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「安心できる居場所が頑張れる原動力」 30代女性ひきこもり当事者スミレさん講演

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写真提供:ひきこもりUX会議 以下同

 

文・スミレ

編集・ぼそっと池井多

 

一般社団法人ひきこもりUX会議が2022年1月16日に埼玉県所沢市で開催した

 

いま、見つめ直す「ひきこもり」のこと。

 

より、スミレさんの講演をお届けします。

 

ひきこもった理由はわかりにくい

スミレと申します。今日はこんなに大きなホールで、聞いてくださっている方の人数も多いのでとても緊張しています。でも今の実家が東村山で、所沢はお隣さんなので、親近感もあり少し気を楽にして話せるような気がしています。

いま私は32歳です。
ひきこもっていたのは、だいたい24歳から29歳の間です。
その間は、比較的気持ちが落ち着いていて外に出られる状態と、不安定でぜんぜん出かけられず布団のなかで泣き続けるような状態のときが、交互に繰り返しやってきました。なので、ひきこもりの正確な期間というのは自分でもわからないです。

外に出られる状態のときといっても、誰かと積極的に話しをするとか交流するというのではなく、最低限の買い物や用事を済ませてすぐ帰るといった感じで、あとは気分転換に散歩するくらいでした。
社会につながっている感覚はなくて、ずっと孤独感がありました。

「あれ、自分の状態はなんかおかしいな」
と思い始めたころまで含めると、全部で5年ぐらいになると思っています。

ひきこもった理由というのも、今でも考えてはいるんですが、これがなかなかわからなくて、簡潔に言えば「環境の変化」ということになるのでしょうけれど、「そんな単純なものではない」と自分では思っています。
たくさんの小さな「うまく行かない」という体験が積み重なっていって、「しんどいな」「つらいな」「くるしいな」と思っているうちにだんだん身体が動かなくなっていて、気がついたら外へ出られなくなっていました。

具体的に「うまく行かない」と思った最初の変化としては、引っ越しが続けて2回あったことです。住むところが変わる、それも移動が長距離となると、かなり大きな環境の変化だと思うのです。
私の出身はもともと茨城県で、高校までそこにいて、大学は関西の方へ行っていました。
祖父母の家が今の東村山にあって、二人ともすでに亡くなっており、ずっと放置状態になっていたのですが、話し合いの結果、家族5人全員でそこへ引っ越すことになり、当時私は関西で独り暮らししていたんですけど、ちょうど区切りも良かったので、関東へ引っ越してくるということになりました。

また、東村山の家が住むのに整うまでに、数か月の間、姉の家に居候みたいな形になりました。

この2回の引っ越しによる生活が凄く窮屈でした。

 

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家族のなかの関係は

窮屈だった理由としては、私のきょうだい関係がうまく行っていなかったため、だと思います。
私には兄と姉がいるのですが、二人ともすでに東京で独り暮らししていて、両親も茨城で二人だけの生活がそこそこ長くなっていました。その5人が久しぶりに全員そろって、家族として一緒に生活をすることになったのですが、それぞれの暮らしのルールとかルーティーンみたいなものがお互い合わないと言い合いになり、しだいに喧嘩も増えてきました。

とくに母と姉はぶつかることが多くて、姉が母に対してずっと不満に思っていた気持ちなどをぶつける。それを母も、いまいち理解していなくて、うまく受け止められない。母が姉に対して「良かれ」と思って取った行動が、姉にとってはぜんぜん良くなくて、それで母がさらに姉の怒りを買うといった悪循環が続いていました。

私は朝起きて、まず姉の怒りの声が聞こえてくると、それだけでもうビクビクして部屋から出られなくなりました。
私自身は両親との関係は良好だと思っています。ひきこもりの当事者会などで、他の参加者から話を聞いていると、両親とうまく行っていない、という方のほうが圧倒的に多いと感じるので、私はちょっと珍しいのかもしれません。上に兄や姉がいたからかもしれませんが、わりと自由に、放任して育ててくれたと思うので、むしろ私は、
「なぜ、この両親から私みたいな奴が生まれてきてしまったんだろう? 迷惑ばっかりかけて…なぜ、こんな育ち方しかできなかったんだろう?」
という気持ちのほうが圧倒的に強いです。

両親に対してよりも、私は兄姉に対してのほうが壁があって…。「壁があって」というよりも、たぶん自分から壁を作っているんだろうと思うんですけど。すごく仲が悪いのか、と言われれば、そうでもないですね。兄が10歳上、姉が6歳上です。

年齢が離れているうえに、二人ともお勉強ができるタイプで、私は苦手だったので、そこに劣等感があって。
家族みんなが集まって話していても、私だけ話題の内容についていけなくて、私だけ子ども扱いされている気がして、居た堪れなかったです。
お正月とかお盆とか、家族全員がそろうと、いつも私は居心地が悪くて、苦手でした。

親戚で集まるのも苦手です。学歴を気にする人も多くいました。母方には弁護士とか銀行員とか、旦那さんがお医者さんとか、そういう人が多く、父方には数学とか化学とか工学とか学者タイプの人が多くて、そんななかで私だけ芸術方面と、ちょっと異質な方へ進んだのですね。それも、美術大学を二度も中退してしまってるんです。

私は家でも末っ子だし、いとこのなかでもいちばん下なので、やっぱりみんな大人で私は相手にされない感じでした。ずっと蚊帳の外で、「落ちこぼれなんだな」というのが感じられていました。
なので、置いてけぼりみたいな感覚を、家族がまたそろって生活することによって、再び感じるようになりました。

 

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大学に通えなくなったとき

関東へ帰ってくる直前までいた関西での生活が、私はすごく楽しかったのです。挫折みたいなこともたびたびあったんですけど、わりと切り替えがうまくできたので、早いうちに前向きになれたのですね。

はじめは京都の大学にいたのですが、そこをやめたあと大阪の専門学校に入り直して、その間にボランティア活動を始めました。中学、高校と人間関係をこじらせてしまったので、ボランティア活動を通じて信頼できる友人や仲間を持てたことはとても嬉しかったです。
だからこそ、東京のほうへ帰ってきて、友人や知り合いが少なくて、それは淋しく感じていました。

二度目の大学は、専門学校を卒業後関東へ引っ越しするタイミングで編入をしたのです。そこでは写真を学んでいたのですが、
「ああ、ここ、すてきだな」
「ここ、切り取りたいな」
と心が動く瞬間がどんどんなくなっていって、写真も撮れなくなってしまいました。
学校から課題は出されるのですが、写真が撮れないから提出ができない、すると評価も出来ないわけで単位は落としてしまう、それで学校に通うのもすごく苦痛になって、だんだん行けなくなっていきました。

出かけるときは明るく「行ってきます」と家を出て、学校まで行くのだけど、身体が拒否してしまって中には入れない。そんな時が増えてきました。それでどこかで時間をつぶして、夕方ぐらいに帰っていく。でも、それすらもできなくなって、気づいたら家からも部屋からも出られない状態になっていました。

その間、父とは一度、大喧嘩をしました。
「編入して今の学校に入れたのだから、今回はなんとか通って卒業したほうがいいんじゃないか」
と言われました。
でも、父に言われるまでもなく、いちばん行きたかったのは私自身でした。高校のときに受けて駄目だったあこがれていた学校に編入学できたので、うれしかったし、がんばって続けたいと思っていたので、
「続けられるものなら、そうしたいよ!でも身体がいうことをきかない!」
と泣き叫んだところ、多分父もそこで分かったのか、それ以降は言わなくなりました。

 

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昼夜逆転で得るもの・失うもの

ひきこもっていた間は昼夜逆転の生活が続いていて、昼は家族も起きているし、いろいろな人が外に出て働いていたりとか、そういう物音が聞こえてくるのがすごくつらく感じました。夜になると、そういう音が聞こえてこず、安心するので、どうしても夜はずっと起きてしまうのです。

でも夜って、いろいろ考えちゃったりするんですよね。それもしんどくて。
もともと小さい頃からゲームが好きだったので、昔に遊んでいたゲームで気晴らしに遊んだりとか、ゲームの実況動画を見始めました。すると、それをいっしょに見ている人たちと会話することができたので、それで少しでも自分が誰か他の人とつながっていると思えました。それは現実逃避だ、逃げだ、と言われたらその通りかもしれないけど、あのときの私にはやはり、必要な時間だったのだと思います。

でも、昼夜逆転の生活でリズムが狂っていると、身体的な健康にはやはり悪いですね。私はもともとアトピー体質だったので、それが悪化して、患部がどんどん広がってしまいました。かゆくてかゆくて、夜眠っている間も無意識に掻いてしまうので、軽く腕を縛ったり、固定したりして眠ったこともあります。

お風呂に入れないことも結構ありました。お風呂に入ると、掻いたところがすごく沁みるんです。お風呂をでた後も乾燥でピリピリ裂けるように痛いんです。だから一週間以上お風呂に入らない、といったことがふつうにありました。
でも、お風呂に入らないと皮膚の汚れはたまっていくので、それでかゆくなって、もう我慢できなくてお風呂に入る、みたいな生活を送っていました。

そんな身体では外には出たくないし、ご近所さんの目も気になるので、ますますひきこもるという悪循環でした。

母親が心配して、「一度、病院へ行こう」ということになったのですが、病院が嫌で嫌で仕方がなく、小さな子どもみたいに「病院へ行きたくない」と泣き叫んだのも覚えています。

 

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中学・高校のころの生きづらさ

最近、「自分はひきこもる前から生きづらさを抱えていたのだな」ということに気づきました。もともと集団行動が苦手だったのです。中学のときも、手提げのバッグが踏まれていたり、目の前で「キモい」と言われたりしていました。いま思うと、
「あれって、いじめられていたのかな」
という経験がありました。

私はマンガとかアニメとか、デフォルメされた画を描くのが好きで、オタクだと思われていました。あの当時、「オタク」という言葉は今ほどポジティブな意味を帯びていなくて、「オタク」イコール「根暗」みたいなイメージがありました。だから、私はスクール・カーストのなかでだいぶ低い地位にあったのです。それでいじめられたり、ハブられたりしていました。

高校も二つ、行きました。
中学がつらかったので、高校はがんばろうと思って、一つめの高校では周囲に自分を合わせすぎてしまって、真逆の自分を演じていたのです。制服をいじってみたりとか、髪の毛を染めたりとか、当時流行していたギャル・メイクにしてみたりとか。
周りの人たちが「こうだ」と言っていたら、
「なんかちがうな」
と思っていても、「そうだね」と同意したりとか。

でも、そういうことでは長くは続かなくて、それまでのつらい思いをした怒りとか憎しみみたいなのが一気に暴発して、問題を起こしてしまい停学処分になってしまったのです。それで謹慎期間が明けても、その前に交流していた子達とは距離ができてしまうし、もう学校自体に不信感が募っていたので、そこはやめることにしました。

そのままモヤモヤしていたら、不登校になっていった可能性はじゅうぶんあったな、と思います。でも、次の高校を受けると気持ちを切り替えられたのは大きかったです。
二つめの高校は定時制だったんですけど、大学みたいに自分の好きな授業を選べる学校でした。また私服だったのも、制服が嫌いだった私にはよかったです。

そこは茨城県の北から南から、いろいろな地域から生徒たちが通ってきていた高校だったのですが、他の生徒たちも周囲となじめなかった子が多く、年齢もばらつきがあって、私が一つ年上で入ってきても、それを気にしない人たちが多かったので、とても気楽に思えました。それで、私も自分のやりたいことが徐々に見えてきたり、一歩前に進めたように思っています。


そこからさっき話したように関西へ行って、ボランティア活動も始めて、心も前向きになっていたので、私は自分はもう大丈夫と確信していました。これから先は明るいぞ!学びたいことも沢山あるし、いろんなことにチャレンジしていこうと、その時は自分自身に自信がありました。でも今考えてみると、ひきこもる前は、自分に対する期待値が大きすぎたんじゃないかな、と思います。

よく当事者会でも、
「あなた、ひきこもりに見えないね」
と言われて複雑な気持ちになるんですけど、自分でもそう見えないということがなんとなくわかる部分があります。ひきこもる前というのは、私はアクティブで、よく動く方だったし、元気で明るく、考え方もポジティブだったと思います。その感覚が今少しずつ戻ってきているような感じがあります。
でも、そういう自信があったからこそ、何もできなくなった自分を見ると、
「また、ここまで自分は堕ちてしまったのか」
とショックも相当大きかったのではないか、と思います。
それで、そんな情けない自分の姿はひとに見せられないから、幼いころからの友人も、ボランティア活動で知り合った仲間たちとも、ぜんぶ連絡を断ち切ってしまいました。

自分がひきこもっていると気づいてからも、
「なんで、こんなことになったんだろう? なんで? なんで?」
と、ずっと考えてわからないまま動けない時期が続きました。

 

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会場となった所沢まちづくりセンター

どうやって抜け出したのか

そんな状態からどうやって抜け出したか、ということをお話しします。

それまでも、「働かなくちゃいけない」と思ったことは何度もあったのですが、29歳の誕生日を迎えた日に、

「あれ、あと1年で私、30歳になるんだ」

ということを痛感しました。

 

「20代の後半は充実した日々になるだろうな」

と自分で思っていたのですが、現実はそうではなく、寧ろ底に落ちてしまったと改めてショックをおぼえ、

「このまま30歳にはなりたくない」

と強く思ったんですよね。

 

それで2018年の春に、ひきこもりUX女子会に参加したことが大きな転機になりました。そうした会があることについて、その半年ぐらい前に調べていて、でもそのときはまだ動ける状態ではなかったので、頭の片隅に入れておくっていう感じでした。

それを思い出して、つぎの開催日を調べて、「行くしかない!」と思いました。

 

当日は開始の時間よりもだいぶ前に着きましたが、ソワソワしちゃって結局遅刻して入りました。係の人がやさしく誘導してくれて、中に入ってみたら、思っていた雰囲気とはだいぶ違いました。

ちょっと暗いイメージだったのですが、そこには思った以上に多くの人がいたし、

「こんな経験をしているのは私だけだ」

と思いこんでいたので、まずはその人数の多さにびっくりしました。それで笑っている人もいて。途中から入ってきた私のことも受け入れてくれて、それで、

「私はここに居ていいんだな」

と思えたのがとてもよかったです。

それから定期的に女子会には顔を出すようになり、今につながっています。

 

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そして今とこれから

今はどうしているか、ということを最後にお話ししたいと思います。
ひきこもりUX女子会に参加したのを皮切りに、ほかの当事者会にも通うようになり、それでだんだん元気になってきたので、これ以上親には迷惑をかけられないと思って、早いうちに仕事を探し始めました。
面接を受けても不採用だったことが続くんですけど、そのうち何とか採用されて、パートで週3ぐらいから仕事を始めました。コロナの影響もあって、いろいろ大変だったんですけど、今は独り暮らしも始めました。

私はいわゆる社会でいう「ひきこもり」の定義にはもう当てはまらないのかもしれませんが、私自身はまだひきこもり当事者という感覚がぜんぜんあります。仕事が終わって、すごい疲れて、もう帰ったらすぐ寝ちゃうという毎日です。ほんとうは帰ってきてからいろいろなことをもっとやりたいんですけど、ぜんぜんできないです。
仕事の日はなんとか起きられるけど、休みの日は起きれなくて、行動を始めるのはお昼過ぎからだったりします。

体質的な悩みは変わっていないですし、働き始めたからこそ出てくる悩みみたいなものも出てくるし、職場の人にはひきこもり状態にあったことは怖くて話せないので、葛藤する日々は今も続いています。

でも、今はエネルギーを注げる目標みたいなものが見つかりました。
元気になるきっかけとしてひきこもりUX女子会とか、自分がそこに居てもいいと思える居場所と出会ったから動けたのですね。そこで他の参加者と交流していって、
「こういうことしてみたいよね」
という話も出てきて
「いろんな居場所があって、選択できるといいな」
って思ったんです。
こうお話しする場があったりとか、どこかへ出かけたりとか、何か創作してみたり、選べるといいな、と思って、一昨年にUX会議さんが主催した居場所づくりのワークショップに参加したんですよね。

そのときに国立市の社会福祉協議会の方がそこにいらっしゃって、ちょうど生きづらさを抱えた人たちの居場所を始めたばかりということだったのです。
私も住まいが近かったので、
「ぜひお手伝いさせてください」
ということになったんですね。

それで、そこに来た当事者の人たちと居場所の名前も「からふらっと」に決めて、ロゴやチラシなども協力して作りました。
そこでは、ジャガイモをみんなで一から植えて食べる、というプチ農業体験もやったりしています。あと、この間は陶芸とかもやったんですね。カラー粘土でお皿を作って、釉薬をつけて、という作業を初めて体験しました。お皿が焼き上がってできあがる瞬間は、すごく嬉しかったです。

私たちが「こういうことをやりたい」というのを、国立の社協さんが私たちと同じ目線に立って考えてくれるのがすごいありがたくて、それが今、私にとって安心できる居場所であり、私のがんばれる原動力になっています。

もう一つ私が「やってみたいな、できたらいいな」と思っていることがあります。
もともと美術系の大学へ通っていたこともあって、美術とかアートを通してひきこもりとか生きづらさを抱えた人たちへ何かできないかなあ、ということをぼやーっと考えているのです。
そのきっかけになったのは、渡辺篤さんという現代美術家の方がいらっしゃって、その方もひきこもり経験があって、自分の経験を元に製作を続けていて、その渡辺さんのワークショップに参加するということがありました。
「あなたの傷を教えてください」
というもので、渡辺さんのもとへいろんな方が匿名で自分の生きづらさを書いて送ってくるんですが、それを私たちが円形のコンクリートの板に書いてトンカチとか金づちで割るんですね。そのあと金継ぎでつなげていくという作業をワークショップでやりました。
いろいろな生きづらさを抱えている人がいて、理解は出来なくてもいいけど、「こういう人がいるんだな」ということを自分の頭の片隅に置いておくということが大事だということを伝えるために、こういうことをされているんですけど、そのワークショップに参加して、美術とかアートだからこそできることがあるよな、ということを感じました。

 

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そこで、からふらっとでコラージュ作品を作ってみることにしました。
雑誌とか広告をビリビリと破って、自由に貼り付けるというアートの技法があってやってみたんですね。そうしたら、みんなけっこう表現力があって、みんなでお話ししながら作ったんですけど、「この人はこういう事を考えて作ったんだなあ」と見えてきたり、とても素敵な作品がたくさんできました。

「なんかもっとこういう活動、いいんじゃないかな」
と思いました。
言葉にするのってむずかしいけど、表現することってすごく大事だと思うんですよね。音楽でもいいですけど、美術やアートっていうのは一見ハードルが高いと思うんですが、誰でもできることだと私は思うんですよ。コラージュなんていうのは、上手い下手だの何だのっていうのは全然関係ないし。

そういうことが何か一歩動くきっかけになってくれたらいいな、と思います。そういうことを今やっている居場所とか、今後どんな形になっていくかわからないですけど、挑戦してみたいと思っているのが今の私の目標です。

最後に、東京にきたばかりの頃は、寂しいという思いが強くて、この街に馴染めていないという気持ちが大きかったんですが、今こうやって居場所をお手伝いしたり、やりたいことを見つけて、なんとなく自分に馴染んできている気がしていて、「私はこの街にいていいんだな」と思えるようになってきて。もちろん今でもつらいことは沢山あるんですけど、一歩一歩進みながら、時々後退しつつもゆっくり前進はできているかな、という感じです。(了)

 

 

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