利宣言)

 

   最後に、文部科学省の最新の通知から。

 

不登校については,取り巻く環境によっては,どの児童生徒にも起こり得ることとして捉える必要がある。
(文部科学省「不登校児童生徒への支援の在り方について(通知)」)

 

不登校とは,多様な要因・背景により,結果として不登校状態になっているということであり,その行為を「問題行動」と判断してはならない。

(同上)

 

 全然知られていないけれど、文科省は2016年の通知で、「不登校」は誰にでもおこりえることで、問題行動ではないと言っている。(本当に言っているのだが、本当に知られていない。)さらに最新の動向では、「学校に戻すことがゴールではない」という方針転換まで出てきた。

 

(YAHOO!ニュース 「学校へ戻すことがゴールじゃない」文科省が不登校対応の歴史的な見直しへ)news.yahoo.co.jp 

 

 私はガッコウに絶望を味あわされてきたけれど、今後は大きく変わっていく可能性がある。教育で子供が死ぬ、という愚劣なんて、もう一件たりとも起きてほしくない。

 脱学校の時代が始まることを、私は真剣に望んでいる。(やってきたところで、私には遅すぎるにしても。)

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ご覧いただきありがとうございました。

 

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