文:喜久井伸哉
わたしの人生は、文學ではなく任天堂に救われてきた。
心身が追い詰められている時には、この世のすべての本よりもポケモンが必要だ。
8歳から学校に通学することがなくなって以降、わたしは10代のうちのかなり長い期間、集中して文字を読める状態になかった。
孤立した不穏な日々を生き延びていくためには、読書なんぞには、頼れない。
常に緊迫していたため、一冊の本を読みとおすための、悠長な時間はなかった。
身体がぐったりしてしまうせいで、物理的に本を手に持ち、繰り返しページをめくる、という行為の継続が難しかった。
いまだに、古典文學なんかより『ゼルダ』が救済になることが多い。
現代の日本では、読書がやけに、良いこととされすぎているように思う。
たくさんの本を出版している人間は何となく偉いように思えるし、一般人であっても、読書家はそれだけで教養人のように思える。
書物から多くの知識を得て、豊富な語彙を扱い、あれこれ引用しながら議論をおこなう、となれば、人間的に成熟しているような気がしないでもない。
それでも、昨今は読書とその効力による「言語化」が信じられすぎているように思う。
思想家の東浩紀や一部の若手政治家は、ネットの言説をうまく集約することによって、民主主義をアップデートできるはずだ、と言っている。
たとえば、SNSで発信される無数の情報を集めることで、社会的な課題や解決方法が見えてくる、という。
だが、その試みによって集められる言葉は、「言葉にできる」ことが自明の人々の発言だろう。
物事を「言葉にできる」ことは、決してあたりまえのことではない。
マイノリティの場合、自分を言い表す言葉が、この世に存在していないことがざらにある。
多くの人々の言葉を集めることで、多くの人々の政治をおこなう、という試みは、発想が「言葉すぎる」と思う。
言説中心主義であり、識字中心主義だ。
「人々の発言を集めよう」という試みの場合、吃音や発声障害の人の「声」を平等に集めることは難しい。
識字に関しては、ディスレクシア(識字障害)の例だってある。
生まれつき読み書きが難しい人々の「文章」と、そうでない人々の「文章」の質量は、どのように公平に保たれるのだろうか。
市川沙央の小説『ハンチバック』(2023年)は、知識人層に読書バリアフリーの発想がないことを批判していた。
本書が芥川賞を受賞して多くの書評で取り上げられた際、わたしは物知りなはずの人々が、「読書」に対して異常なほど鈍感であることに驚いた。
そもそも、日本語を母語としない人々もいる。
「ダイバーシティ」や「多様性」などと言うと、それらの単語そのものが「言葉すぎる」感じもあるのだが、「読む」ことが難しい人々にとって、「本」の力は小さすぎる。
読書は良いことだ、という前提が、あたりまえに共有され過ぎているように思えてならない。
コロナ禍以降、メディアではオンラインで取材を受ける学者が増えた。
ZOOMなどで学者の映像とつながった際、自室や研究室の本棚が映りこんでいることがある。
難しそうな本でいっぱいの棚は、「私は知に重きをおく人物だ」という表象も同然だ。
わたしは、あれがけっこう気にさわる。
たとえるなら、貧乏人が金持ちの映像を見るような感じかもしれない。
かつてのわたしは、言ってみれば本を読めない「知的な貧困層」だった。
本棚を満杯にした「知的な金持ち」の姿は、それだけで少々「偉そう」に見えてしまう。
本を読めなかった人間にとっての本棚は、金持ちが金ピカのオブジェを飾っているようなものだ。
なおわたし自身は、家にあまり本を置いていない。
基本的には図書館で借りて読んでおり、それなりに買ってはいるが、すぐに売ってしまう。
資料として保管したい紙面は、必要なページだけ切り取ってファイリングする。
本を解体して捨てることに抵抗がない。
ライターを名乗る人間としては、相当に「本」が嫌いな部類に入るだろう。
「憎んでいる」というのが言い過ぎだとしても、少なくとも警戒している。
「本」は重要な慰めになってきたが、それはあくまで、日常的に読書ができるようになった20代以降のことだ。
10代の肝心な時期に、「わたしを救わなかったくせに」という遺恨がある。
究極的なところでは、どうせ「本」も「言葉」も助けにならない、という他人行儀な一線を、書物全般に対して引いている。

歴史的に見ると、識字文化が圧倒的な影響力を持ったのは、近現代以降のことに過ぎない。
日本は他国に比べ、昔から識字率が高かった、という説を聞いたことがある。
だが八鍬友広著『読み書きの日本史』(岩波書店、2023年)を読むと、かならずしもそうではなかったようだ。
中世の貴族は字を学んでいたが、自在に読み書きできていたわけではない。
識字が苦手な貴族のことを、「無才学」「一文不通」「文盲」「不知漢字」などと言っていたという。
また同書では、明治期の1899年の「識字率」が、約76%だとする陸軍の調査が紹介されている。
この数字だけを見れば、19世紀末の識字率としては、十分に高いように思える。
だが、これは学校教育の影響下にある、20歳の男子のみを対象とした数字だ。
女性や高齢者を含んだ全体の識字率を考えれば、はるかに低い統計が出てくるだろう。
また、そもそも何をもって「識字」とするかが、調査によってかなりばらけている。
「自分の名前を書けるかどうか」の「自署率」は、識字の研究において貴重な調査対象になっているというが、名前が書けるだけでは、現代的な意味で「読み書きができる」とは言い難い。
「読書」全般が推奨されるようになったのも、比較的新しい価値観に過ぎない。
近年はゲームやネットの登場によって娯楽としての「格」が急落したが、数世代前まで、小説は子どもの躾(しつけ)における「敵」だった。
「小説の妄想によって脳がやられる」といったことが真剣に論じられており、戦前は娯楽的な読書を校則で禁止する学校もあったほどだ。
今でいう「スマホ脳」や「ゲーム脳」にあたる警戒的な批判が、小説に対しておこなわれていた。
長い人類史においては、衣食住の安定こそが文字通りの死活問題であり、識字どころではない。
「文字を識別できる人」よりも、「動植物の種類を識別できる人」や「天気の変動を識別(察知)できる人」の方が、よほど重要だったろう。
近年ではポッドキャストの音声や、ユーチューブやティックトックの動画、インスタグラムの画像など、識字以外を中心とする媒体の利用が急速に拡大している。
ある学者は、人類がふたたび非識字的な「口承」の時代に入るのではないかと指摘していた。
だとしたら、わたしはそれを歓迎する。
だから本などたいしたことない……と言い切りたいのだが、私は日常的に本を読んでおり、自ら本を書いてさえいる。
本稿を含め、言葉で言葉を批判することほど、明白な矛盾もない。
その上で、どうせ最後には書物が「わたしを救わない」と見放す思いがある。
現在の読書は、貧乏だったころを忘れて、自ら金ピカのオブジェを飾っているような愚行だ。
菜食主義の重要性を説くぶんには、たとえ肉を食べながらであっても、何も話題にしないよりはマシだろう。
矛盾を抱えつつ、わたしは、文章の読み書きができることを偉ぶるな、と書いておきたい。
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。著書に『詩集 僕はまなざしで自分を研いだ』がある。
