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下山する決意 「休む」や「逃げる」なんて言葉では言い表せない死にものぐるいの〈家庭内ビバーク〉

(文 喜久井伸哉 / 画像 Pixabay)

 

私には、「ひきこもり」の期間があった。
優しい人からは、「休んでもいい」、とか、「逃げてもいい」、といった言葉を、言われたことがある。
しかし、合計で十年に及ぶ、「ひきこもり」の期間のうち、自分が「休んでいる」とか、「逃げている」とかと思ったことは、一度もない。

「非ひきこもり」にとっては、どこにも出かけず、家にいることは、それだけで、「休み」なのだろう。
働いたり、勉強したりしていないと、「何もしていない」、ととらえられる。
私は、そんな気分では、いられなかった。

 

あれは、登山用語でいえば、「ビバーク」だ。
日本語では、「不時露営(ふじろえい)」という。
テントなどがない、不十分な状態で、一夜を過ごすことだ。
予定どおりの行動ができなかったとき、緊急避難的におこなう。

(あくまで、緊急の、「避難」だ。嫌なものから、「逃げる」ような、話ではない。)
8000メートル級の、高峰の登山では、登頂までに、何日もかかる。
綿密な計画をたてても、猛烈な風や、吹雪によって、行く手がはばまれることが、珍しくない。
ライトで照らしても、一メートル先が、まともに見えなくなる。
やむを得ず、安全な場所を選んで、その場にとどまる。
それは、登頂をあきらめていないときの、必要な戦略だ。

私が家にいたときも、ビバークのようだった。
(矛盾した表現だが、)自宅でありながらも、露営的。
「学校」や「会社」、といった、目指すべき目標地点に対して、ずっと、進まねばならない、と思いながらも、家に留まっていた。
部屋に居るときには、自分が、ここにいるべきではない、という思いを、ずっと抱えていた。
これから、どうするのか、どうしたらいいのか、どうできるのか、どうなっていくのか。
世間的なものから、急(せ)かされており、それ以上に、自分で自分を、急かしていた。
心身が本当に休まる日は、一日もなかった、と言っていい。

 

もう一つ、登山用語を重ねると、「ウェイティングゲーム」、という言葉がある。
訳すと、「待機戦術」だ。
悪天候で、登山ができないときに、好天を待って、粘りつづけることを指す。
場合によっては、何日も、狭いテントのなかで、待機する。
天候をにらんで、ひたすら、待ち続ける。
粘り強く、耐える必要があり、そのため、疲弊(ひへい)する。
「休んでいる」とは、言えない。
待ち、待って、待ちつづけて、食料や備品が尽きたら、あきらめて、下山するほかない。
リスクのある、戦術だ。

私の「ひきこもり」期間は、ビバーク的であり、ウェイティングゲーム的だった。
そのような状態を指して、「休む」、や、「逃げる」、と言われるのは、完全に、的外れだった。

 

それに、これらの表現をされることは、なかなか、「偉そう」でもある。
(このような指摘をすると、別の面で、自分が「偉そう」、になってしまうが。)
上の立場の人が、下の立場の人に言う言葉、ではないか。
いったん、想像してみてほしい。
学校に行ってない子どもが、大人に向かって、「(会社を)休んでもいいんだよ」、「(社会から)逃げてもいいんだよ」、などと、自信満々で言ったら、どうだろう。
嫌な子どもとして、ムカつくのではないか。
(本心から、「休んでもいい」、と信じているなら、気にさわらないかもしれないが。)
子どもに、「休んでもいい」という大人は、まず、休んでいない人だ。
「逃げてもいい」、という人自身は、逃げていない。
そのため、(社会的な、あれやこれやにおいて、)上の立場の人が、下の立場の人に助言する、という、「偉そう」な関係に、なってしまいやすい。
私が「休んでもいい」、「逃げてもいい」と言われたとき、私は、下の立場にある、「弱い人間」、と見なされていた。
慰めの言葉でありながらも、このように言われることは、やや、自尊心を傷つけられることでもあった。

 

私が、一人ぼっちだったとき。
ビバークに耐えていれば、いつか、もしかしたら、登頂を果たせるかもしれない、と思っていられた。
自分で、自分を苦しめているなら、まだ、ウェイティングゲームの途中だ、という思いでいられた。
(むしろ、就業圧力などからくる、自責の苦しさが、登山途中であるという意識を、保障していた。
そのため、苦しみつづけることが、社会倫理に対する、私の善行だった。)

本当に「休む」ためには、ウェイティングゲーム(待機戦術)を、止めねばならなかった。
本当に「逃げる」ためには、ビバーク(不時露営)を、止めるべきだった。
世の中という大きな山から、「下山」する決意がいった。

社会的な、理想の自分から、「降りる」ことだ。
それは、簡単ではない。
自分が、世の中で、有能な人間でいられないことを、覚悟せねばならない。
「勉強できない自分」も、「働けない自分」も、受け入れることになる。
かつての自分が望んだ、(本当は、あたりまえであったはずの)「ふつうの人間」であることから、降りねばならない。
意識的には、ある面で、「下野(げや)」するようなものだ。
学歴や職歴が不十分な、「アンダークラス(下層階級)」になることを、受け止める必要がある。
(「登校」には、「登る」という字が、含まれている。
学業においても、もう、「登る」ことを、あきらめねばならない。)
私は、そのような人間に、なりたくなかった。
「自分の人生は、失敗した」、という思いを、どうすれば、受けとめられるというのか。
「下山」は、生半可な思いでは、決断できない。
痛烈な、涙ながらの、蛮勇的な、命がけの、英断がいる。
悲壮で、絶望的な、失墜がある。
下山、というより、むしろ、「滑落する」とか、「墜落する」、としか思えない、窮地があった。

「休んでもいいんだよ」、と同様に、人によっては、気軽に、「安静にしてください」、などという。
家に、こもっているだけでは、「安静」にならない。
本当に休んで、安静にするためには、その前段階に、決死の「下山」がいる。
「下山」を成し遂げて、はじめて、心身を落ちつけられる。
(登山においては、登るときよりも、下るときの方が、死亡率が高い、という話もあるが。)
「休む」や、「逃げる」、とは違う。「安静に」、も、困難でありすぎる。
私には、真剣な決意をもった、命がけの、「下山」がいった。

 

 

 

(※今回はあくまで、「休んでもいい」と、「逃げてもいい」という表現への、疑義のある点を、述べたにすぎない。
「休んでもいい」、「逃げてもいい」、といった言葉でも、言えないよりは、言えた方が、はるかに良い。
むやめに急かしたり、「働け」と言って追い込むような、無神経な声かけは、論外だ。)

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000