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【現代アート】ひきこもり経験のあるアーティスト・渡辺篤の作品を月の下で観る(東京都現代美術館『あ、共感とかじゃなくて。』展レビュー)

現在、東京都現代美術館では、『あ、共感とかじゃなくて。』展が開催中です。出品者の一人は、ひきこもり経験のあるアーティスト・渡辺篤さん。ひきこもり当事者と共同制作した作品が展示されており、観る人の心に訴えかけます。魅力はどこにあるのでしょうか。ひきこもり経験のあるライターが、レビューをお届けします。

 

江東区にある東京都現代美術館。最寄りは清澄白河駅。

(文・写真 喜久井伸哉)

 

月明かりの下で、寂しさはつながる、かどうか。

東京都現代美術館で、「あ、共感とかじゃなくて。」、という企画展を見た。
十代に向けた展示だが、現代アート好きが満足できるだけの、硬派さがあった。
学生の夏休みの期間中は、ずっと、開催している。

五人のアーティストの作品を、展示していた。
有川滋男、山本麻紀子、渡辺篤、武田力、中島伽耶子、の五人だ。
(一般的には、必ずしも、著名な顔ぶれとは言い切れないだろう。)
私的な夢想や、世の中とのズレや、他の誰かへの伝わりがたさなどが、作品になっていた。

『あ、共感とかじゃなくて。』展の入口。丸い電灯にも意味がある。

タイトルは、「あ、共感とかじゃなくて。」。
わかってほしい、わけではないらしい。
(展示の冒頭には、「共感することも大切です」、という、手話がメインのガイド映像も、付いていたが。)
相手の話が「わかる」、というと、いっけん、良いことのように思える。
なんと言っても、学校が、「わかる」に向かわせる場所だ。
「みんなで仲良くしましょう」、と言われると、誰かと「わかりあえない」のは、いけないことのように感じる。

しかし、人に対して、「わかる」、というと、そこで、理解が止まってしまうこともある。
「ああ、そういうことね」
「なるほど、それが原因だったのか」
「わかるよ、私にも似たような経験があるから」
あ、そうじゃなくて。
理解して、共感して、「正解」にたどり着くと、それで話がおしまい、になりかねない。
(まるで、マルがつけられたあとは、思い出す必要のないテスト問題のように。)

むしろ、「わからなさ」に、立ち止まってほしいときがある。
五人のアーティストは、それぞれの仕方で、「わからなさ」に、とどまろうとしていた。
そもそも、現代アートそのものが、「わかる」よりも、「わからなさ」へと、挑んでいく分野だ。

(現代アートは、よく、「理解できない」、と言われる。
しかし、「わかった」ら、人は通り過ぎてしまう。
「わからない」ので、立ち止まったり、悩んだりして、記憶に残る。
意味不明で、役に立たないところに、アートの魔力があったりする。)


本稿では、渡辺篤(アイムヒア プロジェクト)の作品について、書く。

渡辺氏には、三年ほどの、ひきこもり経験がある、という。
過去には、その体験を、直接パフォーマンスにしている。
『七日間の死』、という作品で、私は以前、映像化されたものを観た。
コンクリートでできた、小さな家(、というより、箱)の中で、ただ、じっと、過ごす、というものだ。
タイトルのとおり、期間は、七日に及ぶ。

来場者が、その「家」を眺めるだけでは、壁の中に、渡辺氏がいるらしい、ということしか、わからない。
引きこもる行為の、実演だ。
その後、「ひきこもり」期間がすぎると、中からカナヅチを振り、壁をぶち破って、観客の前に現れる。
「見えない」存在を、生身で、強引に、「見える」存在に変えるパフォーマンス。
長く土の中にいたセミが、夏のわずかな期間だけ、けたたましく鳴くような。長い静けさと、つかのまの豪快さで、「私はここに居る」、と告げる。

 

では、今回の展示は、どのようなものだったか。
ここにも、「見えないもの」を、「見えるもの」にする、試みがあった。

主な作品は、単独で作られたものではない。
渡辺氏は、テーマに沿った写真や言葉を募集するなどして、他の人と共同で作品を作り上げてきた。
共に作るのは、「ひきこもり」の当事者をはじめとした、生きづらさを抱えた人たちだ。
そのため、「渡辺篤」の単名でなく、「アイムヒア プロジェクト」、と、名付けられている。

(今回の企画展では、「アーティストと作品を観るツアー・不登校編」、というイベントも予定されている。
その名のとおり、アーティスト自身が、学校を欠席している子どもたちと、展示を観てまわる。
「ひきこもりの方向けの鑑賞デー」も予定している、とのことだ。)

 

展示室に入ると、夜が、用意されていた。
入口から一番遠い、外の喧噪から離れたスペース。
部屋が暗幕でしきられており、うす暗い中、静寂が保たれている。
広い展示スペースで、暗がりの中央には、大きなじゅうたんがあり、黒いクッションが、(月と同様の円形に、)いくつも並べられている。
寝そべって、くつろげるようになっている。

目立つのは、高さ5メートルはありそうな、月。
円形のスクリーンに、月の映像が投影されており、新月から、満月へと、ゆるやかにうつろっている。
本作は、側面に展示された、《Your Moon》という作品と、つながりがある。

アイムヒア プロジェクト《Your Moon》(プロジェクト「同じ月を見た日」より)

2020年のコロナ禍、緊急事態宣言が出され、外出の自粛が、要請されていた。
もともと「ひきこもり」であった人も、そうでなかった人も、家で、(場合によっては、たった一人で、長い期間を、)過ごさねばならなかった。
そのような期間にあって、渡辺氏は、それぞれの人が撮った、「月」の写真を募集した。
バラバラの人たちが、バラバラの場所にいながらも、一つの、同じ月を記録する。
その月の写真が、何百枚も、連続して並べられている。
(屏風(びょうぶ)型になっており、日本画が描いてきた、伝統的な月の表現と、重ねられている。)
それは、うす暗い部屋で、月明りの光度となって、照明の役割も果たしていた。

私は、このプロジェクトによって、渡辺氏が、媒体(メディア)になっている、と思った。
「居ない」から、「居る」、へとつなぐ、媒体だ。
能でいえば、「ワキ」の役割。
(能をちゃんと見たことのないので、喩えに出すのは、気が引けるが。)
「ワキ」とは、「分ける人」のこと。
この世と、この世ならざるものとの、あいだにいて、それを分ける者だ。

能の、『姨捨(うばすて)』、という作品では、月見のために山に来た男が、老婆と出会う。
男が、その老婆の声を聴きとることで、舞いが始まる。
(幽玄な月光の、あわいのもとで。)
物語りが進むと、その老婆が、「この世ならざる者」だった、とわかる。
そうして、男が「ワキ(分ける者)」となって、老婆の語りを、聴きとどける。
「ワキ」は、本来ここにいないはずの、「死者」の声さえ、現世の人々に伝える。

古くからの芸能や、芸術には、ふつうには見えず、聴きとれない、何かの存在を伝えようとする、営(いとな)みがある。
知ることのなかった物事を、知らせるための、媒体(メディア)。
渡辺氏のプロジェクトも、誰かが、どこかに、「居る」ことの、その声を、聴きとろうとするものだ。
「アイムヒア(私はここにいる) プロジェクト」、というだけある。

(なお、渡辺氏は他にも、「ここにいない者」が、キーワードになるような作品を、出展している。
ある種の「ネタバレ」になるので、本稿では、これ以上は述べない。)

 

「見えない人」を、「見える人」へ。
「いない者」を、「いる者」に。
さらに、渡辺氏は、「ない」、を、「ある」、にうつす試みも、おこなっている。

作品、『修復のモニュメント』。
これは、なんらかのモチーフを、コンクリートで作製し、一度、叩き割る。
そして、粉々に割れたモチーフを、伝統的な金継ぎの技法によって、修復する、というものだ。
本展では、金継ぎによって、修復された扉が展示されている。

《修復のモニュメント「ドア」》

扉のモチーフは、外出が難しい「ひきこもり」、のイメージに対して、安易な題材ではないか、とも思う。
とはいえ、過去のインタビューによると、渡辺氏は、実家の居間のドアを、蹴破ったことがあるという。
実体験からくる、切実な、「ひきこもり」の遺構(モニュメント)だ。
さらに、扉は、ウチとソトをつなぐ道具であり、直接的に、媒体でもある。
渡辺氏の、「ワキ」(アーティスト)の活動の再生を、示しているのかもしれない。
媒体の復元を表す、もっともふさわしい記念碑(モニュメント)、という見方もできる。

過去には、「ひきこもり」の当事者たちが、『修復のモニュメント』を制作した。

(中には、私の知っている人もいる。)

「心の傷」になった出来事として、家や、病院などのオブジェを(一度破壊した上で)制作してきた。

「心の傷」は、他人には見えない。
その意味では、どこにも、「ない」ものだ。
しかし、それを金継ぎによって顕現させ、「ある」ものに変える。
「ない」から、「ある」への、転換を起こす。

渡辺篤氏の作品記録集『I`M HERE』(2020年)

評論家の芹沢俊介氏に、『「存在論的ひきこもり」論』、という本がある。
そこでは、人のあり方が、「ある自己」、と、「する自己」、に、分けて考えられている。
人は、自分では何もできない、赤ん坊として、生まれてくる。
ものごとを学んだり、身につけたりするなかで、だんだんと、できることが、増えていく。
そこに、「する自己」の豊かさがある。
しかし、年を経ると、体が老いて、病気にもなりやすい。
どうしても、人からの助けが必要になってくる。
「する自己」が減り、「ある自己」に、接近していく。
人の一生には、ただの「ある自己」だったものが、「する自己」を増やしていき、年月を経て、「ある自己」になっていく、という、変化がある。

青年期には、(ただ存在するだけの、)「ある自己」だけでは、人に満足されにくい。
働いたり、勉強したり、人の役に立ったりと、人は、「する自己」でいることが、良しとされる。
それが、「ひきこもり」を、苦しめる。
私自身も、「ひきこもり」の時には、就労や、スキルアップのための勉強など、早く「する自己」を増やさねばならない、と考えていた。
芹沢氏は、それを止める。
安易に、「する自己」を、求めるべきではない。
人は、「ある自己」があってこそ、「する自己」ができる。
「ひきこもり」の人は、なんらかのかたちで、「ある自己」が、傷ついてしまっている。
そのため、まず優先すべきは、「ある自己」を守り、回復させることだ。
「する自己」ではなく、「ある自己」を確保し、安全に引きこもれることが大切だ、と説く。

その上で、『修復のモニュメント』、の話に戻る。
金継ぎされた扉は、扉としての役割は、果たさない。
完全な修復ではないため、一部は、穴が開いている。
誰かを通す役割を、「する」ことは、できない。
(そもそも、コンクリートの塊なので、扉として使うには、重すぎる。)
暗がりの中で、痛々しく、かろうじて、ボロボロの、「ある」、にたどりついているだけだ。

本作の創造は、「する」役割ではなく、「ある」ことに、帰結している。
その「ある」だけのことが、「ある自己」の肯定に、つながってくる、と思う。

プロジェクトの、『同じ月を見た日』、も同様だ。
撮影し、渡辺氏に画像を送ることはしても、特別な、能力や、結果は、求められていない。
就労支援のように、「する自己」を、求めるのではない。

「ある自己」が、あるだけでいい。

渡辺氏のプロジェクトでは、「ある自己」そのものが、作品の結実となる。
これは、「ひきこもり」に応答するにあたって、努(つと)めてまっとうな態度ではないか、と思う。

展示室の暗がりでは、「ある」こと、そして、「いる」ことが、けなげな声として、聴こえてくる。
月明かりの中で、かぼそく、伝わってくる。
「私はここにいる」、と。

 

 

  「あ、共感とかじゃなくて。」展 基本情報
会期 2023年7月15日(土)~11月5日(日)
休館日 月曜日(7/17、9/18、10/9は開館)、7/18、9/19、10/10
開館時間 10:00-18:00(展示室入場は閉館の30分前まで)
会場 東京都現代美術館 企画展示室 B2F
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/empathy/

 

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文・写真 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000