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自明性の悲しみ 一週間誰とも話してないけど、それでも全然人に会いたくならないのはなぜか

(文 喜久井伸哉 / 画像 Pixabay)

 

自明性の悲しみ

一人で時間を過ごしたり、自分の趣味をしたりすることなら、できる。
しかし、どこかに出かけて、誰かに会うことを考えると、とたんに、気力が出なくなる。
誰とも交流のない、日々の孤立が、深まっていく。

私は、人と会うことに、「痛烈な退屈」めいたものを感じる。
どうして、そうなるのか。
安易な言葉で、安易なとらえ方をするなら、「劣等感」や、「自己肯定感の低さ」のせい、といったところだろう。
何かの集まりに出かけて、誰かと出会っても、失敗するかもしれないし、馬鹿にされるかもしれない。
「自分が受け入れられる」とか、「安心できる」とか、「居心地が良い」とか、そのような予測が、生まれてこない。

 

もう一歩、細かく言うなら、人と交流するときの、圧倒的な「気疲れ」のせいだ。
「気が利かない」とか、「気が回らない」といったことがあったら、いけない。
(「気が利かない人」になることを、自分が、自分に、許していない。)
「気を使う」ことが多すぎて、「気力」がもたない。
誰かと会うことを考えると、気力の損壊(そんかい)が、起きてしまう。

たとえ、安全な居場所に、優しい人たちがいると思えても、気力は損壊する。
「自明性」のきつさ、のようなものが、あるためだ。
(ここでは、「自明性」という言葉の、精神医学的な意味を、無視して使う。)
どんな場所の、どんな間柄においても、「この関係はこのようなものだ」、「この人はこのような人だ」、といった、「自明性」ができている。
関係性とか、全体の流れとか、習慣とか、物の配置とか。言葉にすることが不要になった、当然視されているもの、がある。
それらを知らないと、交流の磁場のようなものに、身がなじまない。
私は、自分が、そのコミュニティや、人の輪のなかにいることを想定すると、気力が湧かなくなる。
自明性が、わからないせいではなく、わかるせいで、気力がもたない。

 

ビジネスの間柄なら、はっきりした意味を持つ言葉だけでも、やりとりができる。
「明日の12時までに書類を提出してください」、と言われれば、やるべきことが、よくわかる。
しかし、こなすべき仕事のない、雑談をする間柄だと、そうではない。
むしろ、「たいして意味を持っていない言葉」こそが、大事になってくる。

誰かと会ったときの、最初の声かけからして、難しい。
相手が、「暑いですね」、と言ったとする。
それは、ただの挨拶にすぎないかもしれない。
一方では、「冷房を強くしてほしい」とか、「冷たい飲み物がほしい」といった、隠れた意味を、含んでいるかもしれない。
言語学でいう、「間接言語行為」。
「自販機はありますか?」(=飲み物を買いに行きたい)とか、「今何時ですか?」(=そろそろお開きにしたい)とか、あらゆるコミュニケーションには、間接的な、意味の増幅がある。
たわいのない言葉なのに、というより、たわいのない言葉だからこそ、気を使う余地が、大きくなる。

 

かつては、床屋で、「お仕事は?」という質問が、定番だった。
(今は配慮されて、少なくなったらしい。)
私も、聞かれたことがある。
無職のときに、「働いてません」、と言うのは、気づまりだった。
これは、「どのような職業に就いているか」、だけを、聞いているとは、思えない。
「当然仕事はしていますよね」、という、自明性を示す、隠れた意味になっている。
(「当然散髪の代金は払えるし、常連客になってくれますよね」、という確認の意味にも、つながりそうだ。)
さらに、「働け」、「職探ししろ」、といった、言葉の裏の意味が、響いている気がする。
無頓着な人は、「気のせいだ」、というかもしれない。
しかし、その「気」こそが、問題だ。
気まずさを抱えていると、言葉の意味を聞き取る精度が、悪くなる。
(極端な例が、統合失調症だろうか。)
否定の言葉でなくても、意味の倍音のようなものが聞こえすぎて、否定として、身に響いてしまう。
間接的な意味に、痛んでしまう。

 

(一つ、追記する。ひきこもりの親に対して、「子どもを否定することを言わないように」、というアドバイスがある。
それは、そのとおりだと思う。
ただ、直接否定していなくとも、間接的に否定している、ということは、よく起こるのではないか。
言葉に二重の意味や、逆の意味を含む、「ダブルバインド」というものもある。
「否定することを言わない」、というシンプルな助言は、実は、達成が並外れて難しいように思う。)

 

特に、マイノリティは、言葉の響き方が、変わってくる。
私は、(つくづく、この社会と合っていないのだが、)ゲイでもある。
たいていの場所は、恋愛や結婚の話で、異性同士の関係が、自明となっている。
「どんな女の子が好み?」、「彼女はいないの?」、といった声かけは、相手からすれば、気軽で、親し気なものだろう。
しかし私には、そのにこやかさが、人への信頼を、破壊するものになる。

 

趣味の集まりとか、地域のコミュニティとか、探せば、何らかの居場所くらい、見つかるだろう。
しかし、参加したい、という気持ちが、湧いてこない。
それは、「悪い人がいて、悪いことを言うかもしれないから、行きたくない」、というのではない。
「親切な人が、親切な声をかけるからこそ、行きたくない」、ということも、ある。

和気あいあいとした雰囲気には、情報のやりとりだけではない、豊かな、意味の揺れがある。
冗談を言い合ったり、ユーモアがあるのは、そのような関係だ。
それは、言葉の隠れた意味で遊び合えるほど、自明性が共有されている、ということだろう。
そのようなときに、私は、自分がなじめると思えない、斥力(せきりょく)を感じる。
何か、もう、結局のところ、今日も、出かけるのを止めよう、と思えてくる。

 

 

 


一応、前回のつづきだった。

www.hikipos.info

一応、次回(7月24日更新予定)につづく。

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000