最新の調査によれば、「不登校」の小中学生は約30万人となり、統計をとりはじめて以来過去最多を記録しました。増加率は前年度比22%で、コロナ禍の緊急事態宣言以降、急増しています。新たな局面に至った「不登校」を、どのように考えればいいのでしょうか。今回は、幼少期から学校に行っていない「不登校経験者」の声をお届けします。
(文 喜久井伸哉 / 画像 Pixabay)
私は、世の中で語られている、「不登校」の話が、よくわからない。
私自身は、八歳の頃から、「不登校」が、あった。
大人になってからは、『不登校新聞』というメディアで、ライターをしている。
この数十年、「不登校」について、けっこう、考えてきたつもりだ。
しかし、しばらく前から、「不登校」の報道や、語られ方が、どうも、よくわからなくなってしまった。
理由は、いくつかある。
まず一つ目。言葉そのものが、おかしいのではないか。
そもそも、「不登校」という言葉を使うとき、私たちは、「学校に行かないこと」を、公正に、考えられているのだろうか。
「不登校」という言葉は、「登校」が、前提となっている。
「在宅」や、「自宅学習者(ホームスクーラー)」のように、その言葉だけで、特定の状態を、あらわしているのではない。
登校が、「不」=「できない」子ども、であり、「登校不能」な子ども、といった、意味合いがある。
表現として、「不・〇〇」、という言い方は、けっこう、差別的だ。
たとえば、女性のことを、男性と同等の仕事ができないから、といったニュアンスで、「不・男性」、といったら、大問題だろう。
「不男性の権利を」、とか、「男性と不男性の共同参画」、などといえば、その言い方をしている時点で、男女平等の観点を、欠いている。
また、外国人のことを、日本人にはなれないから、といったニュアンスで、「不・日本人」、といったら、それはもう、差別語だろう。
「不日本人について公正な議論を」、といっても、「不日本人」、という表現が、すでに、公正ではない。
私たちが、「不・登校」という言葉で、「学校に行かないこと」について語ろうとするとき、そこには、あるべき公正さが、保たれているのだろうか。
理由の二つ目。本当に、子どもが「当事者」なのだろうか。
「不登校」が、報道されるとき、「当事者」として、当然のように、子どもが出てくる。
たしかに、「学校に行かないこと」が起きているのは、子ども個人だ。
ただ、以前から、「不登校」は、何十万人といたし、近年は、特に増えている。
昨年度は、30万人に迫る、過去最多の、「不登校」者数だった。
そこで、「当事者」である、子どもの声に、耳を傾けよう、などと、言われている。
それは一応、良いことなのだが、子どもばかりを、「当事者」に、しすぎではないか。
私は、大人たちの側こそ、「当事者」として、語るべきだ、と思う。
「不登校の子どもが増えていること」、は、「長期欠席の児童が増えていること」、でもある。
この「問題」の、第一の当事者は、教育者たちだろう。
大人の側が、「当事者」として、語るべきではないか。
それは、教育学者や、精神科医が、わかったような口ぶりで、語るということではない。
自分事として、言葉にし難い悔恨を、感情を込めて、口にしてほしい、と思う。
「不登校」、という言葉は、大人が果たすべき説明責任を、子どもの側に転嫁する効果を、もっている。
「不登校」は、「子どもが登校しない(できない)こと」、という字義だ。
教師から見て、「受け持ちの生徒が欠席していること」や、学校から見て、「在籍する児童が来校しないこと」を、意味していない。
「不」という言葉を使うなら、「来校」に付けて、「不来校」、と言い換えるだけで、この「問題」の風景は、反転する。
(このあたりのことは、非常に、思うところがあり、私は、万言の罵倒をもって、子どもたちを苦しめてきた歴史というか、戦争責任的な、教育者や精神科医の、異常な「無気力」さを、追究したい思いにかられるが、どうも、口にしはじめるととめどないものになるので、唇を噛むようにして、怨恨を、押しとどめておく。)
子どもの側の声を聞いて、苦しさが改善できるなら、それは、けっこうなことだ。
しかし、この数十年の、「不登校」の語りの蓄積は、どこにいったのだろうか。
あと何十年、子どもに「原因」を聞けば、「解決」が、あるのだろう。
そもそも、ある意味では、「欠席」が、子どもの側の、答えではないか、と思う。
学校に対して、子どもの心身の機能が、「欠席」という、結論を、出している。
子どもたちの「欠席」に対して、その「答え」を出すべきなのは、教育者の側だ。
三つ目の理由。あたりまえのように、「支援」の話をしていいのか。
調査によれば、「不登校」の約4割は、「支援」を受けていない。
そのため、スクールカウンセラーの活用や、居場所・フリースクールを充実させる、といった話が、出ている。
それは、大事なことだが、「不登校」の子を、「支援」の対象としてばかりとらえる報道には、疑問がある。
「学校に行かない子ども」=「問題」、という見方で、いいのか。
やはり、どうしたって、「問題」の原点=学校の方が、問われつづけるべきだ、と思う。
たとえば、ケガをした子どもを、助けた人がいて、その人が称賛されたり、子どもの、「適切な助け方を見つけた」、なんて話が、盛り上がったりするのは、良いことのようでは、ある。
しかし、まず、子どもをケガさせる環境がある、ということが、どうしたって、おかしい、はずだ。
「ケガをした子どもが増えたから、助けられる人を増やそう」、というのは、良いことではあるのだが、そのことだけで、話を、終えるべきではない。
ケガさせる環境の方を、どこまでも、批判しつづけるべきだ、と思う。
今は、「学校に行かない子ども」、だけでなく、「学校に行きたくない子ども」も、増えている。
2019年の、日本財団の調査によると、「ほぼ毎日、学校に行きたくないと思っている」中学生が、全体の、1割はいる。
また、保健室や、フリースクールへの登校によって、「出席」扱いとなっている生徒も、少なくない。
「隠れ不登校」や、「苦登校」、といわれるものだ。
これらを「不登校」と合わせると、中学生のうち、実に、5人に1人が、欠席したり、欠席したいと思っている、ということになる。
「出席」している子どもも、多くが、苦しんでいる。コロナ禍以降は、さらに、多くなっているはずだ。
また、仮に、学校に行かなくなった子どもが、再び通学するようになっても、教室は、まず、何らかの点で、困難なところだろう。
学校に行けば「問題」がなく、行かなければ「問題」がない、という見方は、単純すぎる。
「不登校」の、報道によっては、「支援」をしたことで、「学校に行けるようになった」、という話が、出てくることがある。
そのような話は、まるで「不登校」が、「解決」したかのような印象を、与えてしまう。
しかし、一人の子どもが再登校したところで、学校が、多くの子どもたちにとって、苦しい場所だという、「問題」の根本は、まったく、変わらない。
一人の子どもの「不登校」ではなく、学校が、数百万人の子どもたちを、常に苦しめている場所だ、ということが、やはり、どうしても、「問題」の根幹であり、「解決」すべき、最大の病原と、みなすべきだ。
私は、戦時下の、外国の精神科医の仕事を、思い出す。
(これは、過度なたとえではない、と思う。)
第二次大戦時、過酷な戦場において、多くの兵士が、精神を病んだ。
精神科医は、病んだ兵士たちに、カウンセリングを、おこなった。
言い換えれば、「支援」をした、といっても、いいだろう。
カウンセリングによって、「治った」とみなされた兵士たちが、どうなったかといえば、再び、戦場に送り出され、生死をかけた戦線に、立たねばならなかった。
スクールカウンセラーなどの、「支援」を拡充するというと、それは、悪い話のようには、聞こえづらいが、しかし、これは、本当は、どうなのか。
フリースクールや、居場所が、市民権を得て、利用しやすくなるのは、それは、良い。
自然なかたちで、登校しない育ち方が、もっと認められてほしい、とも思う。
ただ、やはり、どこまでいっても、学校が、「問題」で、ありつづける。
「不登校」について、「当事者」である子どもに、「支援」を広げよう、という、その、良いはずの報道や、良心的な話がされるとき、それでも私は、この語り方でいいのか、という疑念が、消えない。
子どもたちが前面に立つ、「不登校」の語りの背景に、私はどうしても、学校にとりついた巨大な宿痾(しゅくあ)が、視界から、消えないでいる。
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000
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