・・・第2回からのつづき
文・虹野めるか
編集・ぼそっと池井多
パパからお願いを切り出されて
わたしは前回、第2回で書いたような生活をずーっと続けていきたいと思っていました。
でも、ある日、わたしの部屋へやってくるなり、背広も脱がないで改まった姿勢のまま、パパはこう言ったのです。
「めるか。今日はパパから一つお願いがあるんだよ」
「なあに」
パパの顔が緊張しているので、すでに何かいやな予感がしました。
「カナイに会ってほしいんだ」
とパパは言いました。
「カナイ?」
わたしははじめ、パパには金井さんというお友達がいて、その人に会ってくれ、と言ってるのだと思いました。
「パパのお友達?」
「うーん、友達でもあるかもしれないが、そうでもない」
「なにそれ。いったいどういうひと?」
「つまり、……なんていうか、ようするに、奥さんだ」
「げっ! パパの奥さんってこと?」
パパは「家内」と言ったのでした。わたしの田舎では、母も母のまわりの人たちもそんな言葉を使ったことがなかったので、想像もつかなかったのです。
わたしは思わず叫びました。
「いやだ! ぜったいにいやだ」
東京の人はこわい。世の中の人はこわい。だから誰にも会わないでひっそりとお部屋で暮らしてきたのに。
もともと人には会いたくありませんでした。
あまり考えたことはなかったけど、人の中でもこの世のなかで、この東京で、いちばん会いたくないと心のどこかで思っていた人はパパの奥さんでした。
ていうか、パパの奥さんなんて人は、会いたくなさすぎるので、わたしの中ではこの世界にいないみたいになっていました。考えないようにしていたのです。
理由は、やっぱりパパの奥さんはパパと結婚している人だから、わたしのことを知ったら殺したいほど憎むだろうし、もうパパをわたしに会わせないようにするでしょう。
わたしの母は結婚していなかったので、わたしは結婚というものがよくわかりませんでした。ていうか、今もわかりません。
わたしにとって結婚というのは、テレビや映画の中だけで見るものです。そして、最近の連ドラとか見ると、テレビのなかで見る結婚のかたちもずいぶん変わってきています。
でも、わたしみたいなポジションにいる女子には「奥さん」「家内」が天敵だということぐらい、結婚がよくわからないわたしにもよくわかりました。
「いやだよ。そんなことしたら、もうパパに会えなくなっちゃう」
「いや、むしろめるかが家内に会ってくれない方が、私たちが会えなくなっちゃうかもしれないんだ」
「なに言ってるか、パパ、イミフだよ」
ケンカになりました。
たぶんこれが、パパとの初めてのケンカでした。これまでパパとわたしの間ではケンカになったことがなかったのです。
なぜかというと、ケンカになりそうになると、いつもパパはシュークリームのようにわたしを甘く包んでくれて、わたしの言うことなら何でも聞いてくれたからです。
ちなみに、わたしはシュークリームはカスタードより生クリーム派です。
でも、この日はそうではありませんでした。
「めるか。聞いてくれ。これがいちばん良いと思うからお願いしてるんだ。
パパからめるかにお願いすることなんて、今までなかっただろう?
それは、これがそれだけ大事だということだ。
パパを信じて、今回は黙って従ってくれ」
「いやだ、いやだ。こわいよう」
もう、吐きそうでした。
とうとうその日はケンカしたままパパは帰っていきました。
そしたら、わたしのなかに残った罪悪感がハンパなかったのです。
パパはもう二度とわたしのマンションに来てくれないんじゃないか、と心配になりました。
奥さんがわたしの部屋へ乗りこんでくることになって
次にパパが来た日も、またその話になりました。
でも、時間が経ったぶん、わたしも冷静になっていて、わたしの中にも
「パパがこれほど言うのだから、何かあるにちがいない。少しパパの話を聞いてみよう」
という気持ちが出てきていました。
だからわたしは聞きました。
パパの話はこうでした。
わたしのことは、もうすっかりパパの奥さんに知られている。
奥さんは、知った直後は少し機嫌が悪くなったけど、そのうちに冷静になり、いまでは一度会って話をしたい、と言っている
しかも、その「話をしたい」というのは、わたしを別れさせるとかお金を請求するとかそういうためではなく、大人として処理するためのものである。
「大人として処理する、ってどういうこと」
「まあ、それは会えばわかる」
そこをわたしは会う前にいちばん知りたかったのですが、パパはそこは
「まあ、まあ」
などと言って、詳しく話してくれませんでした。
今から考えると、パパもよくわかってなかったのかもしれません。
直接対決の日がやってきて
とうとうその日がやってきました。
わたしのワンルームマンションに、住んでるわたし以外で一番最初に入ったのは、あったり前のことですがパパでした。でも、二番めに入ってくるのがパパの奥さんになるとは、ぜんぜん予想してませんでした。
わたしは緊張して、その日は朝早くから部屋中を掃除しました。
狭いのでそんなに掃除するところはなく、同じ所を何度も掃除してました。
約束の時間通りにインターホンが鳴って、奥さんがパパといっしょに入ってきました。
奥さんはパパと同じようにおなかがでっぷりと太って、五十代っぽい貫禄のあるおばさんでした。
わたしはデザイナーだったせいか、どうしても女の人を見るときに服しか見ないところがあります。
奥さんはさすが布屋の社長夫人だからなのか、着心地のよさそうな柔らかい素材でブラウン系のノースリーブを着こなしていて、肌が出ている腕や肩にはボリューム感が漂っていました。迫力が、ありました。
「あんたが、めるかちゃんね」
「はい、そうです、すいません」
そう答えながら、わたしはなんで自分がそこで「すいません」と付けたのかわからなくて、少し情けなくなりました。そんなとこ、謝る必要なんかなかったのです。わたしがわたしであることに、いったい何が悪いのでしょう。
でも、わたしのポジションに立たされた女の子ならやっぱり「すいません」というだろうから、わたしの感覚は世の中とそんなにずれていないんじゃないか、と考え直したりしていました。
その間にも奥さんは、わたしとわたしの部屋を代わりばんこにジロジロ眺めていました。わたしを値踏みしてる感じでした。それでわたしは、奥さんの前に裸で立たされているような心細さをおぼえました。
こんな時にはパパが何か言ってくれればいいのに、パパもまじめな顔で黙っています。
なんだか放置プレイにあっている気がしてきました。
やがて奥さんが言いました。
「んまあ、ショーシヌケったわ」
「はい?」
わたしは奥さんのいった言葉がわからなかったので聞き返しました。今から考えると、あれはどうやら「拍子抜けしたわ」と言ったようでした。
「うちの人が、またどんなアザトイ若い女に引っかかったかと思ったら、あんたみたいな田舎っぺのオボコだったのね」
奥さんがそう言うと、パパがようやく口を開きました。
「だから、言ったろ」
わたしは戸惑いました。
え?
パパはわたしについて奥さんに何を言っていたの?
田舎っぺ?
オボコ?
それってわたしをバカにしてるんじゃないの……
パパは、わたしにはふだんそんな風にわたしを言うことは一度もありませんでした。なのに、事もあろうにわたしのライバル、奥さんにわたしのことをそんな風に言うなんて!
わたしはめっちゃムカついてきました。今すぐパパにそれを聞きたくなっていました。なんで奥さんにそんなこと言ったのか、と。
でも、この時はそんなことを聞いてる状況ではありませんでした。
とりあえず、お茶を淹れることにしました。持ってる中ではいちばん良い紅茶の葉を選びました。
お茶を飲みながら、三人の中でいちばん緊張してたのは、どうやらこの部屋の持ち主であるわたしでした。お客さんであるパパと奥さんは、自分の部屋のように堂々としていました。とくにパパは、さっきと比べると、一気にほっとしたような、緊張の解けた顔をしているように見えました。
お茶を飲みながら、奥さんはわたしに次のことを言い渡しました。
私(奥さん)は、うちの人(パパ)とあんた(わたし)が会ってもかまわない。
ただし、この先々も含めて私は絶対にうちの人と離婚はしない。
だから、うちの財産は1ミリもあんたのものになるとは思うな。
あんたがうちの人を通じてうちのお金を1円たりとも使うことは許さない。
わたしは正座してかしこまって、礼儀正しく奥さんの話を聞いていました。
わたしはパパのお金が目当てなんかじゃなくて、ただパパといっしょに居たかっただけだから、奥さんの出してきた条件で不満はありませんでした。
でも、今までわたしの日頃の生活費や家賃は、パパが払ってくれてきたところがあったから、そういう所をこの先きちんとするとなると、わたしの貯金が秒で減っていくことになるかも。……
やがて奥さんは帰っていきました。
いっさい取り乱すことなどなく、言うべきことだけ言って、テキパキとにこやかに去っていく奥さん。できる女。また、わたしはどんな他の女にも勝てない、女同士の競争が起こったら万年最下位のクズみたいな女になってしまったようでした。
わたしは全身から疲れがどっと出て、それから3日ぐらい起き上がれませんでした。
奥さんが帰る前までは、わたしは自分がこんなに疲れているとは知りませんでした。
生きづらい。生きづらい。
パパと二度と会えなくなることにはならなかったので、わたしはほっとして喜んでも良さそうなものでした。なのに、わたしは今度はベッドの中で生きづらさに打ちのめされていたのです。
何日か経ってパパから聞いたところでは、奥さんは奥さんで好きな男の人がいて、なんとなく夫婦の間ではお互いにそういう所は突っこまないことになっているようでした。
だから奥さんも、わたしに対してああいう風に心が広かったのでしょう。
でも、これでわたしはもっと、なぜみんな結婚するのかわからなくなりました。
・・・第4回へつづく