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「挫折、そして脱会へ」 中年ひきこもり子守鳩さんの当事者手記  第6回 宗教団体時代 その2

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上から決められた結婚相手とはときどき会った。 写真・PhotoAC

 

・・・「第5回」からのつづき

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文・子守鳩

 

こうして真理幸福学会(仮称)には20歳になる直前に入信し、その教団のなかでいろいろな仕事をするようになりました。


勧誘、講義、面談、訪問販売、合宿のスタッフ、合宿所の管理、学生新聞作りとその販売、車の運転、食事作り、実績集計などの事務、幹部職員の補佐などでした。


自分なりに頑張ってはいたのですが、どの仕事も大変で、いつも精神的に一杯一杯でした。


責任感だけでなんとか自分を持たせていましたが、心の内側から湧きいずるようなやる気は出ませんでした。なぜやる気が湧かなかったのかというと、婚約相手との関係で常に苦悶していたからです。

 

上から決められる結婚相手

当時その宗教団体では、信者の結婚相手は教祖が決めることになっており、自分の好みや希望は一切考慮してもらえませんでした。


どんなに嫌いな人であっても、それが結婚相手として決められてしまったら、それを神とメシア(救世主)に対する絶対的な信仰と愛と服従心で乗り越えなければならなかったのです。


結婚相手が自分の好みでなければないほど、信仰を実践するためには格好の相手になるので、修行になるし、人格的にも成長できるという教えだったのです。
 
このように、教祖によって結婚相手を選んでもらうことを、教団の用語で「祝福」とか「合同結婚式」と言います。


結婚式と言っても、実際に一緒に住んで家庭を持つのは何年も先のことなので、一般的に見れば「結婚」ではなく、いわば「婚約」という状況でした。

 

 

私が初めてこの祝福というものを受けたのは、23歳のときでした。
お相手は1歳下の日本人女性でした。

卒業式の時に卒業証書を受け取るような感じで、信者たちが当時の責任者から一人ずつ呼ばれて壇上まで行き、婚約相手が映っている大きな写真を受け取りました。

私はその写真を見た瞬間、好みの相手ではなかったので、非常にショックと絶望を覚えました。
でも、
「こんなことでくじけちゃだめだ」
と心の中で自分を無理やり鼓舞しました。
 
相手の女性はかなり離れたところに住んでいたため、交流は文通が基本であり、実際に会うのは半年に一回程度でした。
1990年代後半だったので、ネットでやりとりするような時代でもありませんでした。

その女性も私のことが好きではないことは、何となく感じられました。
お互いに好きでないにもかかわらず、教祖が決めたという一点によって親しくなろうと努力し続けていたのです。

しかし、だんだんと手紙の返事も来なくなり、電話をかけても出てくれないようになっていきました。

 

ある日、彼女が教団への信仰を辞めたという情報が私の耳に入ってきました。
それで私たちも婚約解消になりました。
私はその時、表面上は残念な素振りを見せなければなりませんでしたが、心の中ではホッとしていました。

 

写真を見て目の前が真っ白に

次に祝福を受けたのは27歳のときでした。
婚約相手となったのは、3歳下の日本人女性でした。


この時も大きなショックを受けました。
自分の一番苦手なタイプの人だったのです。

写真を見た瞬間、目の前が真っ白になり、立ち眩みがしてその場にへたり込んでしまいました。


しかし、その時も「婚約を破棄する」という選択肢は、私の中にはありませんでした。
努力して交流していくうちに好きになることもあり得る、と信じました。
今まで数々の信仰の訓練を重ねてきたのは、この壁を乗り越えるためだった、と考えたのです。
彼女と仲良くなろうと文通をしたり電話をしたり、喫茶店やファミレスで実際に会って話したりしました。彼女も私のことを好きではなく、好きになろうと努力している雰囲気を感じました。
 
そんな中、ある日とつぜん彼女と連絡が取れなくなってしまいました。
彼女が僕だけ着信を拒否した、とかそういう話ではありません。
彼女は、彼女が所属していた教会にも来なくなったらしいのでした。

「これはどうしたことか」
と思っていたところ、しばらくして彼女の所属していた教会から僕の教会まで連絡がありました。
驚いたことに、なんと彼女は親とその協力者によって拉致され、監禁されてしまったのでした。


監禁先で、彼女は信仰を捨てるように説得され続けました。
しかし約一年後、彼女は何とか監禁場所から脱出し、身一つで教団の施設まで帰り着き、私とまた再会できるようになりました。

 

5年間、深く思い悩む

けれども、監禁先から脱出してきた彼女は、もう以前の彼女ではありませんでした。
親に拉致され、騙されて監禁されたショックにより、PTSDを発症してしまったのです。 


命からがら逃げてきたものの、
「また、いつ捕まえにくるかわからない」
という不安と恐怖で、彼女は一人でコンビニに買い物に行くことすらできなくなっていました。
夜もフラッシュバックや不安で眠れなくなり、知り合いの医者から睡眠薬や抗不安薬などを貰って飲まないと生活できないようになってしまったのです。
 
彼女の精神状態では、とても二人で結婚生活を始められそうにありませんでした。
私は相当追い詰められました。

彼女はもともと私にとって苦手なタイプだったのに、そこへ輪をかけて精神状態もおかしくなり、働くことも外出することも難しい状態になってしまいました。

「そんな人と、はたして家庭を営んでいけるだろうか」

と悩んだのです。
 
私は教団から教わったとおり、これを信仰の課題だと考え、乗り越える努力を続けました。

それは、祈り、断食、水行、教理の勉強、修練会への参加、祝福の悩み担当の女性との相談、上司との相談、教団の仕事への奉仕などでした。

こういう努力を5年間続ければ、自分も変わることができて、この状況を乗り越えられるだろうと思いました。

 
しかし、やはり私の心は最後の最後まで変わりませんでした。
5年経っても、私は相変わらず、重い悩みに押しつぶされていました。
 
彼女のことを好きになれないまま家庭を持つのか……


好きになれないまま家庭を持ったが、その後好きになれたケースもあるという話は聞いたことがある……


でも家庭を持った後で「やっぱり無理でした」と離婚することになるくらいなら、最初から家庭を持たないで婚約破棄したほうが、彼女にとっても再出発しやすいのではないか……

 
相手に離婚歴をつけるよりは、結婚前に別れた方がいいのではないか……
 
そんなことをいろいろ悩んだ結果、
「5年間、変われなかったのだから今後も変われないだろう」
と考え、彼女との婚約を破棄する決断を下しました。

 

それは、信仰を捨てるという大きな決断でした。
教団においては、信仰上最も守るべき戒律として位置づけられている婚約を破棄するということは、絶対に許されないことだったからです。
それで私は婚約を破棄すると同時に信仰も捨て、教団の職員も辞職することにしました。
 
10年以上にわたって、身も心もお金も捧げて教団に奉仕してきたので、そのときは貯金も1万円程度しかない状態でした。
それでも、仕方がないので私は、教団の施設へ転がりこんできたときと同じく、またスポーツバッグ一つに服を詰めて、身一つで出ていくことになりました。


私は32歳になっていました。 

 

・・・「第7回」へつづく

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