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【当事者研究】不登校は「行かない行為」ではなく「〈行く行為〉の欠損」 どのような言葉があれば「行きたいのに行けない」という語りから脱することができるか

「不登校」最終解答試論

 

執筆者の喜久井(きくい)さんは、不登校の経験者です。学校に「行きたいのに行けない」感覚があり、理由を聞かれても、うまく答えられませんでした。なぜ、言葉にすることができなかったのか?そして、「不登校の原因」は何だったのか?力作の当事者研究をお届けします。

 

(文 喜久井伸哉 / 画像 Pixabay)

 

はじめに 私の「不登校」における「x」の存在

私には、8歳から、「不登校」、と言われる、状況があった。
「〇〇のせいで行かなくなった」、と語れるような、これという「原因」は、なかった。
自分の頭では、学校に「行きたい」、と思っていた。
しかし、身体が動かず、どうしても、「行けない」結果に、なっていた。
シンプルな言葉にすると、「行きたいのに、行けない」状況。
その矛盾した状況は、大人たちに、理解されがたいものだった。

では、どのような言葉であれば、「私の不登校は、〇〇のせいだ」、と語ることができたのか。
そして、その語りが、意味を持つ言葉として、大人たちに聞かれることが、できたのか。
私は、「〈行きたいのに行けない〉身体」を名指しする言葉があれば、語ることができた、と考えている。
私の身体には、謎の、「x」が起きていた。
これを表すための言葉が、今はまだ、世の中に、存在していない。
私は今回、この「x」がどのようなものか、説明を試みたい。
「x」が、読んでくれた人に伝わりさえすれば、私の「不登校の原因」の語りが、生まれて初めて、人に聞かれるものになる、と思っている。

 

私は「行かない行為」をしていない

まず、なぜ私に、長い欠席の期間(「不登校」)があったのか。
あれは、「行かない行為」ではなく、「『行く行為』の欠損」だった。
(このシンプルな前提からして、「不登校」の語りを聞く人に、共有されていない。私の語ろうとしていることが、どれだけ人に伝わらないことか、が、冒頭から思い知らされる。)

自らの意志によって、「行かない」選択をした結果、「行かない行為」、をしていたわけではない。
もしそれだけだったなら、大人たちから、「原因」を聞かれても、答えられた。
「私は〇〇によって、行かないことを選んだ」、と言えた。
大人たちは、因果関係を聞き、〇〇にあたる「原因」を、理解できるように努(つと)めただろう。
しかし実際は、登校しようとしたとき、私は、自分の意志とは関係のない、「行く行為」を欠損させるもの(「x」)が、身体に起きていた。
その状態で、私に、(「行かない行為」であるかのように、)「原因」を聞かれても、答えようがなかった。

 

「〈行きたいのに行けない〉身体」=「x」があった

私は、「x」によって、「『行く行為』の欠損」が、起きていた、と仮定する。
「x」は、たとえるなら、吃音や、イップスに似ている。
(「不登校」のために、これらについて語る人を、私は、自分以外に聞いたことがないけれども。)
しゃべろうとしても、咽喉が動かなくなり、声が出せなくなる、吃音(難発)のように。
ボールを投げようとしても、腕が固まり、動作ができなくなる、イップスのように。
身体に、意志と無関係のことが起きてしまうせいで、結果として、「行為」のように、思われていたにすぎない。(※1)

吃音(難発)の子は、「黙ってないで、ちゃんとしゃべりなさい」、と叱られやすいという。
イップスの子は、「ふざけてないで、ちゃんとやりなさい」、と怒られやすいという。
身体に起きていることが、意志を持っておこなっている行為だと、誤解されているためだ。
そのため、「がんばればちゃんとできるのに、怠けている」、とか、「メンタルが弱いせいで、逃げている」、などと、誤解されてしまう。
(「怠ける」、「逃げる」、といった表現は、「〈する〉行為」であれば、あてはまるだろう。
しかし、私の「〈なる〉身体」には、あてはまらなかった。)

実際は、意志とは無関係に、身体に起きることだ。
自ら「〈する〉行為」ではなく、そのように、「〈なる〉身体」がある。

人は、身体の「なる」を見て、行為の「する」だ、と誤解する。
(哲学者のメーヌ・ド・ビランは、デカルトの言葉をもじって、『我行為する、ゆえに我あり』、と言った。)
「する」が不都合なことだと、その人を責めたり、「原因」を聞いたりする。
(さらに、その人が病気だと考え、精神科医の言葉が、費やされたりもする。)

特定の場所の全員に、「なる」が起こるなら、個人の「する」とは、見なされないはずだ。
たとえば、給食で食中毒が発生して、クラスの全員に体調不良が出た、というなら。
それは、一人一人の「する」ではなく、クラス全体の「なる」だ、と判断できる。
個人の体調不良だけが、「問題」にされることはない。
しかし、給食のあとで、一人だけ体調不良が起きたら、そのようにみなされるとは、限らない。
アレルギーとか、「この子だけお腹が弱いせいだ」とか、場合によっては、「仮病かもしれない」、「休みたがっているだけかもしれない」、などと、個人の「する」行為に、みなされかねない。

「〈行きたいのに行けない〉身体」(=「x」)や、吃音や、イップスは、クラスの中で、不特定多数(というより、不特定少数、といいたいが)に起こるため、「なる」ではなく、「する」と見なされやすい。
もし「x」がクラス全員に起きたら、「不登校」ではなく、「学級崩壊」と、みなされるだろう。
仮に、偶然にも、クラス全員に、同じような吃音やイップスがあったなら。個人の「する」ではなく、その他の「なる」「原因」が、探されるはずだ。共通する成育歴や、住環境や、学校側などが、「原因」として、取りざたされるだろう。

 

「不登校」の語りと吃音の語りは何が違うか

大人たちは、子どもたちの不都合な状況に対して、「原因」を求める。
「原因」を取り除いて、再発防止につとめようとする(、という以上に、理解できないものを、そのままにはしておけない、という、無知への恐れのようなものからくる、鬼気せまる追及をする)。
子どもたちは、何らかの語りで、応じるほかない。
「不登校になったのは、〇〇がいけなかったからです」
「吃音になったのは、〇〇が問題だったからです」
「イップスになったのは、〇〇が悪かったからです」
それぞれの人に、何らかのかたちで、「原因」の語りが、求められる。
(それが、当人において、本当の「原因」だと感じられるかどうかは、ともかく。)

しかし、「不登校」には、吃音やイップスとは、異なる語りが、起きている、と思う。
まず、うまくいかない「原因」を聞かれたときに、吃音の子や、イップスの子の語りは、どうなるか。
「私がうまくしゃべれない原因は、吃音です」、
「私がうまくボールを投げられない原因は、イップスです」、
といったものだ。これは、語りが成立している、と思う。
身体に起こる「症状」(「する」ことではなく、「なる」こと)を表す言葉として、機能している。

これに対して、「私が学校に行かない原因は、不登校です」、はどうか。
語りとして、機能していない、と思う。
少なくとも、質問した人を、納得させるものでは、ないだろう。
「学校へ行かない原因は何か」、という質問は、ほとんど、「不登校の原因は何か」、と同じだ。
解答者は、「私の不登校の原因は、不登校です」、と言っているに、等しい。
同語反復になっており、説得できるだけの、意味を持たない。

「不登校」という言葉は、欠席や、悩みごとや、社会問題など、いくつかの意味で、使われている。
「昨年度の不登校は過去最多だった」、「教員は不登校にどう対処するか」、「私は不登校だった」、「今でも不登校のことを思い出すと胸が痛む」……などの、理解可能な、語りがある。
これらは、欠席や社会問題などの意味で、使われている。
「〈行きたいのに行けない〉身体」だけを、意味する言葉としては、使えない。
吃音やイップスのように、「〈なる〉身体」を意味する言葉では、ない。
(この数十年、「不登校」論は、精神科医が、長舌をふるってきた。心理についての、語彙は多い。しかし、身体については、そうではなかった、と思う。※2)

 

「不登校」の語りにおいて、「〈なる〉身体」だけを表す言葉があったらどうなるか

もし、「行きたいのに行けない」ことを意味するだけの言葉として、「x」があったなら。
そのときは、私の「不登校の原因」の語りが、機能するようになる、と思う。(※3)

説明のために、吃音を、例にとる。
「〇〇の原因は何か?」、と聞かれたとき、当事者は、「吃音のせいです」、と答えられる。
(当人が吃音を受け入れており、お互いに概念がわかっている場合は。)

 

そのため、さらに「原因」を探っていくとき、個人よりも、吃音の概念が、「問題」になってくる。
質問者も、当事者も、「吃音とは何か?」を考えられる。
疑問のターゲットが、「当事者の状況がどのようなものか」、だけでなく、「吃音とはどのようなものか」、に移る。(※4)

二言目には、「それなら、その吃音の原因は何か?」、と聞かれるだろう。
吃音は、はっきりした原因は、よくわかっていない、という。
(「メンタルが弱いせいだ」、とか、「親の育て方が悪いせいだ」、といった、(差別や錯誤をともなう)分析はあるが、医学的には、よくわかっていない。)
原因がよくわからない、という点では、個人(=「する」)においても、吃音(=「なる」)においても、同じことではある。
しかし、個人の「原因」がわからない、という語りではなく、吃音の「原因」がわからない、という語りに移っている。
これによって、(吃音が、「〈する〉行為」でなく、「〈なる〉身体」によって起こる、という理解がお互いにあれば、)「個人のわからなさ」ではなく、「吃音のわからなさ」、が課題になる。

 

「私がうまくしゃべれない原因は、よくわからない」、ではない。
「私の吃音の原因は、よくわからない」、という語りに変わる。
当事者にとって、この移行が、どれほど重大な意味を、持っていることか。

(このような語りの仕組みは、「〈なる〉身体」の例なら、他にも、あてはまるものが多い。赤面症や、多汗症も、そうだろう。「なる」身体を説明できる言葉があれば、「原因は〇〇です」、という語りを、成立させられる。反対に、その言葉がなければ、「問題」は個人にとどまり、いつまでも、「原因」を追究されてしまう。数十年前、イップスという言葉がないなかで、イップスであった選手の語れなさと苦しさを、想像してみてほしい。それは、現代の「不登校」における、「x」の語れなさと、重なるはずだ。)

「不登校」の場合は、(悔しいことに、)吃音のようにはいかない。
「不登校の原因は何か?」、という質問に、「不登校のせいです」、と答えても、意味をなさない。
意味を持つのは、「私は行かないことを選んだから行かない」、のような、「〈する〉行為」ばかりだ。
「〈なる〉身体」を伝えるための言葉が、存在していない。

 

もし、「〈行きたいのに行けない〉身体」だけを、表す概念があったら、どうなるか。
「不登校の原因は何か?」に対して、「それはxのせいです」、と、明言できる。
そのときには、語りを機能させられる。

 

 

「不登校の原因はxのせいです」、と言っても、医学的には、結局、「xの原因はよくわかっていない」、というしかないだろう。(多弁な精神科医たちと教育者たちは、別として。)
それでも、疑問のターゲットが、「x」に移るだけ、良い。(本当に、はるかに、良い。)
質問者や当事者が、「xとは何か」について、考えられる。
「不登校」個人の、「する」が「問題」になるのではなく、「x」による「なる」の発生が、「問題」になってくる。
(そうなれば、「無気力」という、子ども個人を平然と侮辱する言葉も、減るだろう。)

 

最後に

「〈なる〉身体」をとらえた、「x」にあたる言葉が存在していれば、私の「不登校の原因」の語りは、機能したはずだ。
これまで、精神科医たちや教育者たちは、さまざまな「原因」を、(そして汚辱的な言葉を、)さんざん、語ってきた。

『「不登校論」の研究』(山岸竜治著)、という論文集がある。
これまで、どのような「原因」が語られてきたか、が分析されている。
取り上げられているのは、「本人・家族原因説」や、「『肥大した自己像』原因説」、などだ。
(この分類の名前だけでも、ろくなものではない、ということが、わかるだろう。)
数十年にわたる、数万の、研究があった。
しかし、それらは私に、一つも、言葉を、与えなかった。
「不登校の原因は?」、という、(汚濁的な)質問への、答えを、与えなかった。

今回私は、「〈なる〉身体」を表すための、「x」にあたる言葉があれば、「原因」に対する、語りが機能する、と考えた。
では、その「x」を何と言って、どうすれば世の中で通用する言葉にできるか、は、これから先の課題だ。
当然のことながら、私一人が、あれこれ考えたところで、無力すぎる。課題というより、一人よがりの、無力な、思いつきにすぎない。
それでも、私は、もし「x」にあたる言葉が、あたりまえに使える世界があったなら、という空想を、せずにはいられなかった。
「x」を語る言葉さえあれば、大人たちによる「原因」の追究が、生涯の痛哭となってしまう子どもが、少なくともこの世から一人、減っていたはずだ、と、考えずにはいられない。

 

 

注釈

※1 イップスの中には、力が入らなくなる例がある。イップスという言葉が広まる前、陸上競技で、「ぬけぬけ病」、「ぶらぶら病」、と言った例が、存在する。足に、力が入らないことを意味した。(そうして、「怠けている」などと、誤解された。)これは、「不登校」において、「無気力」・「朝起きられない」・「疲れ」、などという、力が入らないことの意味する語りを、思い起こさせる。もし特定の言葉(「x」)で、集約できれば、このような「原因」の語りや、それにともなう誤解を、減らせるはずだ。

※2 80年代は、「登校拒否は病気ではない」、と主張することに、社会的な意義があった。それが(病気の一種ととらえられる)「心身症ではない」、という否定のメッセージを、含みすぎていたのかもしれない。「登校拒否」や「不登校」から、「〈なる〉身体」の含意が、否定されすぎてしまったのではないか。

※3 「行きたいのに行けない」状況においては、身体のさまざまな反応が、報告されてきた。「朝起きられない」・「疲れ」・「体調不良」・「頭痛」・「腹痛」、など。バラバラの事例が、報告されている。(私は、その全部を経験した。)80年代には、吐血の事例まであった、という。(私は経験していないが、ありえた、と思う。)
私は、これらの心身症(に近いものや、未満のもの)を、すべてひっくるめて語れる概念として、「x」を、希求している。この、「〈なる〉身体」の語りがある、というだけで、従来の「不登校」論を、変えられる。「行きたいのに行けない」、という語りを、発達遅滞や、精神薄弱や、愛着障害などと、診断されなくなるはずだ。(そのような診断は、現代では、もう、完全に起きていない、と思いたいのだが。)

※4 細かく言うと、「問題」を個人だけのものにせず、外在化させられる。「〈する〉行為」ではなく、「〈なる〉身体」に引責させる。それによって、個人に免責を発生させられるため、悪質な自己責任論に、させない効果を持つはずだ。

 

追記

 

「x」を、具体的な言葉で言うには、何がよいか。無理やり造語を作るなら、「登校難発(なんぱつ)」とか、「登校イップス」とか。もしくは、英語の「attendance アテンダンス(出席)」と、「yips イップス」を組み合わせて、「attendyps アテンディプス」とでもいうような、そのようなもの。

または、「school refusal スクールリフューザル」を、復活させられないか、とも思う。「登校拒否」、の語源だ。refusalは、「拒否」の意味なので、直訳といえる。しかし、refusal は、「立ちすくむ」などというときの、「すくみ」の意味がある、という。そのため、「登校拒否」でなく、「登校すくみ」、と訳すことができる。これなら、「〈する〉行為」ではなく、「〈なる〉身体」の、意味がある。「私が学校に行かない原因は、スクールリフューザル(登校すくみ)です」、という語りが機能していたら、「不登校」の歴史は、どれほど違ったものになっていただろう。この空想をつづけると、「スクールリフューザル」、を言いやすくして、「スクリフ」、なんてどうか。もし、「私の不登校の原因は、スクリフです」、という語りが、「x」として使えたなら。「不登校」の歴史をさかのぼり、途中から枝分かれしてやり直すようで、面白さがある。

精神科医たちの「活躍」によって、「拒否」は、心理的な意味で、分析が重ねられていった。その後、登校拒否が、「不登校」の名称に変わり、身体的な意味が、取り除かれた。もし、現代ほど、精神医学や、個人の意志が重視される時代でなかったなら、refusal のとらえ方は、今とは大きく、異なっていたはずだ。

なお、「不登校」の言葉を、改称しようとする動きも、少なからずあった。「ホームスクーラー」、「フリースクーラー」、「スクールマイノリティ」、などだ。それらは、教育に対するあり方をめぐって、出てきた言葉だ。発想はありがたい。しかし、これらは私の、「〈なる〉身体」の語りに、使えるものではなかった。

 

 

アメリカの哲学者に、ショーン・ギャラガーがいる。ギャラガーは、最小限の自己を構成するものとして、「自己所有感」と、「自己主体感」の、二つに分けてとらえた。
「今、これを経験しているのは私だ」、という、「自己所有感」。
そして、「この動作を生みだしているのは私だ」、という、「自己主体感」だ。
「x」や、吃音や、イップスの場合、自己所有感はあっても、自己主体感がなくなる。原因を聞く人は、自己所有感をもって、「〇〇の原因は何か?」、と個人に聞く。しかし、自己主体感がないため、「私は〇〇を選んだ」、という答え方が、不本意なものになる。
「私は吃音を選んだ」、や、「私はイップスを選んだ」、といった語りは、まず、ない。しかし、今の「x」は、「不登校」の語りに、埋もれてしまっている。そのため、「私は不登校を選んだ」、という語りに、本来「x」として分離すべき語りが、巻き込まれてしまっている。もし「x」の語りだけが存在するなら、「私はxを選んだ」、という語りは、できない。この一点においてだけでも、私は、「x」にあたる言葉を、希求している。

 

 

「x」がないせいで、「不登校」論が、混迷を極めている。
吃音の場合、吃音の「原因」の分析は、個人の「原因」というより、「〈なる〉身体」の事例に、移行している。
「この子がうまくしゃべれない原因は何か?」→「吃音のせいである」→「では、その吃音の原因は何か?」→「人間関係のせい」「「トラウマのせい」「家庭環境のせい」「メンタルのせい」等々……。
これに対して、「不登校」の分析は、最初の疑問のあと、すぐに、バラバラな事例に直結してしまう。
「この子の不登校の原因は何か?」→「人間関係のせい」「「トラウマのせい」「家庭環境のせい」「メンタルのせい」等々……。
これらは、「原因」の語りとして、認識されている。しかし実際は、「x」の、いくつもの事例に、すぎないのではないか。本来は、以下のように、分析されるべきものではないか。
「この子の不登校の原因は何か?」→「xのせいである」→「では、そのxの原因は何か?」→「人間関係のせい」「「トラウマのせい」「家庭環境のせい」「メンタルのせい」等々……。
精神科医や、調査者たちが扱っているのは、「原因」ではなく、どこまでいっても、バラバラな事例にすぎない、のではないか。
過去数十年と同様、この先、数十年にわたって、子どもたちが調査され、数十万の統計が積みあがったところで、そこに、私の求める「原因」の語りは、発生しない、と思う。
(「心」の語りが、重視されすぎているせいで、身体の語りが、占領されてしまった、かのようだ。)

 

 

「不登校の原因は何か?」に対して、「起立性障害だからだ」、といった語りは、「x」の役割を果たしている。「原因は何か?」→「起立性障害だからです」・「発達障害だからです」・「ゲーム依存症だからです」、といった応答。それらの一部は、通学しないことに、「する」行為ではない、という意味を与えている。「行かない行為」ではなく、「〈行く行為〉の欠損」だ、という語りとなって、(他の症状の意味を、不用意に込めながら)機能している。
私見では、これらは、近年の「不登校」の報道において、異様に好まれている。実際に起きているよりも、過多に取り上げられている、と思う。もし、本当の障害でないものを含んでいるとしたら、それが、「x」として、正確に語れるようになってほしい、と思う。

 

 

なお、吃音やイップスと違い、「x」の身体には、はっきりした拒絶がある。むりやり学校に連れて行こうとしても、泣き叫び、柱にしがみつき、抵抗する。(幼児期の私が、そうだった。)これは、吃音やイップスよりも、能動的な、「する」行為に思える。しかし、あれは、意志を超越していた。理性や、知識や、選択で、どうにかなるものではない。
吃音の人に対して、しゃべることの大切さを説いても、まず、「治る」ことがない。同じように、「x」の人に対して、学校の重要性を諭(さと)しても、まず、「治る」ことはない。意志では、どうにもならないものだ。(別の例としては、チックやジストニアやカタプレシーが、たとえに使える、と思う。)私は、「する」行為が、「なる」身体に領有される、という点で、「x」も、吃音やイップスに類似するものとして、とらえている。

 

 

 

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000

 

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