(文 喜久井伸哉 / 画像 Pixabay)
〈気力〉の湧出量
これという、予定のない日。
普段よりも、遅い時間に目を覚まして、布団のなかで、自覚する。
「ああ、今日もダメな日だ」、と。
体も、心も、疲れすぎている。
本当は、先延ばししている用事も、家の掃除も、すべきなのに。
読みたかったはずの本や、観たかったはずの映画だって、ある。
あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、と、思い浮かぶものは、多い。
それなのに、体に力が入らず、二十四時間が、無駄になっていく。
べつに、「うつ」というわけではない。(あれは、こんなものではない。)
ただ、疲れが抜けず、一度起き上がっても、またすぐに、横になりたくなる。
「自分は体力がないな」、と、思う。これでは、何もできない。
しかし、「体力がない」?
つかのま、考えをめぐらせる。
これは、「体力」だろうか。私は、「体力」のとらえ方を、間違っている気がする。
「体力」のイメージで、すぐ思い浮かぶのは、ゲームのHP(ヒットポイント)だ。
格闘ゲームや、RPGなどでは、あらかじめ、キャラクターのHPが決まっている。
「100」のHPに対して、敵から「10」のダメージを受けると、残りが「90」になる。
それが「0」になれば、おしまい。ゲームオーバー。
罠にかかると、一時的にHPが減る、とか、アイテムを使うと、HPが増える、といった仕掛けも、よくある。
これは、HPという言い方のとおり、ダメージに耐えられる量、のことだ。
しかし、私の感じる「体力」は、このようなものではない。
朝、起きたときに「100」の体力があり、用事のメールを出して、「マイナス10」、買い物に出かけて、「マイナス10」、などという、減り方はしない。
むしろ、朝起きたときが、HPが「1」くらいで、起き上がってから、「10」になったり、「50」になったりと、増えていく。
「体力」ではなく、「気力」や、「活力」、ととらえるべきなのだろう。
ゲームにたとえるなら、行動を起こすための、MP(マジックパワー)にあたるものが、なくなっている。
魔法や必殺技を出すように、「食器を洗う」とか「メールを出す」といった技(行動)が、出せないことに、たとえられるだろうか。(ゲームの世界とは、えらい違いだが。)
時には、楽しいことがあると、気力が「150」くらいになって、「体力」を、上回りさえする。
自分の体がキャパオーバーになり、パンクするような感覚さえ、起きるくらいだ。
「気力が湧く」、という言い方がある。
すべては、なぜだか、湧いてくるものだ。体には、ずっと、何かが、湧きつづけている。
私にも、「わくわく」することくらいは、ある。
ただ、気力の湧出量が、不安定すぎる。
次の日の自分が、どうなるかわからないため、自分が、信用できない。
先の予定を立てるときも、自分の気力が予測できないせいで、スケジュールが組めない。
不安定な天気しかないのに、雨天中止のイベントばかりが、つづいているようなものだ。
コロナ禍以降は、多くのイベント事が、事前予約する方法に、切り替わった。
これは、痛手だった。
当日に気力が湧かない気がして、チケットの予約を、あきらめたことも多い。
(気力の湧出量が一定の人は、このような悩みを、しなくてもよいのだろうか。なんとも、羨ましい。)
抑うつ状態には、「気分変調障害」、という言い方もある。
「わくわく」が発生しないことや、「わくわく」があっても、それを感じられないことに、「うつ」的なものとの近さも、あるのだろう。
人付きあいもなく、日々を過ごしていると、何らかのコミュニティが、気になることはある。
どこかに出かけて、少しくらいは、他の誰かと、会う方がいい、と思えてくる。
しかし、出かけることを思うと、「痛烈な退屈」とでもいうべき感覚に、襲われてしまう。
出かける前までは、気力が湧いている。
それが、出かけようとすると、いっぺんに、湧かなくなる。
「減る」感覚ではない。
「面倒だから行かない」とか、「気がのらないから止める」、といった、その程度ではない。
ゲームにたとえるなら、MPケージそのものが、消え去ってしまうような。
「湧くこと」そのものが、損壊(そんかい)してしまう。
そうして、また、「ああ、今日もダメな日だ」、と、なっている。
一応、次回(7月17日更新予定)につづく
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000