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【ひきこもりと父】たとえ親がどうであっても 第1回「黒塗りの手紙」

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写真・ PhotoAC

 

文・はちこ

編集・ぼそっと池井多

 

小学生だった私は、ある日たまたま父が母に宛てた手紙を見つけた。
裏面には、父の名前と住所。


私は、
「これでお父さんにお手紙が書ける!」
と喜んだ。

 

その住所が、拘置所や刑務所のものだとはつゆ知らず、またなぜ父がその住所に住んでいるのかも疑問に思わないまま、私は父に手紙を書き始めた。

こうして父との文通が始まった。

 

ある日の父の手紙は奇妙だった。
封筒はすでに開封されており、便箋に書かれた父の文字の一部は油性マジックで黒く塗り潰され、その上から更にかわいいシールが重ねて貼ってあった。

例えば、「お父さんは今、〇〇〇〇〇というところにいます。」など。


いま思えば、きっとここには「東京拘置所」とか「鳥取刑務所」という言葉が書かれていたのではないだろうか。

母はそこを念入りに隠していた。

 

母に、
「ここってどうしてこうなってるの?」
と聞くと、
「最初からそうなってたよ」
と返ってくる。


少女だった私は、なんか変な気がすると思いつつも、納得したのか、しなかったのか、今となってはよく思い出せない。

 

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 写真・ PhotoAC

祖父に追い出された父

父は、大正15年生まれの祖母が20歳の時に、妻のある人との間にできた子どもだった。堕ろさなかったのか、堕ろせなかったのか、父は昭和21年に未婚の祖母から生まれたのである。

戸籍の上では、祖母の一番上の兄の夫婦から生まれたことにして、祖母は父の養母となった。そして父は、貧乏子だくさんな祖母の狭い平屋の実家で育った。

若い頃の祖母は、十数人の兄弟姉妹の中でもいちばん美人で、のちに当時の写真を見せてもらった私は「ハーフか」と思ったほどだった。

祖母の妹にあたるMおばさんによると、祖母は持ち前の美貌でダンスバーで荒稼ぎをし、高級クラブで働いていた。そのときにお客さんとしてやってきたのが祖父だったという。

祖父は建設会社の常務取締役で、父が小学生か中学生のころに三人で一緒に暮らし始めた。

こうして祖母や父は、祖父の苗字を名乗ることとなった。その苗字は、私の旧姓でもある。

祖父と父の関係がどのようなものであったのか、よくわからない。ただ、父があんまり悪いことをするので、父は成人してから離縁され、祖母の旧姓の苗字に戻ったのだと、Mおばさんから聞かされたことがある。

 

いっぽう母は、母方の祖父の後妻の子であった。

先妻の子も同じ町に住んでいて、子どもの頃に母の義理の姉が経営しているラーメン屋へご飯を食べに行ったことがあるというから、腹違いとはいえ姉妹の仲は悪くはなかったようである。

 

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写真:PhotoAC

田舎から出てきた母

母が生まれたのは、雪深い町だった。

高校を卒業して、「こんな山と雪ばかりの町はいやだ」と関東に出てきて、床屋に住み込んだ。

朝は理容学校に行き、帰ってくるとお店で見習いをしながら、理容師免許を取得して、その後はいくつかの床屋さんに住み込みで働いたらしい。

そして、ある日その床屋さんにお客さんとしてやってきたのが、祖父母から離縁をされて暮らしていた父だったのだという。

 

父が初めて覚醒剤を使用したのは30歳の頃だった。

私がそれを知っているのは、のちに父の遺品の書類の中から、たまたまそう書かかれた書類が出てきたからである。

使用した理由として、「淋しかった」と書かれていた。

 

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生まれたばかりの私 写真提供:はちこ

 

こうして私は、父が39歳のときに生まれた。

おそらく私が母の胎内に授精されるときも父は覚醒剤を使用しており、母が妊娠中に逮捕され、私が生まれたときには、父は拘置所か刑務所の中にいたようである。

 

そのことは、裁判の記録に、

「もうすぐ長女が生まれることですし、……」

という父の陳述が書いてあることからわかった。

このことは、長らく私の自己評価を下げ続けた。

 

私ができて、父は祖父母に離縁を解消してもらうとともに、母と籍を入れ、再び祖父の姓を名乗ることになったらしい。祖父は私が生まれる前年に亡くなった。

そのため、生まれた私は祖母、母と三人で暮らすことになった。

 

制服のまま拘置所へ

しばらくして父が出所してきて、二年後には弟ができた。

また父が家からいなくなり、私たちは弟を含め四人で暮らしていた。

次に父が出所してきたのは、確か私が幼稚園か小学校低学年のころである。

けれど、またすぐに父はいなくなり、そうこうしているうちに私は中学生になった。

 

ある日学校から帰ってくると、家のポストに父宛てで携帯電話会社からの督促状が届いていた。

勝手に開けたところ、料金は二十数万。大金である。

私は怖くなって、なんと自分の貯金を下ろして、振込用紙にあった金額をコンビニへ払いに行ってしまった。

 

あとになって祖母に見せたら、

「あんたは馬鹿じゃないのか」

と言われた。

「どうしてもっとおばあちゃんのことが信用できないのか」とも。

 

でも、私はコンビニで払い込んだ受領証を持って、中学校の制服のまま東京拘置所へ向かった。

待合室には大股を広げて座っているスーツ姿のお兄さんたちがいた。そこから面会室へ行くまでの通路はくねくねと曲がりくねっていた。

 

そこへ私が先に入って、しばらくして父が書記の方と一緒に入ってきた。

「久し振りだね」

と父は笑顔だった。

けれど、私のほうは、自分が勝手に父の携帯電話の未納料金を払ったのに、腹立たしさが抑えられない。

「お父さんの携帯電話の料金を、怖くなって払ってしまって、おばあちゃんに馬鹿って言われた。」

といってボロボロと泣き始めた。

父は、私に謝りながらも、しきりに自分の話ばかりした。しまいには私が書記の人のほうを見て、

「書記の人が、もう終わりだって言ってるよ」

などと父に忠告し、話が続くのを制した。

 

その後に父から来た手紙に、

「はちこは優しい子だね」

などと書いてあった。

ふざけるな、と思った。

 

払ってしまった二十数万円は、あとで祖母が私に返してくれた。

返ってきたのは恵まれていたと思う。

 

 ・・・第2回「父を殴る」へつづく

 

 

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