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川崎殺傷事件によせて:今こそ「自己責任論」ではなく、あなたの想像力が必要

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(写真はイメージ:pixabay.com)

(文・田中ありす)

5月28日に神奈川県川崎市で起こった無差別殺傷事件について、一市民として非常に心を痛めている。
ある日突然理由もなく生きる権利を奪われるという、これ以上ない暴力。生存者や目撃者の方が負ったであろう心の傷や、「助けられなかった」「自分だけ生き残ってしまった」という罪悪感。同じ学校に通う生徒の「自分が狙われていたかもしれない」という恐怖。愛する者を失った家族や友人の深い悲しみ。
そのひとつひとつを思うたび、いたたまれない気持ちになる。もしこれが自分や家族や友人の身に起こったとしたら耐えられないだろう。
被害に遭われた方やそのご家族・ご友人、関係者の方々が一日も早く回復し、心の平穏を取り戻されることを心から願っている。

この事件の犯人がひきこもり傾向にあったとされる一連の報道について、ひきポス編集長の石崎が以下のような記事を出し、報道によるひきこもりへの偏見の助長に警鐘を鳴らしている。

www.hikipos.info

記事の内容自体は私も全く賛同している。私にもひきこもり経験があり、これまでマスコミや世間からの様々な偏見に苦しんできたからだ。

だが正直に告白すると、事件の第一報を聞いた時、まだ詳細は不明だったにも関わらず、(ひょっとして犯人はひきこもりなのでは…)と思ってしまっている自分がいた。

それは私自身に偏見があるからというよりは、犯行の手口から、犯人の社会に対する底知れぬ憎悪と絶望を垣間見たように感じたからである。少し丁寧に説明していきたい。

ひきこもりは「甘え」ではない

まずひきこもりに対する世間の最大の誤解を真っ先に解いておきたいのだが、ほとんどのひきこもりは「本人の甘え」では決してない。
働けない自分を責め、皆と同じようにできない自分を責め、なんとか社会とつながりたい・誰かの役に立ちたいという思いを持ちながら、なかなか自力では糸口を掴めず、孤立を深めるうちに徐々に気力や体力、希望までが枯渇していく、というのが多くのケースだ。
だいたい世間のイメージにあるような、「一日中テレビやゲームばかりして、働かないことを当然と思い、自分の生き方を全く悪いと思っていない」ような人であれば、ひきこもりになどならずに人目を気にせず堂々と外出するだろう。
社会に参加していない自分を引け目に感じ、申し訳ないと強く思うからこそ、他者からの視線に耐えられずひきこもってしまうのだ。

絶望エネルギーの矛先

人とのつながりが絶え、孤立が深まると、心の中は絶望で満たされる。私の場合は自分自身に対する絶望でいっぱいだった。
自分が生きている意味がわからず、生きていてもいいと思えず、自分の人生に希望なんて全く持てなかった。幸せそうに生きる人たちを呪ったこともあった。かと言ってその人たちを傷つけるなんて怖ろしくてできなかった。
私の場合は自傷や自殺をする気力もなかったが、実行に移してしまう人も中にはいるだろう。
私は眠っている間に死んでしまえればいいのにと何度も願っていた。

このように、孤立による深い絶望のエネルギーを常に自分自身に向けている状態がひきこもりではないかと私は考える(もちろんひきこもりには様々なケースがあり一様ではないが)。
ただ稀に、そのエネルギーが社会に向かう人もいるだろう。そうした人は社会から裏切られたり、傷つけられた経験があり、それをずっと忘れられず・許せずに恨んでいるのではないだろうか。それはそれでなかなかに苦しい人生だと想像する。その人にとって社会とは常に自分を苦しめる存在であり、その関係性から逃れられないまま生きていくしかないからだ。

「自己責任社会」の弊害

これはあくまで私の持論であるが、絶望のエネルギーを内に向けた状態がひきこもりだとするならば、それを外に向けてかつ実行に移してしまった状態が今回の事件ではないかと考える。
銃が禁止された日本ではナイフや包丁が凶器だが、諸外国(特にアメリカ)ではそれが銃乱射事件となる。銃乱射事件は英語でmass shootingというが、今回の事件は海外メディアでmass stabbingと表現されている。
そう、これはおそらく日本だけの問題ではないのだ。

アメリカのWebメディアに、銃乱射事件の動機に関するこのような記述を見つけた。
ごく限られた情報だが、日本社会の問題とよく似ていると言えるのではないだろうか。

The majority of active shooters are linked to mental health issues, bullying and disgruntled employees. (中略)Frequent motivations are revenge or a quest for power.

銃乱射事件の犯人の大半はメンタルヘルスの問題やいじめ、雇用環境への不満を抱えている。(中略)よくある動機は復讐や支配力の追求である。(著者拙訳)

出典:SCIENTIFIC AMERICAN “6 Things to Know about Mass Shootings in America” chapter 5

https://www.scientificamerican.com/article/6-things-to-know-about-mass-shootings-in-america/


アメリカの銃乱射事件に関する論調を見ると、銃規制という政治的話題に話がそれるか、犯人の個人的・精神的問題という話に帰結して、動機や社会背景についての論が今ひとつ深まっていないように見受けられた。日本も同じで、こうした事件は多くの場合「自己責任論」に行き着く。

だが私はその自己責任論こそが真の動機ではないかと考える。
つまりこのグローバル資本主義社会において、あらゆることが個人の選択の責任に帰結されてしまうことそのものが、ある種の人々に圧倒的な生きづらさを与えてしまっているのだ。

確かにテクノロジーの発達によって、あらゆるリソースにインターネットでアクセスすることが可能になった。人々の自己実現の可能性は格段に増えただろう。
だが「誰にでもアクセス可能なテクノロジーが用意されている」状態と、「そのテクノロジーを実際に使うために必要な人間関係や文化資本・社会資本・経済資本にいつでもアクセスできる」状態は全く違う。
自己責任論を持ち出して弱者を批判する人たちは、後者が誰にでも公平に用意されているわけではないという前提が抜け落ちているのだ。

いくらスマホがあればなんでもできる時代になったからといって、スマホを買うにはまずそれなりのお金がいるし、住所不定では契約できない。未成年なら親の承諾がいるが、もし親から虐待を受けていたら?
それにたとえ運良くスマホを手に入れたとしても、そもそもそれを使ってメッセージを送り合う人間関係が欠落しているかもしれない。

生まれた瞬間にアクセスできる環境には人によって差がある。
そしてその差はテクノロジーによって加速度的に開いていく。
気づいた時には個人の力ではどうしようもないレベルの膨大な差がついている。
それを自己責任だと非難されるから人は絶望し途方に暮れるのである。

「8050問題」について

話は変わるが、この事件特有の問題として、8050問題がある。
8050問題とは、50代を迎えたひきこもりの子と、80代になった高齢の親が収入や介護問題などの困難に直面する事態を指す(今回のように犯罪者を生み出すという意味では決してない)。

80代の親と50代の子がともに衰弱死して発見される事件や、親の死後にひきこもりの子が対処できず死体遺棄で逮捕される事件が相次いで報道されている。それらの事件を知った時、あなたは今回の川崎事件と同じくらい心を痛めただろうか?「また似たような事件が起きた」と聞き流す人が大半だったのではないだろうか。決して責めるわけではないのだが、あなたのその無関心がまさにひきこもり当事者を追い詰めることになるのだ。

考えてみてほしい。危機感を抱いている8050問題の当事者家族がそうした報道を見たら何を思うだろうか。「自分たち家族もいずれああなるかもしれない」と恐怖するだろう。
そして世間の冷たい反応や誰も手を差し伸べてくれない社会を見て、
「自分たちは社会に必要とされていないのだ」と孤立と絶望を深めるだろう。
今回の事件の犯人も8050問題の当事者であったようだ。強い絶望は時に人を極端な行動に走らせることがある。詳しい動機はわからないのでこれ以上は言及しないが、私はどうしても犯人とその家族のこれまでの生活に思いを馳せずにはいられない。

絶望が爆発する前に

今回の件を受けて、報道機関の方にぜひともお願いしたいことがある。
8050問題やその他痛ましい(あるいは悩ましい)事件を報道する際には、支援窓口や利用できる制度の情報を付け加えてほしいのだ。似たような境遇の方たちにとって、支援してくれる人がいると知るだけでも大きな希望となるからである。もし適切な支援窓口がなければ(8050問題がまさにそうであるが)、どのような支援が必要か、一緒に考えてみてほしい。
そして行政の方には、市民の声を聞いて適切な窓口を設置し、多くの人に周知してほしい
ひきこもりの子を持つ親御さんたちには、自分の子が犯罪者になるかもしれないと焦って悪質な矯正施設にすがったりしないでほしい。実の親に犯罪者扱いされることほど絶望的なことはないから。

社会(あるいは自分)を憎みながらも、他者を傷つけず生きていく人はたくさんいる。むしろそのほうが圧倒的多数派だ。心の中に秘めた思いと、それを実行することは全く違う。だがそれは裏を返せば、実行はしないが同じような思いを胸に抱く人が他にも存在するかもしれない、ということだ。
その人たちを踏みとどまらせているものが何かはわからない。おそらくは自分の将来や家族・友人、あるいは誇りを持てる仕事や趣味だったり、その他その人が大切にしているものや人の存在だろう。だがそれをある日突然なくしたり奪われたり、諦めなくてはいけなくなったとしたら果たしてどうなるだろうか。少しでいいので想像してみてほしい。

私は、少なくとも誰もが自分自身や周囲の大切な人・ものを傷つけられたり奪われたりせず、安心して大切にし続けられる社会を目指したい。
責任の押し付け合いは互いを傷つけるだけだ。
私たち一人一人の想像力が誰かの絶望を救う時が必ず来ると信じている。
「想像力」は「偏見」の強い対義語となるのだ。

 

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