文・写真 ゆりな
「来週のお天気を調べておこう」
今にも雨が降りそうな青黒い空を見て思う。
空に纏まった雲が泳ぎ、真正面に構えた大塊が、
私の行き先に一雫を落とそうとする。
表面に薄く青さを残しながら、
重たくなった涙袋のふくらみは
その縁から水瓶が溢れるのを堪えるように、
向こうの方で泣きたそうな表情を見せる。
私は車のハンドルを握り、これから向かう目的地まで "雨が降らないよう"祈った。
雨が降れば視界の悪いなか、運転しなくてはならない。
車から下りれば、当然服も濡れてしまう。
足元が悪いなか、今日1日行動しなくてはならなくなる。
それらを思うと、
私は、雨に降られることを"不運である"ように感じた。
自然に見えるこの感情。
しかし、この一瞬は、私に回想の一幕を下ろした。
空を見上げ、遠くの空の様子を窺う。
家の外で、自分の頭の上を気にする。
わざわざ首を「上」に向けて動かし、空を仰ぐこと。
それが私にとって、
いつの間にか会得していた作法であることに気付き、
少なからず動揺した。
天気のことなど気にせず、年月が過ぎてゆき、
社会人として仕事を始めても、
この頑なな思考は消えぬまま、私には「常識はずれ」な部分として、恥の意識に付着していた。
今までに経験したことのないこの感情は、
ドライブの最中、私の心に微動を与えた。
雨が降ろうと、「私の人生には関係ない」
脳裏に母の声が響く。
「明日の天気は、午後から雨が降るみたいだから、折りたたみ傘を持っていった方が良さそうよ」
小学生の頃から、私が明日の天気を最初に知るのは、いつも母の口からだった。
夕食どきなど、母は何気ないタイミングで私に天気を伝えた。
毎日の学生生活を滞りなく送れるようにと世話を焼く母の言葉は、私の日常に溶け込んでいた。
しかし、情報が先に与えられると、
私は率先して何かを知ろうとすることを怠り始め、
母のくれるその情報を無条件に信頼し、
母が日常生活において把握している方面については、
「私が調べなくても、ママが知ってくれていれば大丈夫」と、
自ら関心や注意を向けることはなくなっていった。
中学校に上がっても、
母のいないところで遊ぶことへの不安感、
出無精な母により、外に遊びに行くことそれ自体があまり肯定されることではなかったことなどが、
外へ出ようとする意思を削ぎ、
用事なく家で過ごす日々が、私から天気を知ろうする機会を遠ざけた。
私は、母の世界観の麓で生きていた。
母の頭のなかで解釈され、噛み砕かれた価値観が、私の体内に流れ込んでいた。
それはまるで、母親が口のなかで咀嚼した食べ物を、口移しで赤ん坊に食べさせるように。
すると、自分で情報を得ようとする、自発的な行動への気力が衰弱していった。
天気を知るためにテレビを付けたり、
天気予報が流れるであろう時間帯に、チャンネルを回して、明日の天気を確認するという習慣は
私には育たなかった。
そして時はそのまま、私の内心は自己否定へと移ろっていった。
小学校と比べ、格段に規模の大きくなった校舎へ大勢の人間が詰め込まれ、
私はその空間で圧迫された。
「私は価値のない人間だ」
大嫌いな自分を生かしておかなくてはならない非情な現実に、嘆き続けた。
目線を上げたところで、良いことなんてなかった。
顔を上げれば、人の顔。
正面を向くことが怖かった。
私の目線はこれまで常に「下」を向いていた。
自分に自信のなかった私は、
開け放たれた教室の中、同級生が埋め尽くすその場所で、目線を定めるために見ている場所がなかった。
友達といても落ち着かない。
誰かに見張られている感触が拭えない毎日は、
いずれいじめられる標的として、キープされていた。
顔を上げていれば、何を見ていて、何を感じていて、何を考えているかを、表情から推測されてしまう。
だから下を向いていよう。
(私はここにいない…。)
(私はここにいない…。)
心のなかで念じ続けた。
だから、お願い。
私をこれ以上いじめないでください。
身体はそこにあるのに、
魂の灯は限りなく「無」に近かった。
私は、生きている意味が分からなかった。
"天気予報など、見る必要がなくなった。"
"明日の天気を知ったところで、いじめはなくならない。"
"雨が降ろうと、私の人生は変わらない。"
"晴間が見えたとしても、私の自己嫌悪は止まらない。"
"雨が降ろうと降らまいと、私の人生には関係ない。"
自分の人生を放棄していた私には、
天気のことなど眼中に収まりきらず、
私の生活圏から「天気」という言葉は消えていった。
目線を上げれば傷付く。
そう覚え込んだ身体は、
下を向いたときに見える景色が、世界の全てだった。
天気を知りたくなる"健康さ"
今と過去を頭のなかで行き来しながら、
私は、
「上」を見ることが怖かったこと、
上を向いたところで得られるものは何もない、と思っていた当時を回顧する。
自分の頭上にある空は、
「目線を上げることは、二度とない」と自分に誓った時から
私のなかで、存在しないものとされていた。
人が天気を気にして生活する姿は、
あの頃から「人の健康さ」を表すものとして、私の目には映っていた。
天気予報を見る、つまり明日を知ろうとする心理は、「次の日も自分は生きている」という保証を無意識に携えている構えであって、
目の前の今を生きるので精一杯だった私には
その姿が、煙たく、煩わしく感じられた。
……
今も、生活の不安定さが心を轢き、現実に打ちひしがれる。
けれど、
フロントガラスから空を見上げて、雨に見舞われることを"不運"に感じた感触が、
一週間後の天気を知りたくなる気持ちへとつながっていることを再確認する。
上空で吹きすさぶ風流が、雲の行き先を東へと向かわせ、押し流す。
「来週は晴れてくれるだろうか。」
そう祈りながら、
前方の車のブレーキランプが解かれると、
私はアクセルペダルを右足で優しく踏み込んだ。
<プロフィール>
執筆者 ゆりな
2018年2月にひきポスと出会い、物書きデビュー。
以降、自身の体験や心に触れる違和感・痛みを書き綴る。
自己否定の限界が訪れた先で、社会とぶつかった接点に残る傷は、今も薄い皮膜を帯びながら、「生きること」への恐怖を訴えてくる。
苦しさの根源に向き合い、自己と社会の