文・ぼそっと池井多
「年が越せない」
「年が越せない」という日本語がある。
ここで言うのは、重い病気を
ふつうに生活していれば、そのまま時計の針が午前
「このままでは年が越せない」
と大騒ぎをするのである。
その年に手がけた仕事をすべて片づけ、借りた借金をすべて返し、貸したお金をすべて回収し、欠けた備品をすべて修繕し、家の中も仕事場も隅々までピカピカにした状態で
そのようにして家族そろって新しい年の元旦を迎え、朝食にお雑煮を食べることが、どうやら「幸せ」であるらしいのである。
「ふだん落ち着いている先生も走るほど忙しいから
と習ったが、師走の多忙はそんな幸せへの駆け込み需要から生じているといえる。
私に言わせると、それは強迫だ。
37歳まで強迫性障害に苦しんでいた私は、セルフ精神分析によってそれを克服した結果、世の中で当たり前のように行われているさまざまな事象にも強迫が浸みこんでいることに気がついた。
人々がせわしなく動き回る歳末の雑踏が、「幸せの駆け込み需要」のために「年内滑り込みセーフ」するという地域ぐるみ、社会ぐるみの強迫症状に見えてならない。
この時期の切迫感が、私は幼いころから嫌いであった。
動きが鈍く、物を片づけられず、いつも
むしろ、プレッシャーがかかって余計に動けなくなってしまう。
「あけましておめでとうございます」
やがて時計の針は12月31日の午後12時を越えて、新しい年となる。
「あけましておめでとうございます!」
という声が飛び交う。
いったい何がめでたいというのだろう。
「めでたい」というからには、それを言う人も言われる人も幸せでなくてはならない。
だから、人々はあちこち走り回って、年が明けたときに「幸せ」であろうとするのだ。
幸せだからめでたいのではなく、年が明けたときにめでたくあるために無理やり幸せになろうとしているのである。
この本末転倒が起こるため幸せでなくなる人が多い、とはあまり考えられていない。
昔、
「正月は
当時は個人の誕生日を祝うという風習がなく、皆がいっせいに年の変わり目に齢をとったので、
「正月が来たので、また一歳、齢をとっちまって、死に近づいたよ」
という歌である。
それは各自の誕生日に齢をとるようになった現代の私たちにもいえることだ。
正月が来たことで、また一年、死に近づいたのである。
少なくとも、人生の残り時間が減ったのだ。
実社会でバリバリと働き、その働きが単なる空回りではなく、自己実現を着々とこなす過程になっている人はまだいいだろう。
生命の残り時間と差し替えに、得るものを得て、築くものを築いているから、年月が経つことは一方的な損失としては感じられない。
しかし、何もしておらず、むなしく日々をすごしているひきこもりは、得るものを得ず、築くものも築かないまま、ただ人生の残り時間だけが減っていく。
「正月が来た」ということは、また一年が経ち、一年を
これが「めでたい」のか。
「今年もよろしくお願いします」
「今年もよろしくお願いします!」
という挨拶も、考えてみると、おかしなものである。
たとえば会社などで日頃から会っているなら、わざわざそんなことを言わなくても、どうせ二、三日もすればすぐにまた仕事場で顔を合わせることになるだろう。
逆に、たとえば昔の学校の同窓生のように日頃から会っていない相手なら、そんなことを言っても、どうせまた会わないまま一年が過ぎて、きっと来年の正月に同じことを言うのだ。
届けられる年賀状には、どこか知らない子の写真がデカデカと載っている。
誰かと思えば、昔の友人が親になったとのこと。
「かわいいですね」
と返事することがそれとなく要求されている。
しかし、こちらからすれば、会ったこともない子どもの写真を見せられても感興は湧かない。
友人にとってはかわいい我が子であって、
「その成長を見てほしい、自慢したい」
という存在なのかもしれないが、こちらにとっては「知らない子」なのである。
年月を経て友人自身の風貌がどう変わったかには少なからず興味はあるが、人間と人間として関係性がなければ、たとえその子でも、知らない他人にまで興味をいだく気力がない。なんといっても、こっちはひきこもりなのだ。
こうして年賀状の送り手は、こちらが訊いてもいないのに結婚、出産、昇進など自分の人生が前に進んでいることをズケズケとあつかましくも報告してくる。
こちらは、土足で心の中に踏み込まれながらも
「ありがとう」
「よかったですね」
「ますますのご多幸をお祈りいたします」
などと言わなくてはならない立場へ追いやられる。
「自分の人生、こんなことをしていていいのか」
と焦りに駆られているひきこもりには、見るのもつらい郵便物たちである。
「年賀状は平安時代から伝わる日本の美しい風習なのだから、皆さん年賀状を出しましょう」
と提唱する人々がいる。
たしかにテクノロジーの進化が著しい昨今、アナログな文化は意識して残していかないといけないだろうが、しかし平安時代の昔には、年賀状はもっとマシなものだったはずである。
歌を詠み、押し花を添え、おのれの心情を吐露し、感情のやりとりをしていたはずだ。現代のように記号化し、自慢話の交換になってしまった「新年のごあいさつ」ではなかった。
*
遠くに住んでいる親族は正月に集まり、この時ばかりと華やいで、親族としての一体感を確かめあう。
その陰で、社会の秩序から外れたひきこもりたちは追い詰められていく。
事情も知らずに説教を垂れ始めるおじさんやおばさん。
大人と見れば、お年玉をねだってくる甥っ子や姪っ子。
いつもは静かな家の中は親戚たちの笑い声で満ち、笑えないひきこもりはいよいよ自室にひきこもる。
ひごろ「居場所」を宣伝している行政や団体も、結局やっている人が一般市民であると、自分の市民生活を優先し、年末年始はお休みとなる。
これでいよいよひきこもりは行き所をなくす。
お知らせ
でも、ご心配なく。
当事者団体VOSOTでは、親戚がもっとも集まりやすい1月2日にオンライン対話会を開催します。
ひきこもりのオアシスを目指します。
◆ 日時:2025年1月2日(木)14:00 - 17:00
◆ 場所:オンライン(参加確定者にはZoomのリンクをお送りします)
◆ 参加費:「お金のない人」「お金のある人」を自己申告していただきます。
・お金のない人…無料
・お金のある人…お送りする口座にお振込みいただきます。いただいたご資金は運営のためだけに使わせていただいております。
◆ 参加申込み方法
下のリンク先の申込みフォームから開催当日11:00までにお願いいたします。
◆ 詳細情報
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