(文・南 しらせ)
私は一日のなかで、夕方が一番嫌いだ。夕方は一日の終わりの匂いがする。一番人間が生きている匂いがする。だから嫌なのだ。
夕暮れ時、ある農家の来訪
一日の終わりが近づいている、夕方の4時。私が布団で横になっていると、家の外から物音が聞こえてきた。大人2人分の、ざっざっという足音。しばらくして、鍬(くわ)で土を掘り起こすような音。さらに耕運機を使っているのだろうか、グォーという機械音が一帯に鳴り響く。
私の自宅の前には、近所に住む農家のご夫婦の畑がある。そのご夫婦が、畑の世話をされに来たのだ。私は彼らから見られないように、すーっと部屋のカーテンを閉め、息を殺して、自分の気配を消そうとする。この瞬間が早く過ぎ去ってほしいと祈り続ける。
しばらく待ってみるが、ご夫婦の作業が終わる気配はない。私はまだかまだかと、窓に近づいてちらっと外の様子を見たり、離れたりを繰り返す。窓の外から見えるご夫婦が、こちらの様子をずっと監視しているように思えて、落ち着かない。
私はいつからこんなことをしなければいけなくなったのだろうと、無性に情けなくなる。唇を強く噛んで、零れそうになる声を必死に押しとどめる。
手を伸ばせば、そこにある現実
自宅の前で畑仕事をされているこのご夫婦は、私にとって数少ない、自分の目で確認できる「働いて、生きている人」だ。それは同居している家族よりも、TVで見る一流の仕事人よりも、とてもリアルな存在である。
息づかい。足音。何気ない会話。窓の向こうに、手を伸ばせば届きそうなところに、当たり前の日常と現実がある。生きている人間がいる。
私は生きることや、働くことを、必要以上に難しく考えてしまうところがある。それが私自身を余計に苦しめていると、自分でもなんとなく自覚している。
けれど夕暮れ時、私がカーテンの隙間からご夫婦の様子をチラチラと眺めていると、現実というものが、とてもシンプルなものに思えてくる。
畑仕事は簡単だ、という意味ではない。そうではなくて、毎日決まった時間に黙々と作業し、適度に休憩し、通りがかったご近所の方と談笑し、「じゃあ今日はこれくらいで」と自宅へ帰っていく、ご夫婦の姿。そういう生き方がシンプルで、とても幸せだと思える時があるのだ。
「あの……。私も畑仕事、手伝わせてもらってもいいですか?」
この部屋から出て、目の前に広がる世界に手を伸ばしたい。私もその世界の一員になりたい。体と心が強い衝動に駆られて、全身が熱くなる。
なにげない日常は、近いようで、遠い
けれど結局、私は彼らに手を伸ばすことができない。なにげない日常はいつだって、近いようで、遠い。
シンプルに見えることほど、どうしてできないんだろう。私が俯いてそんなことをうじうじ考えていると、今日の仕事を終えたご夫婦が、車に乗り込んで畑を去って行く音が聞こえた。
──今日も手を伸ばすことが、できなかった。
これからご夫婦は家に帰って一緒に晩ご飯を食べて、お風呂に入って、早めに休んで、明日も朝から畑仕事に精を出すのだろう。彼らは今日という日をちゃんと生きて、明日もちゃんと生きていくんだろうな。私は勝手に、ご夫婦のそういう一日を想像する。
私は今日、何をしていたんだろう。明日、何をすればいいのだろう。今日と明日の境界線が近づく夜の気配を感じながら、私はどうしようもない虚しさに襲われる。やりどころのないこの気持ちが、また私を苦しめる。
今日もまた一日が始まる前に、終わった。いつになったら、ちゃんと一日が、始まって終わってくれるのだろうか。
気づけばあたりはすっかり暗くなっていた。私は傍にあるカーテンをぎゅっと、握りしめた。握ったその手の力が、自分でも驚くくらいに強くて、それがまたどうしようもなくやりきれなかった。
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執筆者 南 しらせ
自閉スペクトラム症などが原因で、子ども時代から人間関係に難しさを感じ、中学校ではいじめや不登校を経験。現在ひきこもり歴5年目の当事者。