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私の母語は沈黙 「ひきこもり」とセクシャルマイノリティ②

 (文・写真 喜久井ヤシン)

前書き

 私はいわゆる「ゲイ」で……と自己紹介をする、ただそれだけの言葉にたどりつくために、私は三十年以上の年月がかかっている。いまどきなら目立つほどの告白でもない、特にネット上であればいくらでも見つけられる「ゲイ」や「ひきこもり」という言葉を、自分の属性として引いてくることは、今でもなお臆病な警戒とためらいとを含ませる。カミングアウトの実行や、「ひきこもり」の当事者の語りが推奨されることがあるけれど、上手く言葉にして伝えるためには、マジョリティ――ここでは主に社会人の異性愛男性――にはない労力がいる。
 今回は「ひきこもり」で「セクシャルマイノリティ」の当事者手記、というよりも、「マジョリティ男性」でない立場の人間が、沈黙と言葉について悩んだ記録になっている。細かく抽象的なことを取り上げているけれど、いっときお読みいただけたらと思う。

 

   前回記事

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私の母語は沈黙 「ひきこもり」とセクシャルマイノリティ②

 

   なぜ私たちはただいるだけじゃダメなの?――アイリーン・マイルズ


 2018年5月17日、警察庁は、初めて性犯罪などの被害にあったさいに、誰にも相談していなかった人が52%に上るとの調査結果を発表した。「他人に知られたくなかった」などの理由があげられており、半数以上が家族や友人にも被害を打ちあけなかったという結果だ。昨年からムーブメントの起きている「#MeToo」も、セクシャルハラスメントの問題から、沈黙せずに声をあげて訴えていこうとするもので、それは性的な告白がどれほどしづらいかを示すものでもある。セクシャリティという意味では、「ゲイ」は一部からカミングアウトが推奨されてきた。クローゼットに入ってずっと隠しとおそうとするのではなく、それぞれの人がオープンにしていけば、自身の生きやすさにもつながり、社会的な変革をもたらすこともできる、と。私自身、政治家をふくめた著名人がもっとカミングアウトしてくれたなら、――自分のことを棚に上げつつ――偏見の解消やパートナー法制定にもプラスになってくれるだろうという思いがある。歴史的なゲイ・アクティビストであるハーヴェイ・ミルクは、『希望とは、決して沈黙しないことだ』と言った。勇気をもって声に出し、語り、訴えていったなら、自分も世の中もポジティブに変えていくことができる……かもしれない。そのような希望をもつことはできる、にしても、それでもなお実行におよびがたいためらいを覚えるのは、深甚な徒労が予期されるためだ。(違う文脈ながら思い出される発言として、『語りえぬものは沈黙しなければならない』といった、一人の同性愛者の言葉もある。)

  

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 やや奇妙な比喩によっていうけれど、私――大きく言うならマイノリティ――は意味から言葉までの距離が遠い。反対に、マジョリティは言葉と意味とを一致させるために、たいして苦労しなくてすむ。「僕はゲイの男で……」と語るただそれだけであるはずの自己紹介が問題をはらむのは、そこに世間のまっとうさとのズレがあるためだ。マジョリティはまず、自分を正直に語る自己紹介で、そのような葛藤をする必要がない。自分からわざわざ、「僕は異性愛のシスジェンダー(身体的性別と性自認が一致している状態)で……」という自己紹介をする人はいない。マジョリティにとってはたいして意味を持っていないはずの「男」という単語一つを口に出す時、私はすでに意味への隘路(あいろ)を踏破している。「男」という単語、「僕」という主語、「ゲイ」という言葉の一つ一つが世の中の規範の藪の中を行くもので、私の語る言葉の多くは傷を作りながら通り抜けたあとのものだ。「恋愛」「恋人」「結婚」に、「旦那さん」「奥さん」に、名前への「ちゃん」づけ程度のことでも。外国語を解釈し、意訳して書き綴る手間のように、私は母国語であるはずのものを苦心して使う。日常的な言葉を使うためだけでも、「マジョリティ男性」でないだけですでにマイノリティの負担がある。

 

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 そのような不利益の表れている、最大の例が女性だろうと思う。
 2018年5月16日には、女性議員を増やすことを後押しするための「男女共同参画推進法」が成立した。選挙での候補者を男女均等にするよう政党などにうながすもので、「ジェンダーギャップ指数」が世界114位、女性議員の比率が世界151位という国にあって、わずかであれ前進しようとする動きだった。(ただ参考までにいうと、スペインで先日発表された新内閣は、17人中11人が女性だった。)「マジョリティ男性」でないことは、はっきりとした差別や抑圧でなくても、日常生活を生きづらくさせるものが多くあるように思う。「ガラスの天井」ほどでなくても、言葉や動作の一つ一つの細部に、ガラスの石をまたぎ、ガラスの平均台に乗り、ガラスの段差を踏み越えていかねばならない労力がいる。一歩一歩がごくわずかにすぎない差だとしても、一年や一生の総計で見るなら、果てしない距離の違いが生まれていると思う。

 文房具が右利きの人のために作られ売られているような、左利きの人にとっての生活のごくささいなわずらわしさのように、くらしの細部がすでに「マジョリティ男性」のためにある。「マジョリティ男性」は道具を同じように扱えないことをたんに不器用だとみなすかもしれないけれど、そこには平等でない利き腕がある。

 「マジョリティ男性」でないセクシャリティの一種、「LGBT」にあっても、低賃金や不当な解雇は多く起きている。昨年の連邦公民権委員会の発表によると、同性愛の男性は、同程度の能力を持つマジョリティ男性より収入が1~3割低く、「LGBT」の成人は異性愛の成人より貧困率が高い。これはアメリカでの調査だけれど、日本の現状がこれより良いものだとは思えない。当然、就労以前の社会に入っていくための負担の差も、「LGBT」の「ひきこもり」――つまり私自身のこと――にとっては多大だ。

 

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 言葉の使いづらさ、伝えづらさに加え、そもそも性的なことが語りづらい。公的な性教育すら行きすぎだという批判もあり、何らかの被害にあっても、表沙汰にして人に知られるようなことをするなという抑圧がかかる。十年程前と比べればおさまっていると思うけれど、同性愛に関してもカミングアウトに対する抑圧はあった。知識人などインテリの人たちから、セクシャリティという個人的でデリケートなことを、わざわざオープンにして世間に訴える必要はない、と言われてきた例が少なからずある。
 ただ、私はそれを発言できる時点でマジョリティとのアンバランスがあると思う。同性愛についてことさら語る必要はないという評論家が、たとえば何も意識することなく薬指に指輪をはめている。性への沈黙をすすめるその評論家は、自分の異性愛を平然と伝えていることに気づいていない。「うちの奥さん」と言った瞬間に、異性愛と男女差の意味が生じているし、結婚・恋人・家庭・子供の話がすでに異性愛の話題であることをわかっていない。それに、人目を気にせず結婚相手を従えられる世界が、「マジョリティ男性」の特権であることにも無頓着でいる。性に関して私が語らない時、それは評論家のからっぽな無言とは違う、抑圧に鍛造(たんぞう)された重厚な無言を黙している。

 

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 私はいわゆる「不登校」や「ひきこもり」の経験をしてきた。その中で、養育者(親)から「原因は何か」、「話してくれないとわからない」、「不満があるならもっと言ってきたらいいでしょ」など、自分の沈黙を責められてきた。私はたしかに語らず、――暴力や暴言のない「ひきこもり」というのは、行為としても沈黙的なことに思うけれど――ていねいに説明するなんていうことはできなかった。ただ反論めいた弁明をするなら、マジョリティの側にいた養育者たちも、聞くに値することはなにも語っていなかった。ガッコウや社会を避ける私に対して、たとえば自分たちの言葉で社会に出て行くだけの意義や喜びを語る、ということはしていない。

 人間関係の中には、空気を読むとか察するとか、――時事的な言葉となった忖度(そんたく)とか――はっきりと言葉で伝えないコミュニケーションが多い。マジョリティの社会なら、進学や就労、結婚が当りまえのものとして、深く語られる必要もない。「なぜ就労したのか?」と問い詰められたり、「男女で結婚した原因は」なんて心理分析されたりしない。語らないという意味では、マジョリティだった養育者の側にも多量の沈黙がある。少なくとも、養育者にとって私の言動が腑に落ちるだけの「原因」や「理由」の言葉を聞かなかった程度に、私もまた社会に出るだけの「原因」や「理由」にあたる言葉を聞けなかった。それはたとえば性教育を語らずにすませることのような、表だって言葉にすることを控えるだけの、半分意図的な抑制がはたらいていたということはなかっただろうか。性被害を言葉にしないことのように、公開し分析するよりも、語らないことが最も都合の良い対処の仕方だったことはないか。私に固有の沈黙があったのではなく、養育者の側や、大きくは社会的な環境に沈黙があったのでは、と疑っている。私が沈黙的なことをし続けていたにしても、それは私だけの生存戦略ではなく、空気を読んで生き方まで決定されるような、深く大きな黙(もだ)のある環境に、私が住んでいたということではなかったか、と。

 

 

お読みいただきありがとうございました。