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川崎殺傷事件「死ぬなら一人で死ね」論争に思うこと

(文:Longrow)
(画像:pixabay)


川崎殺傷事件で亡くなられたお二人に、心から哀悼の意を表するとともに、心身に傷を負われた方々の回復をお祈りします。
また、何よりも被害者の方々を第一に考えた行動がなされ、メディア報道などによる被害の拡大が起こらないことを願います。



ご存じの方もいらっしゃるかもしれない。
川崎市で20人もの人々が殺傷された「川崎殺傷事件」を受け、ネット上で飛び交い、論争を巻き起こしている言葉がある。それは、

「死ぬなら一人で死ね」

この言葉について、論争の発端となったのはこの記事。
そしてタイトルにある『「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい』という言葉だ。

news.yahoo.co.jp

この藤田孝典氏の記事を受け、「死ぬなら一人で死ね」という言葉を使うことの是非について、賛否両論入り混じった論争が展開されている。

「迷惑をかけるなと言うことは当然だろう」
「社会は手を差し伸べるという姿勢が見えないと、人は絶望する」
…等々。

賛と否のいずれについても、様々な立場からの意見が飛び交っていて、着地点など見えそうもない。それだけ、この事件のインパクトが大きく、この言葉から感じるものが多いということなのだろう。


「死ぬなら一人で死ね」は圧倒的に正しいけれど

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1.

「死ぬなら一人で死ね」。

自殺したいなら、他人を巻き込まないでください。
そもそも人を殺さないでください。

全くその通りで、同意する。
この言葉は圧倒的に正しい。
とてもとても、当たり前のことを言っている。

この言葉を怒りの意思表示として使うぶんには、私は、そんなに問題だと思わない。
事件の犯人に対しては、当然に、向けられる言葉であると思う。

しかし私は、この言葉を誰にでも向けることはあってほしくない、と思っている。

なぜ私がそう考えるか、ここに少し書きたい。



2.

いま、「死ぬなら一人で死ね」を”私へのメッセージ”として受け取る人がいると考えてほしい。

その受取人にとって、このメッセージは結局「死ね」と同じではないだろうか?

「死ね」にくっついている、「死ぬなら一人で」は、圧倒的に正しい。
しかし圧倒的に正しいとは、「当たり前」と全く同じ意味だ。
当たり前を言われたところで、感じるものがないとしても当然だ。

しかし「死ね」は、最低の全否定の言葉だ。
前置きをくっつけて「死にたいなら、死ね」にしても、この「死ね」がある以上、自分への全否定に変わりはない。「生きろ」とは一言も言っていないし、「結論『死ね』」でしかない。

したがって、「死ぬなら一人で」と「死ね」をくっつけても、メッセージとしては「死ね」にしかならないのだ。黒色に他の色を混ぜても、黒が勝つのと同じように。


この「死ぬなら一人で死ね」という言葉。
圧倒的に正しいが、受け取ってしまう人には「死ね」というメッセージになる言葉。

だからこそ、受け取ってしまう人が居ない場所で言ってほしいと思う。


否定され、自己否定が始まり、無力感に陥る。
そして人は、本当に無力になる。

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1.

何だか、ちょっと言葉狩りっぽくなってしまったかな、とも思う。
また、この論争には非常に多くの人が参加しているため、そこに足を踏み入れるのは怖くもある。

しかし私のひきこもり経験を思い返すと、どうしても口を挟みたくなる。



2.

かつて私が深刻なひきこもり状態にあったとき、リアルの人間から認められることはほとんどなかった。当然、ネット空間につながりを求めることになった。

そしてネットには、ひきこもりやニートや無職を叩く言葉が乱舞していた。
彼らが認められることなど皆無。それどころか「普通」と扱われることも皆無。

私個人について言うと、いくつかの場所で認められることがあった。
ゲーム配信を観に来た外国人のコメントを簡単な日本語に訳して、日本人と外国人のコミュニケーションを助けた時には、お褒めの言葉をいただいた。
数学も同様で、問題が分からない人に解答解説を返し、感謝されたこともあった。

今にして思うと、結構「いいこと」をしていたと思う。

それでも、自分はいただいたお褒めに値するかという疑いを捨てられない。
「お褒め」を1回受けても、「ひきこもりを叩く言葉」が数百回降り注げば、自己肯定感はゼロに戻ってしまう。いとも簡単に。

そんなことが続いて、「自分は働かざる者で、食うべからずな者だ」という認識を6年持ち続けることになってしまった。
感覚ではなく、認識という確固たるものを持ってしまっていた。
今にして思えば病的だと思う。



3.

「否定に晒され続ければ、いつかは本当に無力になる」。
ひきこもり経験から得た、私の悲しい確信。
※心理学の側面から考えたい人は、「学習性無力感」という言葉を調べてほしい。

この「死ぬなら一人で死ね」は完全な否定で、人に無力感を味わわせる言葉。
相手に投げ続ければ、本当に相手を無力にする。
だからこそ、人に向かって投げてほしくはない。
人に向かって投げないのなら良いのだが…。

次章では、その「人に向かって投げない」が困難な状況になっていることを、お話ししたい。とても残念なことだが。


「死ぬなら一人で死ね」は、川崎殺傷事件を超えてしまった

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1.

正しさ&感情 VS メッセージ性&意味。

「死ぬなら一人で死ね」論争は、このような対立構造になっていると感じる。
私はひきこもった経験上、右の立場に立ちたいという気持ちが強い。

しかしそれに関係なく、この場に置いておきたいことがある。

「『死ぬなら一人で死ね』は、ネット上のあちこちで見られる言葉になった」
「『死ぬなら一人で死ね』は、事件の犯人だけに使われる言葉ではなくなった」

これは肯定派や否定派のせいではなく、論争がこの状況を作ったということだろう。

多くの人が使うから、見たくなくても見てしまう言葉になった。
論が広がり・深まることで、殺傷事件の犯人だけに使われる言葉ではなくなった。



2.

twitter、SNS、ブログ、匿名掲示板。
そこでは「死ぬなら一人で死ね」への賛否だけでなく、意見、論考、そして単なる罵詈雑言、も見られる。

もはや、「死ぬなら一人で死ね」はただの言葉ではない。
賛否や是非を超えて、時にはグサっと刺さる言葉になった。メッセージ性を持った。

もし死を考えるほど悩む人がいたなら、彼がこの言葉を見るたび、彼は「死ね」を突き付けられる。そんな状況になっている。

冒頭の記事を書いた藤田孝典氏は、記事内でこう述べている。

「社会全体でこれ以上、凶行が繰り返されないように、他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意をいただきたい。」
『川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい』より引用。2019年6月2日閲覧。

私はこれに、
無力感を感じている多くの人達が、さらに無力感の上塗りをする事態に陥らないように、他者への(以下略)」も付け加えたい。



3.

ひきこもり当事者・経験者を含む、生きづらさを抱える人たち。
彼らの大多数は、間違いなく、凶行に走るような存在ではない。

悩み苦しむ者も、控えめに言って、少なくないだろう。
いま死を意識している者もいることだろう。

しかし、事件を超えて拡散した「死ぬなら一人で死ね」に彼らが傷つく事態は、もう起こっているだろうと思う。残念なことに。
そして、今のような勢いでこの言葉が飛び交う間は、そんな事態があちこちで起こるのだろう。

それが避けられないのなら。
せめて「死ぬなら一人で死ね」を発する者が、凶行に走ることのない者たちにこの言葉を向けないことを、祈りたい。

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著者:Longrow(ロングロウ)
名前が示す通りウイスキー好き。twitterの「@redredbarolo」は、学生の頃飲んで忘れられないウイスキー「ロングロウ ガイアバローロカスク 7年」から。

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