ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

明治時代には学校が燃やされていた 日本の近現代史から考えると本当は「不登校」なんてどうでもいい

文 喜久井伸哉/「不登校」最終解答試論①

 

小中学生の「不登校」は24万件を超え、近年増加を続けています。これは一般的に「問題」と考えられていますが、歴史的に見ると、「子供が学校へ行かないこと」は珍しくありませんでした。今回は、あまり語られることのない「学校」の裏歴史をお届けします。

 

 

「殺されるから学校に行くな」

百数十年前の日本では、大人たちが学校を焼き払っていた。

ネットの「炎上」ではなく、実際の放火である。

明治政府が広めようとした「学校」制度に、多くの人々が反発していたためだ。

 

当時の日本は、西洋に習った近代化を推し進めるために、強引な手を使ってでも、勤勉な工場労働者を増やす必要があった。

日本の公教育制度の原点が、「子供の学びのためにできた」とは言いがたい。

生産力向上のために、労働者を効率よく生み出すためにできたのが学校制度だった。

 

多くの人々が強権的な政策に反発し、各地で数十件もの一揆(いっき)がおきている。

その際、政府が推進した制度の象徴となる建物への放火がおこなわれており、役人の家宅や交番などとともに、集中的に狙われたのが学校だった。

1873(明治6)年の名東(みょうどう)県(現香川県)の一揆では48校、

1876(明治9)年の伊勢暴動では、三重県だけで79校が破壊された。

 

当時の多くの人々にとって、「学校」は未知の制度であり、そのいかがわしさからデマも流れていた。

1873年(明治6)の『東京日日新聞』には、市民の声として以下が掲載されている。

『学校学校というて村々に子供を一所へ集る所をこしらえておいて、目印の旗に番付けを記して立てておくと、それを目当てに唐人が来て集めてある村中の子供を一度にしめ殺して生き血を絞るという説もっぱらにて、十日ばかり前より子供を学校へやることも止めたよし』

「学校に行くと殺される」という理由で、大人が子供に「学校へ行くな」と言っていたのだ。

現在「義務教育」と訳されている「Compulsory Education」という言葉も、当初は「強迫教育」と訳されていた。

 

戦前は「自宅学習」が認められていた

なお「学校へ行くこと」が、義務として強制されていたわけではない。

戦前の教育令や小学校令を見ると、政府じきじきに「学校外で学習してもよい」という文言を出している。

明治33年の小学校令の一節(筆者による現代語訳)はこうだ。

『学齢児童保護者は、就学すべき児童を市町村立尋常小学校、またはこれに代用する私立小学校に入学させること。ただし、市町村長の認可を受けた家庭、またはその他において尋常小学校の教科を修めること。』※1

明治時代に、現代でいうホームスクーラー(家庭を拠点にする学習者)が想定されていた。

この条文は戦時体制下の国民学校令によって削除されてしまったが、「学校に行かないこと」が禁止されていたわけではないのだ。

 

数十年を経て公教育への理解が広まってからも、貧困による「不就学」が多かった。

貧しい家にとっては、子供が「学校」に行ってしまうと、貴重な働き手がいなくなる。

学力や学歴よりも、日々の労働を重視せねばならない事情があった。

 

1932(昭和7)年、ある教師の書いた詩がある。

『こんなひどい雨の日には
きまって欠席が多いのです
それは傘がないから
はきものがないから
そうでなくってさえ欠席の多い
私の受持
たった一日も出たことのない児童が五名
今日の欠落十三名』(森谷茂「五月雨の日に」)

労働を重視することからくる長期欠席は戦後もよく見られたことで、特に農業や漁業に従事する子供の「不就学」が多かった。

 

100年前の「不登校」小説

もっとも、「学校に行かないこと」は、貧困のせいだけではなかった。

「学校」制度が成立した直後から、今でいう「不登校」のような若者はいた。

 

永井荷風が1909(明治42)年に発表した短編小説『すみだ川』には、学校に行かない若者が登場している。

十八歳の長吉は、母親から出世の期待がかけられており、高等学校の試験に合格せねばならないというプレッシャーがあった。

しかし長吉は学校を休み、日中を町中で過ごす。

 

『学校はもう昨日から始っている。朝早く母親の用意してくれる弁当箱を書物と一所に包んで家を出てみたが、二日目三日目にはつくづく遠い神田まで歩いて行く気力がなくなった。〔…〕つまらない。学問なんぞしたってつまるものか。学校は己れの望むような幸福を与える処ではない。』

 

年末年始の学期休みには、年が明けて新学期が始まることを恐れ、辛い憂鬱に見舞われる。

 

『これから先の一年一年は自分の身にいかなる新しい苦痛を授けるのであろう。長吉は今年の十二月ほど日数の早くたつのを悲しく思ったことはない。』

 

時代や環境にかかわらず、学生には「学校に行かないこと」があった。

「学校」に何も問題がなく、すべての若者が疑いなく通学していた時代など、日本の歴史上一度もなかったといえるだろう。

 

通学が規範になったのは戦後のこと

2022年の文科省の発表によれば、中学生の長期欠席生徒(「不登校」)は16万3342人で、中学生全体の5%にあたる。

メディアでは「前年度に比べて過去最大の増加率」と報道されたが、「増加率」が最大なのであって、割合が最大なのではない。

戦後の1949年には、中学生の7%以上が長期欠席をしていた。

また、戦後において「学校に行かないこと」は社会情勢の一種であり、子供個人の問題とみなす人は誰もいなかった。

(「登校拒否」の言葉もなかった頃である。)

多くの子供たちが「学校に行かないこと」は、「前代未聞」でも「異常事態」でも何でもないのだ。

 

現代社会で名声を得るのは高学歴な人が多いが、それも戦後を過ぎてからの主流にすぎない。

「低学歴」の著名人として有名なのは田中角栄元首相で、現代での中学校卒業に相当。

文化人も例外ではなく、日本映画の黄金期を築いた名監督たちは、学歴と縁のない人々が多かった。

国際的評価の高い溝口健二や衣笠貞之助は小学校卒業、

小津安二郎や黒澤明、木下恵介らは中学校卒業に相当する。

学力や文化や情緒育成のために「学校へ行くことが必要不可欠」というなら、戦後日本の大勢の文化人たちを否定せねばならない。

 

ある精神医学者は、学校の近代史をこう評している。

『実のところ、暮らしのなかに学校があるというのではなく、学校のなかに暮らしがあると解していいような歴史的季節にわたしたちは居合わせている。

 わたしたしの暮らしや人生のなかで学校という制度がこのような絶対的、超越的な規範性を帯びたのは、昭和30年代前半(筆者注 1950年代後半)のことである。』(生村吾郎「学校のやまいとしての登校拒否——学校はこどもをいじめている」)

 

『もはや戦後ではない』という発言があったのは1956年だが、日本の経済発展とともに、「学校へ行くこと」が国民の規範となっていった。

大学進学率が20%を超えたのは、1969年のこと。

各地に学園闘争が吹き荒れ、「学校」が大きく揺れていた時代だ。

70年代から90年代には、受験戦争や学級崩壊などが大きく報じられ、90年代、2000年代には「荒れる子どもたち」や「キレる17歳」の報道が過熱していた。

あらためて、「学校」が平穏だった時代などないといえる。

 

 

「登校拒否」の問題化が生まれた

「学校へ行くこと」が当たり前になった社会で生まれたのは、「学校へ行かないこと」が異常視される社会だ。

現代でいう「不登校」は、当初「学校嫌い」や「学校恐怖症」と「診断」されていた。

「学校恐怖症」の名称は、1941年、アメリカのA・M・ジョンソンによって名付けられた「school phobia」の翻訳からだ。

議論が進む中で「登校拒否」の名称が主流となったが、これは無気力や怠けとして報道された経緯から、ネガティブな意味が宿ってしまった。

なお日本で最初の研究論文は、1959年の佐藤修策『神経症的登校拒否行動の研究――ケース分析による』だと言われている。

「不登校」という言葉が最初に使われたのは1968年で、精神医学者の清水蔣之(まさゆき)が学会で使用したもの。

90年代から2000年代にかけて、「学校へ行かないこと」は「登校拒否」から「不登校」へと名を変えて論じられるようになり、現代ではこの呼称が大半を占めている。

 

もっとも、アメリカや北欧や中東などの各地域では、「不登校」にあたる概念のない国が多い。※2

世界の多くの国でホームスクールが認められているため、学校へ行かない場合は自動的に「ホームスクーラー」(家庭を拠点にして学習する人)となる。

「学校へ行かないこと」自体は、なんら問題とみなされていないのだ。

 

日本で「学校へ行かないこと」=「不登校」が報じられるとき、多くが暗いニュースとして扱われている。

イメージ映像として、慣例的に「苦しそうにしている子供」や、「落ち込んで体育座りをしている子供」が使われてしまう。

しかしホームスクーラーとして健康に育つ子供がいるとき、そこに問題はなく、支援対象となるべき子供もいない。

ホームスクールが一般的な諸外国の人々にとっては、子供個人を問題視する報道スタンスが、理解できないのではないだろうか。

大学へ行くにしても、日本には大検(高卒認定試験)があるため、高校通学が必須なわけではない。

 

 

実は「問題」がどこにもない?

「学校に行かないこと」を、行政がことさら問題視しているわけではない。

文科省は教育関係者に向けて、「不登校児童生徒への支援の在り方について」という通知を出している。

1994年には、「登校拒否はどの児童生徒にも起こり得るもの」という、当時としては画期的な文言が入った。

2017年の通知では、不登校を「問題行動と判断してはならない」と言い切っている。※3

 

誤解されやすいが、憲法上の「教育の義務」も、子供が学校へ行くことを指していない。

本義は「養育者が子供に教育を受けさせること」であり、子供の学校通学を義務づけるものではない。

 

「不登校の問題」というとき、それはとても奇妙な「問題」なのだ。

国際的にも、歴史的にも、法的にも、行政的にも、制度的にも、「問題」がない。

ただたんに、今現在の日本に住む多くの人々がなんとなく問題視しているから、「学校へ行かないこと」がなんとなく問題になっている、というにすぎないところがある。

 

研究者の山岸竜治は、『不登校論の研究』の中で、論考を以下のようにまとめた。

『そもそも、不登校問題は、学校制度が絶対的な規範性を帯びるという1950年代の社会的変化によって生じたものである。したがって、考えようによっては、不登校問題というのは、不登校を問題――病理とか逸脱とか――と見る時代や社会があるという、ただそれだけのことなのである。われわれは、子どもが学校へ行っていないことを重大視する時代ないし社会でなければ、実は不登校問題も存在しない、という相対的な視点を忘れてはならないのである。』

 

目の前の子供に「学校へ行かないこと」があったとき、親は「同い年の子は学校へ行っているのに」とか、「周りの子と比べて勉強が遅れてしまう」などと考え、うろたえてしまいやすい。

教育関係のウェブサイトや本を見ると、「子どもが不登校におちいってしまったら」とか、「親が対処しないととんでもないことになる」とかといった、不穏な情報が大量にある。

 

しかし「学校へ行かないこと」を歴史的・国際的な視点で見ると、ある意味で、実に「どうでもいい」部分がある。

百年単位で見れば、日本の「学校」自体にそれほど信用できる歴史がなく、現代においても、何かに違反しているわけではない。

子供一人の「不登校」を語るために「専門家」や「精神科医」が出てきてしまうと、「問題をどうするか」といった観点ばかりになってしまうが、大きな視点で見ると、そもそもどこに「問題」があるのかが疑わしい。

目の前の子供一人だけのことを考えるのも大事だが、時には視野を広げて、「学校に行かないこと」とは何かを、根本的にとらえなおしてみるのもよいのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

※1 小学校令(明治33年)第36条 原文 『学齢児童保護者ハ就学セシムヘキ児童ヲ市町村立尋常小学校又ハ之ニ代用スル私立小学校ニ入学セシムヘシ但シ市町村長ノ認可ヲ受ケ家庭又ハ其ノ他ニ於テ尋常小学校ノ教科ヲ修メシムルコトヲ得』

※2 英語で「学校を休む」は「absent from school」(学校にいない)であり、「不登校」・「登校拒否」・「怠学」のように「休む」を意味する字義はない。

※3 文部科学省「不登校児童生徒への支援の在り方について」(2017年)抜粋『不登校とは、多様な要因・背景により、結果として不登校状態になっているということであり、その行為を「問題行動」と判断してはならない。不登校児童生徒が悪いという根強い偏見を払拭し、学校・家庭・社会が不登校児童生徒に寄り添い共感的理解と受容の姿勢を持つことが、児童生徒の自己肯定感を高めるためにも重要であり、周囲の大人との信頼関係を構築していく過程が社会性や人間性の伸長につながり、結果として児童生徒の社会的自立につながることが期待される。』

  参照文献
森重雄『モダンのアンスタンス』 ハーベスト社 1993年
藤野裕子『民衆暴力』 中央公論新社 2020年
全国不登校新聞社「不登校50年証言プロジェクト #25永井順國さん」2017年(WEB http://futoko50.sblo.jp/article/181109770.html
永井荷風『すみだ川・二人妻』 新潮社 1969年 
森谷茂「五月雨の日に」『プロレタリア文学集39 詩集2』 新日本出版社 1987年
文部科学省「2021年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」
生村吾郎「学校のやまいとしての登校拒否——学校はこどもをいじめている」 河合洋編『いじめ——《子どもの不幸》という時代(メンタルヘルス・ライブラリー①)』 批評社 1994年
滝川一廣『学校へ行く意味・休む意味』 日本図書センター 2012年
山岸竜治『不登校論の研究』 批評社 2018年

『WEB版 HIKIPOS』をご覧いただき、ありがとうございます。
HIKIPOSは、紙面やウェブでの広告収入にたよらず、読者の皆様からのご支援で運営されています。
新型コロナウイルス感染拡大以前は、「ひきこもり」に関するイベント会場で冊子版の販売をおこなっておりましたが、イベントの中止・延期にともない、販売する機会が減ってしまいました。今後も『HIKIPOS』を円滑に運営していくために、皆さまからのご支援をいただけると助かります。
この記事を読んで「何か得るものがあった」と思われた方は、下のリンク先の「サポートページ」からお気持ちを送ってくださると、大変ありがたく存じます。

note.com

--------------
喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。8歳からホームスクーラー(いわゆる「不登校」)となり、ほぼ学校へ通わずに育った。約10年の「ひきこもり」を経験。20代の頃は、シューレ大学(NPO)で評論家の芹沢俊介氏に師事した。現在『不登校新聞』の「子ども若者編集部」メンバー。共著に『今こそ語ろう、それぞれのひきこもり』、著書に『詩集 ぼくはまなざしで自分を研いだ』がある。
Twitter https://twitter.com/ShinyaKikui