ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

ワケあり女子のワケのワケ⑥ そしてひきこもる〜ある日、身体が動かない

 

f:id:wakeali_joshi:20180621014556j:plain

昨冬の北陸豪雪。あの日も雪が降っていた(撮影・ワケあり女子)

こんにちは!ワケあり女子です。
先週予告しちゃったので、最後の数行でギリギリひきこもりました。。滑り込みセーフ?
引っ張れるだけ引っ張って、
最後さらにCMで引っ張るテレビ番組の手法をしばらく批判できないです。苦笑
あ、おかげさまでお風呂争奪戦は最近負けてません。日本代表も勝ちましたね。

「ワケあり女子のワケのワケ」、今週は長いですがどうぞ懲りずにお付き合いくださいませ。ひきこもってからが本番です!(?)

  

www.hikipos.info

(これから記述するひきこもり期、おもに15歳から18歳頃までの出来事については、
 本人の記憶が曖昧なため、時系列など一部正確でない可能性があります。)

 

最悪の記憶

世界有数の豪雪地帯である北陸の冬は厳しい。
車1台通れるかどうかの細い小道が雪で塞がり、
その日は家族三人とも自宅を出ることができなかった。
中学3年生だった私は学校への不満から受験勉強を放棄して、
間近に控えた英検2級の勉強にいそしんでいた時期だった。

母が中学校へ雪で欠席する旨の電話をかけ終わると、
居間には異様な空気が漂っていた。
平日朝から家族三人が一同に顔を合わせるなんて、
雪で通行不可にでもならない限り我が家ではありえない。
気まずい空気に耐えかねたのか、父は雪かきに外へ出ていった。

母と二人で居間に取り残された私は重苦しい空気に取り憑かれないよう必死だった。
その日の母はいつにも増して様子がおかしくて、
よく聞き取れない独り言をぶつぶつとつぶやいていた。

こたつに置き去りの父の携帯を、こちらによこせと彼女は指示した。
とてつもなく嫌なことが始まる予感がした。
けれど私はその指示に従わざるをえなかった。
いたたまれなくなった私はその場を去ろうとしたけれど、
ここに残れという母の命令に恐怖のあまり逆らえなかった。

母の独り言は父の携帯を見て次第に大きくなっていった。
憎しみにまみれた顔をして、
「あー・・・怪しいなあ」などと私に聞こえるようにつぶやく姿はまるで夜叉のようだった。

 

最悪の台詞

その日の夜に史上最悪の夫婦喧嘩が始まる。
ものすごい形相で父に掴みかかろうとする母を私は必死で止めようと羽交い締めにした。
幼い頃からよく手をあげられて「怖い」と思っていた母の身長をいつの間にか追い越していたこと、
運動部で鍛えた腕力が思いのほか母の力を上回り、
動きを止めるのが物理的にはそう難しくなかったことに戸惑いを覚えた。

それでも父を罵倒し続ける母の姿に、
ついに父が「うるさい女やのう!」と福井弁で声を荒げた。
父のそのような姿はこれまで一度も見たことがなかった。
このままでは父が母に手をあげてしまう。
それだけは見たくない。何としても避けなければならない。
私は母を羽交い締めにしたまま心にもない台詞を吐いた。

「私はお母さんがいないとダメだから-。」
その一言で母は鎮まり私を抱きしめて泣き崩れた。
昼ドラよりも陳腐な展開に自分でも呆れた。
母の生きがいが私しかないことを私は知っている。
母の精神をかろうじて正気の世界に繋ぎとめておけるのは私だけだったのだ。

本当はどちらかというと父の方が好きだった。
ほとんど家にいなかったけれど、幼い頃の楽しい記憶は父とのものが多い。
喧嘩をするといつも家を出るのは父の方で、私はそっちについていきたかった。
でも私が父を選ぶと母の精神はおそらく崩壊する。
その日も復旧したばかりの道を通って父は家を出ていった。
私は絶望とともに母と2人で家に残された。

 

「伝統」に縛られて

4月になり私はくだんの藤島高校に進学した。
特に行きたい高校もなく、とにかく早く東京でより上位の教育を受けたかったから、
県内で最も進学実績のある高校を選んだというだけだった。
しかし学区内とはいえ生まれて初めて自分の学力で通う学校を選んだので、
授業の内容にもわずかに期待していたがそれは入学後あっけなく崩れた。

福井市内にある藤島高校は、江戸時代に福井藩主松平春嶽が設立した藩校・明道館が母体である。
入学前の春休みには、春嶽の側近で学監心得を務めた橋本左内の著作『啓発録』が届いて、
入学式の直後にはそれが穴埋め問題で出題された。
「文武両道」という謎のスローガンが未だ強烈に生きていて、
剣道部や弓道部の練習がやたら厳しいことで有名だった。
福井高等女学校の流れも組んでいるからか、
箏曲部など女性のお稽古事系の部活も豊富だった。
至るところに溢れ返る「伝統」というキーワードに息が詰まりそうだった。

しかし藤島高校といえば福井県で最もブランド力のある名門校で、
例えば「孫が藤島に入学した」というのはかなり誇らしいトピックとして語られる。
両親・祖父母や親族、地域にまたしてもちょっとした話題を提供してしまったことや、
期待と好奇と(おそらく)嫉妬の目を向けられることで憂鬱はピークに達していた。

 

母の家出

高校入学直後に、母から家出の相談をされた。
「お父さんからお金が入ってこない」「もっとしっかりしてほしい」
「お前も高校生で、もう大人だから」ということらしい。

この手の話で父側の言い分をついぞ聞いたことがないので真相はわからないが、
私が見る限り父は少なくとも働く意欲のない人ではなかった。
その父から入金がないということはつまり事業がうまくいっていなかったのだろう。
バブル崩壊の波が地方にもようやく届いたということかもしれなかった。
父の扶養に入っていた私の保険証は
その後数年の間に、
国民健康保険からどこかの会社の社会保険に切り替わってはまた戻ったりを繰り返した。

 

未熟な夫婦

私もパートナーを持つ年齢になってようやくわかったのだが、
共働きの夫婦で一方の収入が途絶えた場合、
私ならその間の家計について相手と話し合う機会を持つだろう。
どちらが収入を支えるにしろ、
それはあくまで対等なパートナーとして一時的な危機を乗り越えるための体制づくりであり、
どちらが悪いという話では一切ない。

だが父と母がそうした話し合いをする様子を一度も見たことがなかった。
ただ母が一方的に不満をぶつけるだけの関係で、
しかも子どもに「悩み相談」という名の愚痴を垂れ流すというのは、
つまりこの夫婦の関係が全く成熟していない証拠だった。
「相談事」があるのなら、私ではなく誰よりもまず父に相談すべきだろう。
でも当時16歳の私にそんなアドバイスができるはずもなく、
曖昧な返事をしているうちに母は本当に家を出ていった。

 

父と暮らして

初めての父との二人暮らしは奇妙でぎこちないものだったが、
もともと感性の似ている父との生活はさほど苦ではなく、むしろ比較的楽しい部類だった。
何よりこの人は母と違って、私のささいな言動にいら立って怒鳴ったりわめいたり叩いたりしない。
しょっちゅうくだらない冗談を言う、ひょうきんで楽しい人だった。

しかし2週間もしないうちに、買ってもらったばかりの携帯に母からメールがきた。
「お母さんがいないとダメか?」
ダメって言ってほしいだけだろうと思った。
きっと家を出て自分の存在価値がわからなくなったのだろう。返事は返さなかった。
予想通りそれから数日後に母は実家から戻ってきた。

つかの間の父との共同生活はこうして幕を閉じた。

 

「受験」と「詰め込み」

高校生活は最初から忙しかった。
都会と違って予備校が少ない地方では高校が予備校代わりとなる。
授業は毎日5限だか6限までびっしり拘束され、
その後部活動を終えて学校を出るのはだいたい20時すぎだ。
そこからバスと電車で50分以上かけて最寄り駅まで帰り、
さらに駅まで親に迎えにきてもらうと家に着くのは早くても21時から22時頃になる。
食事と入浴を済ませて机に向かう時間ができるのはいつも深夜0時近かった。
どの教科も予習だの復習だの課題が山ほど出されている。
みんなこれをいつどこでこなしているのか不思議で仕方なかった。

課題なんて出されなくても好きだから勝手に勉強するのに、
なぜ自由にやらせてくれないんだろうと思った。
私にとって勉強とは与えられた課題をこなすことではない。
それは好きな本やマンガを読むのと全く同じ作業だった。
ベッドに寝転んでマンガを読むのと同じように私は教科書を読み、考える。
どんなテスト勉強もそれ以上のことはしたことがなかった。
もともとロングスリーパーで1日9時間寝ていた私は次第に体調を崩し、
夏休み前には学校を休みがちになった。

最初はただの睡眠不足からくる疲れだろうと思っていた。
夏休み中にしっかり休んで、2学期になればまた学校に行けると思っていた。
行かなくてはならないと思った。
でも夏が終わってもそんな日は来なかった。
9月から私はぱったりと学校に行けなくなり、あらゆる身体機能が活動を停止した。

 

(つづく)

(著・ワケあり女子)