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【ひきこもりと父】たとえ親がどうであっても 第3回「真夜中の電話」(最終回)

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文・はちこ

編集・ぼそっと池井多

 

第2回からのつづき......

www.hikipos.info

 

当事者会を渡り歩く

祖母が亡くなって、何年くらい経ったころであろうか。

あるとき私はおもむろに「ひきこもり 会」などとネットで検索し始めたのである。

検索に出てきた会へ行ったかと思うと、その会で聞いた別の会に行ってみたりして、私は少しずついろいろなひきこもりの当事者会に参加するようになった。

 

その後もいくつかのひきこもり界隈の集まりに参加しているうちに、LINEを交換したIさんという男性からある日「今度、会に行く前に一緒にピザを食べませんか」と誘われた。

 

それから私たちは、途切れることなく半年以上はLINEのやり取りを続け、会に行く前にお茶をしたり、二人でカラオケに行ったりしていた。

そのうちに、二人で会を開くための準備をするようになる。

 

多分、こういうことを「付き合っている」と表現するのかもしれないが、今まで誰とも付き合ったことなどない私は、誰かと付き合ったり結婚をするなどという未来はまったく思い描いていなかった。

父や母を見ていたら、とてもじゃないけど結婚はいいものとは思えなかったのだ。



穏やかな父の顔

翌年の三月の夜遅く、母が私の部屋に来て、携帯電話を片手に持ちながら、

「お父さんが危篤なんだって」

と言ってきた。

 

もう電車なんて動いてない。

「タクシーで刑務所に行く?」

と話していると、数十分後に再度母の携帯に刑務所から電話がかかってきた。

「亡くなったってよ」

と顔を上げた母は私に言った。

 

「朝一で刑務所に行こう」

ということになり、翌朝、母と二人で刑務所に行った。

 

その刑務所は、以前に一度、父の面会に来たことがあった。

また、いつのときだったか、たまたま夜に刑務所の塀のそばの道を歩いて、

「ああ、この塀の中に父はいるのだなぁ」

と感慨深く思ったこともある。

それ以来だった。

 

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Photo by PhotoAC

しかし当たり前だが、刑務所の中は初めて入った。

警察の方が一番前を歩き、その後ろに私、その後ろに母と続いた。

一列になって歩いていくと、奥のほうに小さな建物があった。

中へ入ると、壁の両側には、刑務所で亡くなって引き取る方がいなかったのだろうと思われる骨壺が何段も置かれていた。奥には小さな仏様と、ローソクの火。

 

父はすでに木の棺桶に入って横たわっていた。

私が最初に、そっと中を覗き込む。

思ったよりもけっこう穏やかな顔をした父が眠っていた。

笠を被せてもらっている。経帷子も着せてもらって、足には白い足袋に草履も履かせてもらっていた。

母に、「きれいな顔をしてるよ」と声をかけた。そのとき母は父の顔を見たのか、見なかったのか、憶えていない。

 

刑務所に近い葬儀屋さんへ、そこから何本も電話をかけた。

「今からそちらさんの車で、父のことを運び出せませんでしょうか」

すると、その中の一軒が大きな車で刑務所の敷地の中まで父を迎えに来てくれた。

 

私たちはその小さな淋しい建物から離れて、次は父の遺品を保管してある部屋へ案内された。

びっくりした。刑務所の中って、こんなに何箱もの父の私物を、刑務所の中に置かせてもらえるものなのか。

「こちらで全て処分することもできますが」

と声をかけていただいたのだが、私は、

「うちに帰ってから、すべて見て、ゆっくり処分なり保存なりいたしますので、全部をうちへ発送していただけませんか」

とお願いをしたら、荷造りや発送伝票などは全てあちらでやって下さった。

 

お別れ会のとき、Mおばさんや親戚がほんの数人だけやってきた。

Mおばさんは父の顔を見て、

「思ったよりもずっときれいな顔してるじゃない」

と話していた。

 

弁護士さんの方からは、父ととある刑務所で一緒の部屋になったときに、同じ釜の飯を食べた仲で、父が亡くなるまでの間、毎日のように父に手紙を出して父のことを励まし続けてくれたらしい白髪の指のないご老人と、父のパシリに使われていた、というか、かつて父が運送会社を経営していたころの従業員さんの一人が来ていた。

 

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Photo by PhotoAC

祖父母のお墓に入れてもらうまでの間、父は私の部屋のタンスの上で一緒に過ごすことになった。

別に気持ち悪くはなかった。

最初の一日だけ、父は夢に出てきた。

明るいガヤガヤとして活気のある場所。どこか居酒屋みたいなところで、私は父と二人で向かい合っていた。父がニコニコしながら、瓶ビールを私のグラスに注ごうとしている。

父はビールが好きだった。私たちが小さな頃も一緒の食卓でビールを、冷凍庫でキンキンに冷やした瀬戸物のジョッキに注いで飲んでいた。

「私はお酒を飲まないし、ましてやビールは嫌いなんだけど」

と頭では思っているのだが、私もグラスを手にしており、父が笑顔でビールを注いでくれるのである。

そこで目が覚めた。

 

会話はなかった。父は笑っていた。

それきり父の夢は一度も見たことがないのだが、あの夢のどこか幸せな感じはずっと残っている。



祖母の家を売却したときは急いでいたので、家の中にあった荷物は全てとりあえずトランクルームに預けていたが、それを詳しく調べることになった。

父に関して懐かしいものがゴロゴロと出てきた。

暴力団関係で今も服役中と思われる人の荷物も、父は一緒にトランクルームに入れてあげていたらしい。馬鹿か。

私にはわからない他人様の荷物は、持ち主がそういう人だけに、という事情もあるが、やっぱり勝手に捨てられないと考え、そのトランクルームから近かった警察署の方々に事情を説明して預けることになった。



父が私に書き残した言葉

父の遺品を整理していたときに初めて、母が父にずっと手紙を出していたことがわかった。その中の一通を、私は母に内緒で開けてしまった。

母の書いた手紙には、私や弟のその時々の近況や祖母のこと、果ては父を励ますような言葉が並んでいた。

裏切られても裏切られても、母は刑務所への定期的な手紙で父のことを支え続けてきたのだった。私はため息をついた。

 

私が父に宛てた手紙も、全て残っていた。

〇〇拘置所や〇〇刑務所などの住所は、私が幼いころに書いた覚えはあったのだが、〇〇刑務所など記憶にない地名まで出てきて、当時の私はこんなにたくさんの手紙を書いていたのかと驚いた。

私の手紙を受け取って、父は嬉しかっただろうな、と想像した。

「今日は学校でこんなことがあった。おばあちゃん、お母さん、弟と、こんなことがあった」

といったことを、けなげな筆で書いていた。

中学生以降に出した手紙は、ひたすら父を罵倒するような文章に変わっていった。

 

拘置所にいる間に、父は相続に関して遺言書を書いていた。

結論からいうと、私や母は、遺言書の通りには全くしなかった。

そこには、私たち家族や親戚以外の名前も書かれていたが、誰だかわからないその名前の人は堅気の人だとは限らない。

遺言書の最後のほうは、父から私への手紙のようになっていた。

 

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写真提供:はちこ

 

この手記を読んでくれている皆さんのなかで、親が犯罪者の人はいるだろうか。

違法薬物に依存している親御さんを持っている人はいるだろうか。

また、薬物摂取をしていた親から生まれた人はいるだろうか。

 

私は父が、違法薬物を摂取していた時にできた子どもということになる。

 

たとえ親が犯罪者だったとしても、……たとえ薬物を使用している親から生まれたから細胞レベルで馬鹿になってしまったのだとしても、私はこう考えている。

 

それは、親のアディクションであって、私は悪くない。

犯罪という良くないことをしたのは親であって、私は悪くない。

子どもは何も悪くなく、自分自身が劣っているという理由になんかしなくていい。

 

 (了) 

 

 

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