取材・編集 ぼそっと池井多
名古屋で活動しているコモンズ学習会にオンラインでお邪魔しました。
必ずしもひきこもりの居場所として開設したわけではない当事者会が、結果的にひきこもりの居場所のように機能したり、そのように見えたりすることはよくあるものです。
このコモンズ学習会もそうでした。
参加されている皆さまにお話を伺いました。
ところで、タイトルの「……せんでもらいてゃあわ」とは、「……しないでもらいたい」を意味する名古屋弁です。
しかし、どの地方もそうかもしれませんが、名古屋でも方言はどんどん使われなくなっており、こんなヘビーな方言を話す人は少なく、少なくとも今回のインタビュイーの中にはいらっしゃいませんでした。
居場所と目的
ぼそっと池井多 この名古屋コモンズ学習会には、十年もの歴史があるそうですね。どのように始まったのでしょうか。
伊藤よしあき この会は、正式名称を「日曜クラブ・青年の会『ポレポレ』・コモンズ学習会」というのです。この正式名称が示すように、もともと在った3つの会が合流したものです。
加藤英昭 歴史をひもといてみると、日曜クラブ・青年の会「ぽれぽれ」は、元々は別の集まりでした。
日曜クラブという集まりは、2010年ごろに山田孝明さんが呼びかけて、作られた集まりです。
青年の会「ぽれぽれ」という集まりは、名古屋の東別院の方にある会館に集まって、名古屋オレンジの会や、KHJ東海 なでしこの会とは、別に行われていた親の勉強会に付属して行われていた集まりでした。
伊藤 名古屋というか、東海地方でも、ひきこもり・ニート・フリーター等のための自助・互助・共助のグループ活動はいろいろと行われてきたのですが、もう少し何とかしなければならないと思いまして、「日曜クラブ」を基に、それを発展させて「コモンズ学習会」を作りました。
加藤 「日曜クラブ」は友達を作るための会で、とくに目的はなく集まっていたんです。でも、目的もなく集まるのは、自分がいやなもんで、そこで冊子づくりをやってみよう、ということにしました。
そうしたら、「べつに冊子なんか作りたくない」っていう人も多くて、冊子をつくる会はコモンズ学習会が引き継ぐことにして、いったん分離したんです。
そうしたら、何も目的なく集まる会の方は自然消滅というか、無期休会になりました。
伊藤 何も目的もなく、ただ集まり続けるというのは、なかなか難しいことなんですね。
ぼそっと なるほど。そういうことはあるかもしれませんね。
伊藤 当事者活動には、そういうところがありますね。ひきポスであれ、ひきこもり新聞であれ、何か発信するものを作るということが目的となって、当事者活動が続いているケースが多いのではないしょうか。
ぼそっと 多いでしょうね。
加藤 それで冊子の第1号は、愛知教育大学の川北稔さんが中心に作ったんですけど、第2号と第3号は私が中心に作って、そうこうするうちにコモンズ学習会ができたというわけです。
ぼそっと すると、十年前のこの会は、冊子発行に大きなウェイトが占められていたのですね。
伊藤 そうですね。それに付属した学習会でした。
加藤 ほんとうに「学習会」の名にふさわしい、高度なことをやっていましたね。
ぼそっと たとえばどういうテーマで学習しておられたのですか。
伊藤 文学、政治、経済、あらゆる分野に関連して、自分たち、とくに40代50代の者たちの目の前に起こっていることですね。そういう身近に起こっている問題から世界にアプローチしていくにはどうしたらよいか、ということを考える場です。
ぼそっと なるほど、それで今日もそういう議題がいくつか挙げられているわけですね。
ぼそっと 今もコモンズ学習会では冊子を発行していらっしゃるのですか。
加藤 いちおう次号の表紙はできているんですけど、そこで中断してます。冊子を作るにはそれなりの気力が必要だけど、今の私たちにはそこまでの力がないものですから。
ぼくらも、今は仕事をしてて、生活は安定しとるから、そこへ加えて、冊子を発行するのはきつい、ということがあります。
ぼそっと 今、コモンズ学習会はどのくらいの頻度でやっておられますか。
伊藤 だいたい月1回、第2日曜日です。名古屋の中心部、栄の近くで開催しています。
コロナで緊急事態宣言のときは会場が閉鎖になったので、メッセンジャーによるテキストのやりとりで開催していました。Zoomでは、コモンズはまだ開催したことがないです。
ぼそっと いまだに居場所や当事者会をやっていらっしゃる皆さんは苦労してますね。Zoomでやったり、ハイブリッドでやったり。私も「ひ老会」をZoomで開催したことありますけど、なかなか調子が出ないんですよね。
何度もリストラされて
ぼそっと池井多 伊藤よしあきさんご自身のこれまでのご半生を教えていただけますか。
伊藤よしあき 今度、誕生日が来て51になります。
名古屋市南区、愛知県東海市を経て、小学4年から名古屋市緑区に移り現在に至ります。公立中学から私立の高校へ行って、夜間の大学へ進みました。
卒業してIT系の企業に正社員として就職しました。コンピュータ関連の仕事をやっていましたが、仕事がやれない人と判断されて、リストラされてしまいました。それからしばらく無職の時期があって、27歳で非正規として同じような仕事の別の会社に再就職しました。
しかし30代前半で著しく体力が低下したために仕事が続けられなくなり、また、そのときに出向していた会社でリストラされたため、無職に戻りました。
そして、37歳でまた派遣に就職しました。その後に、派遣先に非正規として直接雇用されて、現在に至ります。
いまは両親と姉と住んでいます。
ぼそっと ご家族との摩擦はありますか。
伊藤 ありますね。
ぼそっと 伊藤さんの場合はちゃんと社会的にも働いていらっしゃるから、ご家族はもう何も言うことないだろうと思うのですが、やはりあるわけですね。
伊藤 それはもういろいろと。部屋片付けろとか捨てろとか言われますし。
自分の中を見つめて整理ができた
ぼそっと 加藤英昭さんはいかがですか。
加藤 ぼくはひきこもったのが、20年近く前です。
小さいころは教室の片隅でじっとしているタイプの子どもだったから、そのまま親とも何もなく、スムーズに大学へ入りました。京都の立命館大学へ行ったんですけど、下宿先で部屋にひきこもって、大学へはときどき行くだけでした。ある専門家にいわせると、五月雨式のひきこもりということになります。
加藤 そういう状態で大学時代をすごして、そのまま企業にも就職できたんですけれども、そのうちに会社勤めという生き方に自分がついていけなくなって、自分の精神に問題があると気づき、28歳になってようやく精神科に通うようになりました。
その後、ぼくの場合は小説を書いたりして、自分の中を見つめることができたから、ある程度自分の中が整理できて、そのあと自分ができる軽貨物の配達を手がけるようになり、社会活動もやりながら、今はコラージュの作品などもつくって自己表現活動もやっています。そうやって作品をつくることによって、いまだに心の整理を続けているんですけどね。
ぼそっと なるほど。私も何か書くことによって心の整理を続けているので、すごくよくわかります。会社勤めがままならなくなった、直接的なきっかけとかありますか。
加藤 企業では、どうしても周囲と比較しながら物事が進むから、そこで働くうちに「自分の中には何かが決定的に足りない」ということが表面化してきたんですね。たとえば自分は、人の上に立ってまとめ役なんかやるのは、どう転んでも無理だな、と思いました。
ぼそっと 大人になるまでは、問題は表面化しなかったのですね。
加藤 まあ、発達障害かどうかわからないけど、幼いころから言語能力の発達が遅れていて、他の子とうまいこと遊べなかったために、受けなくてもいい体罰を受けたり、仲間外れにされたり、といった経験は昔からありました。
だから、「自分は大人になったときに、まともに働けるのか」という不安は、子ども時代や高校時代にも、すでにうすうす感じてはいましたね。
でも大学を出て企業に入って、いわゆるエリートと呼ばれるような人生が始まって、そこで自分にできることとできないことがはっきりしたわけです。
こうしてエリートの職場からドロップアウトして、いまは軽貨物の配達の仕事をして生計を立てています。
なぜ作業所に通うのか
ぼそっと 藤井さんはいかがですか。
藤井一真 ぼくは小学校のあいだに2回引っ越しをしなくてはならなくて、転校で友達を作れなかったのです。そんな自分は陰キャラだと思います。
ぼそっと 私も小学校のあいだ2回転校しまして、2回目で名古屋に引っ越したんですよ。小学校5年生のときでした。
藤井 ぼくもそうでした。
ぼそっと おお、同じですね。関東から名古屋に引っ越したものだから、言葉や習慣もちがうし、名古屋という文化がものすごく排他性の強いものとして感じられました。学校でもいじめられ、親にも虐待され、孤立し絶望して死ぬことばかり考えていましたね。名古屋の公立小学校ですごした小学校5、6年は暗黒時代でした。
藤井 ぼくも友達ができないものだから、人とのコミュニケーションの取り方を学ぶことができませんでした。小学校のときは、そうやって周囲から浮いてしまっていましたが、中学までは不登校とかにならずに、いちおう学校へ行っていました。
高校もちゃんと通ってはいたのですが、学級崩壊がありまして、それ以降は学校へ行かず、社会に参加しない生活になっていきました。
ぼそっと 高校は卒業されたのですか。
藤井 卒業はしたんですが、大学には行かないで、家にいる生活になりました。
ぼそっと 家にいると、ご両親は何か言いましたか。
藤井 当時は何も言いませんでした。父親がいませんでした。母子家庭で、母親は働いていて、当時は放任されていました。今は違うんですけど。
ぼそっと 今は放任じゃないんですか。
藤井 そうですね、なんといえばいいのか、今は母親との距離感が妙に深くなりまして……
ぼそっと 今はどのような生活をされていますか。
藤井 今、41歳で、B型作業所に通っています。
ぼそっと 私はB型支援を受けたことないんですが、行ってみてどうですか。
藤井 ぼくはこのB型へ通うようになるまで社会で働いた経験がないので、あまり他との比較ができないのですが、毎日やることが指示されて、それを一つ一つこなしていけば時間が過ぎていってくれるのがいい、という感じですかね。
ぼそっと もしそういう指示が与えられないと、時間はどうなりますか。空虚で、時間を何に使っていいかわからないで戸惑ってしまうのか、それとも、何か他にやりたいことが見つかるのか。
藤井 「作業をしている最中は我慢をして、そのあと休める」というふうに一日の流れが決まっているのがいいのです。
ぼそっと そうですか。ならば、B型作業所じゃなくて、どこか一般企業に就職すれば、今と同じように仕事と休憩の時間が与えられて、そのうえ給料は比べ物にならないくらい良くなることが期待できる、という考え方もあるかもしれませんが、就職しようとは思わないですか。
藤井 縛られ過ぎてしまうと、自分の場合、うまく行かないと思います。
ぼそっと なるほど。すると作業所は、社会で働くのと、部屋でひきこもっているのの、中間にあたるものですね。
藤井 そうですね、社会で働くよりは余裕がありますね。
加藤 ぼくは一日12時間ぐらい、ずっと車を運転して働いてますけど、すごいストレスです。
決断してイスラム教徒になった
木之本李 途中から参加します、木之本李(きのもと・すもも)と申します。
ぼそっと池井多 こんにちは、よろしくお願いします。
木之本 私は名古屋大学で数学を専攻し、卒業後コンピュータの会社に就職して、2年ちょっと働いてつぶれました。その後、大学院へ行って、そこを出てから派遣のプログラマー、さらにデパートのIT関係の便利屋として働いていました。
大学院へ通っていたころから幻覚的なイメージが見えるようになっていましたが、甲府のデパートで働いていたときに、楽園のようなイメージが見えてしまい、三鷹にあったカラオケボックスに知人を見た気がしたので、そこに入ったところ、所持金がなかったので警察を呼ぶことになりました。それからしばらく入院しました。
その後、50歳を過ぎるまで、病院のデイケアと自宅を行き来するだけの毎日になりました。就職も探したんですけれども、いいのが見つからなくて、まったく採用されなかったのです。
名古屋の女子大小路のセクシャル・マイノリティのバーへ行ったら、あるママに話を聞いてもらえて、そこからいろいろな人へつながっていくことができました。
保育園児のころに「リボンの騎士」を見て、すでに性自認は女性になっていましたが、このママに話を聞いてもらい、自分みたいなのは男性から女性へのトランスジェンダーというのだ、と知りました。また宗教も改宗して、今はイスラム教徒です。
いまはシリア難民の中学生の家庭教師をやっています。
ぼそっと そのシリアの生徒さんは、日本語は読めるのですか。
木之本 ペラペラです。以前は漢字が読めなかったんですが、今は漢字も読めるようになりました。
ぼそっと イスラム教に改宗したきっかけはどのようなものだったのですか。
木之本 統合失調的な発作が起きたときに、天国のようなものが見えたんです。まあ、子どものころからそういうものがよく見えることは、よくあったんですけれども。
9.11など数々の世界的事件からイスラム教に関心を持って、関係する本など読んだことはありましたが、セクシャル・マイノリティのバーでイスラム教に詳しい人々の話を聞き、「イスラム教徒に改宗しよう」と決断しました。そして、名古屋のモスクに連絡を取り、行った当日に入信したのです。
最近のひきこもり界隈を語る
ぼそっと この記事のシリーズは「ひきこもりと地方」というテーマで、全国いろいろな地方のひきこもり当事者・経験者の皆さんにお話をうかがっているわけですが、名古屋コモンズ学習会の皆さんは全国のひきこもり界隈を見たときに、どのようなことをお感じになりますか。
伊藤 「名古屋飛ばし」ということを強く感じるときが多いです。首都圏のひきこもり界隈が何かやっていて、「次は?」というと大阪など関西へ飛んでしまう。その間にある名古屋、東海地方にいる自分たちには、あまり声がかけられないと感じてきました。
概して、どうも東海地方というのは、人口の割に首都圏からあまり注目されていない印象があります。
そこには、ぼくらの発信力が弱いということもあるし、関東・関西に比べるとマンパワーが不足しているんだけど、それにしても名古屋周辺の活動がもっと注目されていいし、ぼくらの声ももっと取り上げられていいんじゃないかな、と。
ぼそっと そうですね。私も中学・高校時代は名古屋で過ごしたので、名古屋には特別な思いがあります。首都圏のひきこもりの声が、全国のひきこもりを代表するようになってはいけないと思いまして、ひきポスでも「ひきこもりと地方」というシリーズをやらせていただいているんですよね。
加藤さんなんかは、全国のひきこもり界隈はどのように見ていらっしゃいますか。
加藤 なんか「頭でっかちになっているな」という感じがしています。
頭でこねくりまわした理屈ではなく、もっと体験から出てくる声が、全体の流れを形成するようになればいいな、と思います。自分たちの体験から出てきた言葉をもっと使ってくれたら、ひきこもりでない「ふつうの人」たちも、もっとわかるようになると思うんですけど。
ぼそっと その「頭でっかち」という所を、もう少し詳しく教えてください。
加藤 今のひきこもり界隈は、どうしてもイデオロギー的になってしまう、ということですかね。
「社会がこんな風だから、自分たちは働けないんだ」という、なにか結論が先に決めつけられてしまっている感じがします。
人間の生き方は多様だから、たとえ一つの職場で働けなくても、もっと他の働き方があるだろうと思うんだけど、それをしないで社会のせいにしてしまう。それは、何か違うように思いますね。
ぼく自身も若い時分の職場でうまく行かなくてドロップアウトした一人だけど、いまは軽貨物の配達で生活できているので、仕事場であまり人と接したくない他の当事者にも、そういう働き方は可能だと思うんですよね。
ぼそっと 木之本さんはいかがでしょう。
木之本 東京や大阪は、ひきこもりから発達障害、セクマイなどがそれぞれ別個に場を持っているようですが、名古屋は数が少ないせいか、みんな一緒につながっていると思います。
名古屋も潜在的にたくさんマイノリティーの当事者がいると思いますが、あまりカミングアウトしてきません。もっとも、それは日本全般なのかもしれませんが。
外国の人と話をすると、よく言われるのですが、日本では、たとえばセクマイなど何かマイノリティーは、べつに街中などの公共の空間で暴力をふるわれるわけでもないのに、なぜカミングアウトできないのか、ということが疑問に思われます。
ぼそっと なるほど、日本で社会的マイノリティーが外へ出られないのは、物理的な暴力をふるわれるのを恐れているのでなく、もっと精神的な理由、ようするに「他者の目がこわい」ということですね。
木之本 イスラム教だと「社会で弱い者を助けるのは当たり前」という考え方があるので、たとえば障碍者や貧困者など弱い者も恐れることなく社会に出てこられます。日本はそれがないから出てこないのだと思います。もっともイスラム諸国でも、女性その他のマイノリティは、社会で迫害を受けることがありますが。
ぼそっと 藤井さんは、最近のひきこもり界隈を眺めていて、いかがですか。
藤井 8050問題が取り沙汰されるようになって、今ひきこもり当事者界隈は新しく福祉業界の人たちからも注目されるようになってきました。
でも、福祉と、これまでのひきこもり支援のあいだには、考え方の根っこにある種のギャップがあるので、そこで戸惑ったりもしています。
ぼそっと それはたとえばどういうギャップですか。
藤井 うーむ、正面からそう訊かれるとむずかしいですね。
加藤 ぼくが代わって答えてもよろしいでしょうか。福祉の考え方だと、やはり対象は「身体」でしょう。しかし、支援の場合は「心」と「身体」を同等に扱い対象としなければならない。そこに違いがあるように思います。各自の心の問題は、従来の福祉ではなんともできないということです。
ぼそっと 名古屋コモンズ学習会の皆さま、いろいろと貴重なご意見ありがとうございました。
関連サイト
藤井一真さんの関連団体「一般社団法人 若者支援事業団」
YouTube「ドアの向こう企画」
https://www.youtube.com/channel/UCOmrx7EB2oKICyeoSjPUY5Q/videos
木之本李さんが運営するウェブページ
「木之本すもも企画グループ Sumomo Planning」
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