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めるかさん当事者手記 第1回 ファッション業界を夢見て

~ 編集部註 ~

この記事には「奥さん」などの単語が混じっています。

不快に思われる方は読まないでください。

ランウェイ Photo by Yogendra Singh

 

文・虹野めるか

編集・ぼそっと池井多



父は写真でしか見たことがなくて

わたしは地方の田舎から出てきて、東京でファッション業界に就職しました。

田舎では、わたしが小さいころに父が家を出ていきました。

だから、父の顔は写真でしか知りません。

詳しいことは教えてくれませんでしたが、どうも母に好きな人ができたのが原因だったみたいです。

その後、スナックをやっている母は女手一つでわたしを育ててくれましたが、ときどき男の人を連れて帰ってきました。

男の人は一、二年ぐらいでときどき替わりました。男の人が家にやってくると、わたしは、

「母に気に入られるためには、わたしは外へ遊びに行った方がいいな」

と気づいて、素早くそのようにしました。

外に出ても、仲のよい友達がいなかったので一人で遊んでいました。

まだ男の人がいるうちに家に帰ると母の機嫌が悪くなるので、できるだけ遅くまで外でねばっていました。

それで、小学校3年生でも夜に外にいることはザラにありました。

冬なんか寒いので帰りたくて帰りたくて、夜の公園でバタバタ足踏みして身体を温めてました。

そんな時は、会ったことのない父がふいに現われて、わたしを優しく抱き上げて助けてくれるという夢想をしていました。

 

そういうストーリーを自分でつくって自分で演じるのです。

わたしは父に話しかけます。

「パパ、助けに来てくれたのね」

すると、父はわたしに答えます。

「そうだよ、めるか。心細かったかい?」

「うん、とってもさびしかった」

「そうか、そうか。もう大丈夫だよ。めるかがお家に帰るまでパパがいっしょに遊んであげよう」

そんな独り芝居をずうっとやって、夜の公園の時間をつぶしていました。

 

わたしは人に対して気を遣ってしまうせいか、人に怒るということができません。

スナックで接客している母の姿を見て育ったせいかもしれません。

母の態度がそのまんまわたしにコピーされているのです。

母も、わたしにはよく怒りますが、わたし以外の人に怒ったところを見たことがありません。

 

人に対して怒れないぶん、怒りは身体にたまります。

学校では、母の仕事をバカにする子たちがいました。

みんな汚い言葉を使って母のことを語り、その娘であるわたしをバカにしました。

わたしは「オミズ」と呼ばれていました。母の仕事が「水商売」だからです。

中には母のことをもっとひどい言葉でののしる子もいました。

 

わたしは、

「よし。いつかわたしは有名なデザイナーになって、この子たちを見返してやる」

と思うようになりました。



憧れの業界に就職して

わたしは小学校の高学年のころから、ずっと東京のファッション業界で働くことに憧れていました。

高校を出て、上京して、服飾の専門学校に通い、あるデザイナーの先生のアトリエに見習いで入れたときは「やった!」と思いました。

アトリエのあった南青山は、東京の中でも最もおしゃれなエリアとして知られていました。

これで田舎のあの子たちを見返せる、と思ったのです。

 

ファッション業界とアパレル業界はよく間違われるんですけど、アパレルは工場で服を大量生産する産業で、ファッション業界はデザイナーの先生に弟子入りして、流行の最先端を創っていく工房です。

でも、じつはそんなに華やかな職場ではありません。

ファッション・ショーのランウェイでモデルさんがたった十数秒のあいだ見せる服を、何ヵ月もかけて地道に創っていく作業部屋でした。

さらに、アトリエによっては古いしきたりや習慣がどっさりある徒弟制度みたいなのが敷かれています。

うちのアトリエは女性ばかりだったので「女の相撲部屋」という人もいました。

 

わたしはデザイナーやパタナー(*1)の見習いとしてアトリエに入りました。
アトリエといっても、事務仕事をやるオフィスの部屋もあり、全部で一つの会社になっていました。

見習いは正規の社員ではなくバイトの扱いでした。でも、専門学校と違って、学びながらお金がもらえるので、この業界で生きていこうと思ったらおいしい身分でした。

 

*1. パタナー 服の型を作る人を指すとのこと

 

わたしは、布など素材の調達や作品の納期の管理などの担当になりました。

でも実際に忙しかったのは先生を始め先輩たちのパシリでした。

文字通り、ほとんど一日中走り回っていました。

 

コーヒー一つお出しするのにも、

「先生は何時にはモカ、何時にはキリマンじゃないとダメ」

「チーフの○○さんは縫製の最中はお声をかけてはいけない」

「セコンドの✖✖さんにハサミを渡すときは右の後ろ30度から」

などなど細かい決まりがいっぱいありました。

そんな決まりを一つ間違えるだけで、まるでもう人間じゃないみたいにクソグソに先輩たちに言われるのです。

わたしは田舎でアバウトに育ったせいか、それとも人に気を遣いすぎてしまう性分のせいか、決まりがたくさんあることが苦しく、毎日、身体よりも神経が疲れていきました。

 

それに加えて、アトリエの女性たちのお互いのマウントバトルがすごかったです。

みんな、その場に居ない人のことをクソグソにコケおろしました。

だから、わたしはつくづく

「ああ、こんな人たちと一生つきあっていくのはいやだ」

と思いました。

ぜんぜん居場所感はありませんでした。

でも、出ないと今度は自分がコケおろされるので、怖くてその集まりに出ないでいることができませんでした。

それでもわたしはそこで2年を過ごしました。

いま考えると、「よく2年も我慢してたな」と思います。



誇れるものが何もなくて

さっき「女の相撲部屋」といいましたが、相撲部屋と違うところは、相撲部屋は女人禁制だそうですが、うちのアトリエは男人禁制ではなかったことです。

取引先の男性たちが出入りしていました。

ちょっと若いイケメンの子が来ると、たちまち先輩女性たちの声や話し方が変わりました。化粧室は取り合いになり、先輩から順番に化粧室に入って出てこなくなり、出てきたときにはみんなメイク直してました。

 

そんな調子だったから、下っ端の私は同じ年代の男性と話をすることはできませんでした。少しでも割って話しかけようものなら、先輩の鬼のような視線が振り向きます。そうなったらもう引っこむしかありません。

それで、わたしは同じ出入り業者でも、布屋さんの社長みたいな年上のおじさんばかり相手にする専門になってしまいました。


田舎から出てきた私は、東京でアトリエの人たちの他には知っている人はいませんでした。

だけど、アトリエが引けてからも彼女たちと行動するのは疲れるので、外で遊ぶこともありませんでした。
同じ学校を出た子や、同じ町から東京に来ている人たちもいたみたいだけど、もともとあまり仲がよくなかったので、わざわざ東京で会いたいとは思いませんでした。

だからわたしは東京で独りでした。

遊ばないから、お金はたまっていきました。

 

アトリエの休憩時間に話しているときは、先輩たちは穏やかに話しながらも、みんな何だかんだ言って結局、

「自分がいちばん才能がある」

と言いたいらしく、そのへん微妙に競っていました。

にこやかにお茶を飲んでいるときも、そこには見えない火花が散っていました。

 

でも、そういう先輩たちを見るたびに、わたしは胸が締めつけられました。

みんな自分の才能を信じているから、この業界に来たのでした。

ところが私はどうでしょう。

業界に憧れてやってきただけでした。

田舎でわたしをバカにした奴らを見返してやろうと思ってるくらいで、とてもではないけれど、自分に才能があるなんて思えませんでした。

かといって、わたしはそんなにビジュアル良くないし、先輩たちみたいに「女」で競える力もありませんでした。

 

ワクワクしてこの業界へやってきたはずなのに、毎日、何から何まで自信がなくなっていくことばかりでした。

わたしは自分のマンションに帰ると独り落ちこみ、

「こわい、こわい。あんな所、もう二度と出社したくない」

と思って、バスタブのなかで顔パックしたままウオンウオン泣いていました。

 

それでも、初めのうちは翌朝になると、また気持ちを入れ替えて出社していたのです。

ところが先輩たちにこっぴどくいじめられた日があって、その翌日とうとうわたしは本当に出社できなくなってしまいました。

 

素材としての布 Photo by Pexels

会社へ行けなくなってしまって

出社しないでお部屋にいると、アトリエで先輩たちがわたしのことをクソグソにコケおろしている会話がリアルに想像できました。

それでもっと怖くなって、ますます出社できなくなりました。

 

アトリエから電話がかかってきました。

たぶん事務方トップのおばさんでしょう。

うちのアトリエは先生が厳しいことで有名で、無断欠勤する子なんかいませんでした。

だから、こんなことをやってる自分が恐ろしくなり、電話にも出られなくなりました。

 

電話は何度かかかってきましたが、やがてパタリとかかってこなくなりました。

きっと先生が、「もうかけなくていい」と言ったんだと思います。

わたしは怖くなって、外に出られなくなりました。

誰かアトリエの人が様子を見に、わたしのマンションの外までやってきてるかもしれない、と考えたからです。

それで、出社しなくなってから3日ぐらいはぜんぜん外へ出なかったのですが、食べ物とかなくなってくるので、買い物は行かないわけにいきません。

そこで、真夜中になってからダッシュでいちばん近くのコンビニへ行って、買い物して、ダッシュで帰ってくるようになりました。

 

パパが助けに来てくれて

そんなある日、部屋のピンポンが鳴りました。

とうとう誰か来たのです。

 

恐る恐るインターホンで見てみると、わたしたちのアトリエに出入りしていて、素材担当のわたしがよく応対していた布屋さんのK社長でした。

 

なぜK社長がわたしのマンションなんかに来たのか。

わたしは初めわかりませんでしたが、社長はインターホン越しに、

「虹野ちゃんがこのごろ出社しなくなったと聞いて、心配になって来てみたんだよ」

と言いました。

 

(あのアトリエ周りでも、いちばん下っ端のわたしを心配してくれる人がいたんだ!)

と思うと、わたしはジーンと来ました。

わたしはふと、小さいころに夜の公園で想像した、お父さんが助けにくる夢を思い出しました。

そこで鍵を開けて、社長に部屋に上がってもらうことにしました。

 

社長は手土産に、アトリエのそばにある、行列に並ばないと買えない洋菓子屋さんのシュークリームを買ってきてくれたので、わたしも感動してお茶を淹れて、これまでのことを話しました。

「そうか。虹野ちゃんはあそこでそんな思いをしてたんだねえ。なんかいつも君が青い顔して緊張してるな、とは思っていたよ」

社長からそう言われると、この東京でわたしのことを見てくれている人なんか誰もいないと思ってたのに、

「この人はずっとわたしのこと見ててくれたんだ」

と思えて、独りで張りつめていた緊張の糸が一気に切れて、グスングスン泣き出してしまいました。

思えば、田舎では母もわたしのことを認めてくれたことがありませんでした。

わたしを東京へ送り出すときにも、

「お前みたいなブサイクで何の取り柄もない娘は、きっとどこへ行ってもダメだよ」

と母は言っていました。

今回わたしがせっかく良い先生のアトリエに入れたのに出社できなくなってしまったのは、母の言葉が本当だったと証明したようなものでした。

「悔しい。悲しい」

わたしがオイオイ泣き始めたので、社長はわたしの背中をさすって、そのままわたしの泣き言をずっと聞いてくれました。

「そうか、そうか。でも、それは虹野ちゃんが人一倍、心が繊細だからこうなったようなもんだよ。それは将来、良いデザイナーになれる才能みたいなもんだ」

と社長は言ってくれました。

わたしは嬉しいのか悲しいのかわからないまま、もっとオイオイと泣きました。

泣くだけ泣くと、なんだかわたしの中が空っぽになったみたいに心細くなって、このまま社長が帰っていくのが不安になり、お願いして、その日は泊まってもらいました。

 

次の日、社長はアトリエへ行って、わたしとの間に立って、わたしがもう一度アトリエで働けるように取りなそうとしてくれました。

でも、わたしが休んだことで大事なプロジェクトに穴が開いてしまったらしく、うちの厳しい社風もあって、いくらお得意さんの取りなしでも認められませんでした。

「もう、いいです」

とわたしは社長に言って、自己都合でアトリエを辞めることにしました。

 

無職になったわたしを、社長は社長の会社で雇ってくれると言いましたが、繊維問屋はどこも苦しくて社長の会社も例外ではないことは前から知っていたので、わたしがそれは遠慮しました。

それでわたしは行く場所がなくなり、毎日お部屋で過ごすようになりました。そして、社長が三日おきぐらいにわたしの部屋へ来てくれるようになりました。

買い物もしてきてくれるので、わたしは外へ出る必要がなく、とても便利でした。

 

社長とはちょうど親子くらい齢が離れています。

わたしは社長をだんだん「パパ」と呼ぶようになりました。

パパも、わたしに「パパ」と呼ばれると、とても嬉しそうでした。

パパもわたしを「めるか」と名前で呼ぶようになりました。

わたしも、パパに「めるか」と呼ばれると、パパの娘になったみたいで嬉しかったです。

もちろん、わたしたちはもう父と娘の関係ではなくなったことは意識していました。

パパが来ている時間は、天国のように幸せでした。

パパには、奥さんも息子さんもいることは知っていましたが、それが何かわたしたちに関係があると考えたことはありませんでした。

 

・・・第2回へつづく

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