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孤独のレイヤー 人を黙らせるための〈コミュニケーション能力〉講座

(文 喜久井伸哉 / 画像 Pixabay)


人間関係のレイヤーが違う

私は、誰か大勢といても、違うレイヤー(層)に、いる気がする。
飲み会のような場で、何人もの人がいて、「わぁっ」、と、盛り上がる瞬間。
自分だけ、反応できていない。
自分だけ、楽しくなっていない(気がする)。
同じ場所にいて、同じくらいの情報量があっても、一人、置いてけぼりにされる感覚。

「レイヤー」と言っているのは、パソコンで絵を描くときによく使う、あれだ。
「明るくする」、「色調を変える」、といったとき、同じレイヤーであれば、一律に、変化させられる。
別のレイヤーにあるものは、反応せず、変わらない。

人の、普段の生活にも、そのようなものがある。
友人間には、友人間の。家族には、家族の。会社には、会社の。
(「帰属意識」、というほどではない。もっと、簡易なものだ。)
画一的な集団なら、一つの指示で、一律に、情報が伝わっていく。
「ここは盛り上がっていこうぜ」、という内輪ノリも、「一致団結して頑張っていこう」、という気勢も、一緒のレイヤーなら、伝わりやすい。

スポーツで、特定のチームへの応援は、わかりやすい例だ。
チームの勝敗に、一喜一憂し、観戦するときは、文字通り、同じ色になる。
レイヤーが合致しているときに、性格や好みなどの、ささいな違いは、問題にならない。

 

同じレイヤーにいる、という喩えの、最大の例は、「国民」だろうか。
(いきなり、話を、大きくしすぎだが。)
自治体によっては、『君が代』の斉唱が、監視されている。
学校で『君が代』を歌う際、教員が、起立して、歌っているかどうか、唇を見て、判断している、という。
ただ「歌う」だけなら、それぞれの人が、それぞれの意味で、歌えばいいはずだ。
記念のための歌、高揚のための歌、思い出に残すための歌、など。
しかし、義務として、監視されながら歌う、となれば、どうか。
「歌う」、という行為が、愛国的な、一律のレイヤーに、収奪されてしまう。
「国民」かどうかをめぐる、管理の対象に変わる。

その分だけ、一元化するメリットも、あるだろう。
巨大なレイヤーとの一体感を、自ら求める人もいる。
自分と、大勢の人とが合致したなら、一つの物事に、熱中して、取り組める。
スポーツの観戦にも似て、一つのことに、夢中になれる。
(孤立してきた人には、そのレイヤーが、非常に優しく感じられることも、あるだろう。)

 

言葉を使わないための「コミュニケーション能力」

人といるときには、さまざまなレイヤーが、作用する。
私は、うまく合致してこれなかった。
「学校の教室」でも、「職場の休憩室」でも、そうだった。
それぞれの場所の、符丁(ふちょう)が合わない。

この合わなさは、よくある言葉なら、「コミュニケーション能力」があるかどうか、ということだろうか。
「コミュ力」が高まれば、即時即応の変化が、できるようになるのかも、しれない。
ビジネスの場面でも、「ひきこもり」支援の場でも、「コミュニケーション能力」を身につけることが、大事だとされている。
そのような場で言われている「コミュニケーション能力」は、おそらく、一対一の関係のことでは、ないだろう。
少なくとも、「唯一無二の個性と、独自な感受性で、誰かと特別な関係を作る」、といったものではない。
ビジネスの場面では、特に、多対一の関係、が期待されているのではないか。
社員に一括で指示を出し、それが、一律に伝わる。
自分を、他の大多数と同じ、「会社員」というレイヤーにする能力、という感じがする。
そこに、ビジネスで求められる、「コミュニケーション能力」がある。

「コミュ力」のアップでは、一つ一つの物事に立ち止まって、「これはどういう意味ですか?」と、聞いていくことが、期待されていない。
むしろ、多少おかしいと感じても、疑わずに、スルーして、スムーズに、物事をこなせることが、重視されている。
指示を出す人に、不要な質問をして、余計な時間を、とらせないようにする。
やりとりのための、コストがかからないようにする。
理想的な「コミュ力」は、「話す力」のことでは、ないのかもしれない。
むしろ、人と距離をとって、交流しないための技術、のようなものがないだろうか。
「空気を読む」ことや、「察する」こと、また、「阿吽の呼吸」に近いものだ。
「コミュニケーション能力」、と言いながら、その中身は、「話す必要がなくなる能力」、であったり、「話さないですませられる能力」、であったりする作用が、含まれている。

私は、「ひきこもり」支援の場で言われる、「コミュニケーション能力」、という言葉に、警戒する。
その根底の、どこかには、「あなたがうまく話せるように」ではなく、「あなたがうまく黙れるように」、という抑圧が、含まれていないだろうか。

 

「常識的」な、「ふつう」の、「社会人」として、「会社員」であることが求められる場所には、一律の、レイヤーがある。
そこでは、よく考えると奇妙なものでも、「それはそういうもの」、「前からそうだった」、「みんなそうしている」、などとされて、問題にされない。
自明性が、共有されている。
その場の人たちの、レイヤーと、レンジ(範囲)が、一致している。

私は、これまで、経験不足ながらも、あちこちで過ごしてきた。
しかし、どこにいても、レイヤーが、異なっている気がする。
あれこれと考えて、立ち止まっては、関係性を、滞(とどこお)らせてしまう。
それが、今現在でも、居場所のなさに、つながっているように思う。

 

 

 

一応、前回と、前々回の、つづきだった

➡前々回「気力の湧出量」

www.hikipos.info

➡前回「自明性の悲しみ」

www.hikipos.info

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000