(文・写真 喜久井ヤシン)
死ぬ理由
2004年。私は17で死ぬつもりだった。
8歳でガッコウに通わなくなり、社会とのつながりは弱かった。
ほとんど一人きりで過ごしてきたため、同世代との会話経験さえ少ない。
「母親」にあたる人との関係は失敗し、同じ家に住みながらも、親子関係は断絶していた。
学園もののテレビドラマでは、恋愛や修学旅行、スポーツや勉強など、学生たちの高揚が描かれている。
自分は若者らしいことがなく、人とまともに顔を合わせることもできない。
これまでの17年の人生が、痛烈に「何もない」と感じた。
そして少数派なことに、私はいわゆる「ゲイ」でもある。
当時は、同性愛者がまっとうに暮らしていける将来など想定できなかった。
地元では、同性愛者に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)も起きている。
(LGBTでなかったなら、事件の存在自体を気にかけずにいられただろう。)
「自ら死ぬ」のではなく、「他人から殺される」ことにもリアリティがあった。
私にとって、日本が平和な国であったことはない。
2000年代初頭は、「キレる17歳」として、たびたび若者の凶行が報道されていた時期でもある。
それでも目についたのは加害者としてでなく被害者の子供たちで、「いじめ自殺」にしても、大人の側の「教育」の都合で殺されているように見えた。
2006年のアイ・メンタルスクール事件にいたっては、直接的に「ひきこもり」の若者が殺されている。
日本社会の「死」の数は尋常でなく、年間の自殺者数も、毎年三万人を超えていた。
1998年から2012年まで、14年連続のことだ。
はじめて三万人を超えたときには「異常事態」と報じられたそうだが、私の世代では平時の推移にすぎない。
私は2011年の東日本大震災に対しても、正直なところ特別な危機を感じることができなかった。
単純な死者数を比較するなら、津波によって亡くなった人よりも、2011年の自殺者数の方が多い。
テレビで「早く日常に戻りたい」と言っている人がいたが、その「日常」は、大勢の子供たちや、私自身が生き延びられない社会のことだ。
私にとっての日本は、日常的に多くの人が苦しみ、死に、殺されている国だったため、巨大な災厄であっても、あらためて恐れることができなかった。
私は死に方を具体的に検討し、溺死にするか、首吊りにするかなどと考え、結果、高層マンションからの投身を選んだ。
死なない理由
マンションの手すりから身を乗り出し、数十メートル下の地面をながめながら、私は考えごとをした。
社会的にも道徳的にも、自殺はあってはならないことだとされている。
私は自ら死のうとしているが、本当にこれでよいのか?
私が考えたのは、以下のようなことだった。
まず、「死にたい」と思う人はいても、「殺されたい」とは思う人はいない。
「死んでこの世からいなくなりたい」という点では、自らを殺した場合でも、誰かから殺された場合でも、結果は同じになる。
しかし殺された場合は、「自分の生命を自分で選ぶ」という、根本的なイニシアチブ(主導権)がない。
「殺されてもいい」と思っていないのであれば、心底「自分なんてどうでもいい」と思っていない証拠といえる。
最終的なところで「自分」を大事にしているが、それを自ら「殺す」というのは、矛盾が残る。
ある本では、病気で余命数ヶ月という若い人が、健康な人に向かって、『その命を僕にください!』と叫ぶ場面があった。
私の心臓は強く鼓動しており、放っておいても全身が脈動している。
体は若く、肌は真白で、髪は黒かった。
私には人から渇望されるような命があるが、自分からそれを捨てる。
本当にそれでよいか?
古いマンガの一節に、こんな言葉もあった。
一度や二度死に損なったからといって二度と死ねないわけじゃないが……
一度死んでしまえば二度と生き返る事はできない。……
だから決断を急がないでくれ(三原順『はみだしっ子』)
今どうしても死を決行しなければならないような、緊急の理由があるわけではない。
それならば一回限りの決断を、今日すぐにおこなわなくてもいいのではないか。
私に自殺させる最大の要因は、子供時代に「何もなかった」ことだ。
私は世間を知らず、学識もなく、広い世界のことも知らない。
恋愛も友情も勉強もしていない。
しかしこの小さな人生でさえ、「なかった」経験は複雑で、多種多様だった。
自分の17年にも、劣等感の激しさや、虚無感の深さや、絶望のヴァリエーションがあり、本当に「何もなかった」とはいえない。
「経験が『何もなかった』」のではなく、『「何もなかった」という経験』を生きてしてしまっている。
(現在のコロナ禍では、「通常の学校生活が送れなかった」ことに喪失を感じる学生もいるらしい。しかし私からすれば、「コロナ禍の社会情勢で学生時代を過ごした」という、極めて現代的な経験をしている。「何もなかった」とはいえない、膨大な出来事を経ているように思われる。)
旧約聖書の『ヨブ記』では、人間が壮絶な痛苦を経験し、神への恨み事を言いつのる場面がある。
神は、おこがましい人間の言葉に反駁する。
あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。そのすべてを知っているなら、告げてみよ
私はキリスト教徒ではなく、宗教的な知識もないが、果てなく苦しむ人間の姿に共感した。
地の広さを知らないどころか、自分には「何もない」。
そのような人間が、命を判断していいのだろうか。
人間には一分後でさえ、何が起きて、誰と会い、何を経験するのかが、まるでわからない。
自殺を延期させる最大の理由が、この「わからない」ことだ。
人とは顔を合わせることも苦痛だったが、しかし、文化的な作品はそうではない。
私はよく聞いていた歌手の新曲発表予定や、期待できそうな新作の映画のコマーシャル、まだ見たことのない演劇やアートの存在を知っていた。
今日の夜にも、明日にも、来週にも、来月にも、来年にも、確実に新しい作品が生まれてくる。
そばにいる人間が助けてくれなくとも、会ったことのない他人がつくりだす文化によって、いつ何から大切なものをもたらされるのか「わからない」。
(娯楽的・芸術的な作品は「不要不急」とされやすいが、私にとって文化ほど緊急必要な分野はなかった。どれだけ経済が好調でも、福祉サービスが整っていようと、生命の持続には文化が必要不可欠だった。)
私はマンションの手すりから離れて、自らを殺めることを差し止めた。
これまでの「何もなかった」17年でさえ、複雑怪奇な境遇におちいっている。
それならば、17年をもう一度「何もしない」で生きても、予期できない出来事が確実に起こるだろう。
私は、もう17年生きることを目標に定めた。
そのためなら、ひたすら自室にこもっていてもいい。
ひたすらゲームをやりつづけてもいい。
17歳からの17年、ひたすら「何もしない」ことをしてよい。
私は「何もしない」ことを選ぶ自分を許した。
17歳から17年
2021年4月。
17歳のときに自ら亡くなることを留保してから、17年が過ぎた。
私は生き延びて、今月で34歳になる。
楽な年月ではなかったが、友達や居場所との細々としたつながりができた。
「何もしない」といいつつ、歳月は予想通りに予測不能でいる。
自分という人間は、時間をかけて変化してきた。
年末にカレンダーを買うようになったのは21歳のころ。
それまでは、「一年後も自分が生きている」とは思えなかったので、いつも買うのが遅れていた。
一人暮らしをするようになったのは23歳のころ。
親元から離れて過ごせたことで、精神が追いつめられなくなった。
はじめて人とカラオケに行ったのは25歳のころ。
日常的に外出するようになり、はじめて人とピザを食べた。
自分の収入だけで暮らすようになったのは27歳のころ。
私は人生で初めて、空が青く見えるようになった。
習慣的に執筆をはじめたのは30歳のころ。
雑誌や新聞など、いくつかのメディアに自筆が載った。
(たまにふざけたことも書いているが、それは楽しいからというより、喜劇的でなければ生に耐えられないためだ。)
良いことは少なからずある。
それでも17年前の、17歳の自分に対して、「生きていてよかった」という安直なメッセージを送るつもりはない。
わかりやすいドラマのように、はっきりした「解決」や「回復」を描いたような、ハッピーエンドの物語は安易だ。
私は今でも、子供時代に対する緩解(かんかい)を生きている。
後悔を一つだけいうなら、自分が「すべき」だと思うことではなく、「したい」と思うことを優先すればよかったと思う。
無理に同世代と並ぼうとしたり、他人の望みどおりにしたりすることはない。
誰にも気兼ねせず、自分の好きなものや、遊びになるものに手を出していればよかった。
それは経済的な面で、「人生で成功する」かどうかとは関係がない。
しかし幸福的な面で、「人生を成功させる」ことに寄与する。
私は34歳になった今日も、一瞬先の「わからなさ」を恐れ、同時に期待している。
もう一度マンションの屋上に立って、自ら生死を問われたとしても、17歳のときと同様、この「わからなさ」によって、私は死を留保する。
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文 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年生まれ。詩人・ライター。10代半ばから20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」を経験している。
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