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「幼少期の記憶 家族と私」 中年ひきこもり当事者 子守鳩 当事者手記 第2回

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天井の蛍光灯のオレンジ色の豆電球を見つめて泣いていると、
いつのまにか眠りに落ちていた。

 

文と写真 子守鳩

 

・・・第1回からのつづき

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愛着障害とアダルトチルドレン

「三つ子の魂、百まで」

などと言いますね。

たしかに、親との関係は今でも自分の人生に影響を与えていると思います。

 

母親から愛情を受けられなかったことで、その後の人間関係に問題をきたす障害を愛着障害というようです。また、機能不全家族で育つなかでトラウマを持つようになった人をアダルトチルドレンといいます。

私は40歳をすぎるころから、これら2つが自分のなかにあることを認識するようになりました。

 そしていくつかの精神科や心理療法家、カウンセリング等に通い、複雑性PTSD、胎児期愛着障害、発達障害などいろいろな診断を受けてきました。

 それで多少の生きづらさは緩和しましたが、完治はせず、苦しみも癒えず、「一日でも早く自殺したい」という衝動に駆られることも、今なお時々あります。

 

みなさんもそうかもしれませんが、過去の家族との関わりを振り返るのは私にとっても辛い作業です。そのため、書き始めるまでに数週間も掛かってしまいました。今でも心が疼くのです。

幼少の頃の記憶は断片的で、あまり思い出せません。



豆電球を眺め、泣きながら眠りについていた

私は東京の郊外の住宅地に生まれました。

家族は、父と母と私と妹二人の五人家族でした。

父も東京出身で、仕事はいろいろなことをしていました。転職が多かったようです。一番長くやっていたのは外国から生地を輸入して卸す自営業でした。私が小学生の頃でしたので、どんな商売だったのかは詳しく分からないのですが、数年で上手くいかなくなり、働きに出るようになりました。

 

プライドが高く喧嘩っ早い人だったので、就職しても数か月で喧嘩して辞めることが多かったようです。母から聞いた話では、父からボーナスをまともにもらったことがないとのことでした。つまり、父はボーナスが出る前、就職して半年から1年でいつも仕事を辞めていた、ということです。

 

自営業が上手くいっていた頃、つまり私が小学校低学年の頃までは、父の機嫌が良かったのですが、私が小学校高学年になるころには、父はいつも不機嫌でイライラしていました。夜は毎晩酒を飲み、無言でテレビを見ていました。

 

私は父のイライラを感じながら、どうしたら叩かれないか、どうしたら怒鳴られないかと怯えながらいつも生きていました。

それだけ気を付けていても、ほぼ毎日何らかのことで怒鳴られ、殴られていました。

悔しくて悲しくて、私はほぼ毎晩、寝るときは天井にある蛍光灯のオレンジ色の豆電球を見つめて泣いていました。泣きながらいつの間にか眠りに落ちていました。

 

 

高校の頃、父からの暴力に耐えられなくなり、あまりの憎さに、

「父を殺そう」

と真剣に考えました。

しかし、考えに考えた結果、長年暴力を受けてきた被害者である私が刑務所に入って一生前科者として生きるというのはおかしい、それでは割に合わないと考え、殺すのは思いとどまりました。

 

叩かれて吹いたハーモニカ

母は愛媛県の小さな村の出身でしたが、短大に入学するために東京に出てきました。そこでバイトをしているときに父と出会って結婚することになったそうです。

不思議なことに、母と関わった記憶がなかなか思い出せません。

母と会話した記憶がないのです。

忘れてしまったのか、会話したこと自体がないのか、どちらかわからないのですが、いずれにしろ母との関係が薄いということなのでしょう。

母親との間でまず思い起こされるのは、幼稚園でのハーモニカの発表会です。

みんなが吹いているときに、私だけが吹かなかったために、母は恥をかいたようで、帰宅後母は烈火のごとく怒りだし、私の頬を引っぱたきました。

叩かれ、怒鳴られながら、ハーモニカの練習をさせられました。

本当に辛く、悲しかったです。

母との記憶はそれが一番強いです。母親を思い出そうとすると、般若のお面のような恐ろしい表情で怒り狂っていた母親しか思い出せないのです。

母と会話したことがないと言っても、母からは命令や指示、説明、怒鳴り、追及、叱責などは受けてきました。つまり、母とのやりとりは常に一方通行で、キャッチボールがなかったのです。

 

両親の育ち方をさかのぼる

母の父、つまり私の祖父は愛媛県の小さな村で煮干し工場を営んでいたようで、かなり裕福だったらしいです。

祖父は背も高く、仕事もでき、性格も快活、人前で話せば爆笑を巻き起こすほどの話し上手でした。とうぜん村でも人気者で、かなりモテていたようです。結果、何人もの女性と性関係を持っていたようです。

祖母はそのことに怒りながらも、怒りを祖父に向けることができず、その恨みを母に漏らしました。母はその愚痴を聞きながら育ったといいます。

 

 

いっぽう、父の母、つまり私の父方の祖母は、父を産んですぐに病気で亡くなり、まもなく祖父には後妻が来たようです。

父はその後妻に育てられました。まだ乳児で、後妻に子ができなかったこともあって、父は可愛がられたようですが、父の上の兄弟姉妹たちはみな、後妻からいじめを受けたらしいです。

 

いじめに耐えかねて長女は家出、次女は自殺未遂を起こしました。

父は兄や姉をいじめる母親を許すことができず、精神的に不安定で怒りっぽい性格に育ったようです。

 

私の両親の育ち方をさかのぼると、そんなエピソードが出てきます。

次回は、私自身の育ち方を振り返ってみたいと思います。

よろしければ、また読んでくださるとうれしいです。

 

・・・第3回へつづく

 

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