文・写真 ぼそっと池井多
「避難所へ行きたくない」
そんな気持ちが、錨(いかり)のように重く在った。
私はひきこもりとして、近所づきあいを避けて生きている。
「あなた何してる人」という不定期連載シリーズで書かせていただいているように、唯一の例外として隣の邸宅の老婦人から一本のキュウリをいただいたのみである。町内会にも入っていないから、回覧板もまわってこない。
昭和40年代に建てられた、いつ倒壊してもおかしくない今の寓居に、かれこれ20年近く住んでいるので、たとえ近所づきあいはなくても、近所の人、とくに私が恐れてやまないオバサンたちは、たぶん私のことは知っている。
「何やってるんだか、よくわからないけど、昼間からブラブラしてる中年男」
ということで噂の的になっていると思われる。
ときどき私が買い物などに出かけると、道ばたで二人、三人と群れて立ち話をしているオバサン連中を見かける。ところが、私の姿を認めると、オバサン連中はハタと話をやめ、スッと分散することがある。ひごろ、何事ものろいオバサンたちも、こういう時だけ、まるで女子高生に戻ったように行動が敏速なのである。これが、私の顔を認識している証拠だと思う。
今回の台風のような災害時に避難所へ行くとなると、そこにいるのはこのオバサン連中である。
近所の人と顔を会わせたくないから、近所ではなく遠方の避難所へ行く、という手も考えられる。しかし、避難所はそもそも遠方へ出かけられない天候状態になって設置されるものであるから、どうしても避難するとなると近所しかない。もう必然的にあの恐ろしい近所のオバサン連中と顔を会わせなくてはいけないのである。
顔を会わせれば、きっとオバサン連中は「待ってました」とばかりに、こみあげてくる好奇心を心配している風情でひた隠し、私にあれこれ訊いてくるにちがいない。
「あなた、前から見かけるけど、お名前は?」
「おしごとは?」
「ご出身は?」
「奥さんは?」
これが、いやだ。
そこで嘘をいうわけにいかない。そもそも近所であるから、嘘をいっても、すぐバレるのである。そのような状況で黙秘権のような近代的な人権は認められていない。
あれこれ訊かれた末に、そこから「地域の交流」というやつが始まるのだろう。私がこの地へ引っ越してきて20年もの間、始まるのを注意深く避けてきた近所との交流が始まり、「ご近所の底力」「地域共同体の復活」を美しく宣伝する地元政治家たちの餌食となるのだ。
私は、講演やテレビなどで話すのはわりと平気である。なぜならば、私の拙い講演を聴きに来てくださる皆さまは、私の近所に住んでいるわけではなく、私にとって知らない人々であるからだ。
テレビにいたっては、たとえ全国放送であっても、スタッフ以外誰もいないスタジオという密室でしゃべっているのに他ならない。
しかし避難所には、私の日常生活をつぶさに見ている近所の人々がいるのである。
ああ、だから、避難所へは行きたくないのだ。……
災害がせまっているという実感がない
「避難所へ行かなくても大丈夫だろう」
という期待的な思いが、心の奥底で生まれる。
だいたい超大型の台風などというけれど、台風の目が上空を通過するはずの4時間前になっても、雨も風も梅雨時のそれに毛の生えた程度しか、私の棲む町には降っていなかった。
寓居の近くに川が流れており、望遠レンズを使えば、窓から水量を眺めることができる。わずかずつ水位は上昇しているようだが、まだ危険な高さには及んでいない。
こういうものは、上がるときには一気に上がるというけれど、上がっていない時にはその実感がないのである。
テレビやインターネットでは、気象衛星がとらえたハゲブスだかハギビスだかという巨大な雲の渦巻きがくりかえし映し出されるが、ひたすら白と紺色のコントラストが美しいばかりで、それがまもなく私たちに災禍をもたらす凶暴な風雨のかたちであるという実感はない。
すなわち、目の前の水位も、宇宙から電送されてくる写真も、いずれも差し迫った危険を私に実感させるものではないのである。
そのような中で、なぜ避難所の小学校へ行って、あの恐ろしいオバサン連中と会い、この世の地獄と思われる「近所づきあい」を開始しなければならないのか。
「やめておこう」と思った。
とうとう私は最後まで避難所へ行かなかった。
津波に呑まれた仲間たち
台風一過で晴れ渡った翌日になってニュースを見ると、千曲川や多摩川をはじめとして、日本各地で川が氾濫し、30名を超える方々が亡くなっていた。なおも行方不明の方々もいる。
そこで私は思い出したのであった。
かねてより私は、東日本大震災で津波に呑まれてしまったひきこもりたちのことを考えてきた。台湾の盧德昕監督が、宮城県のそんなひきこもりをテーマに映画を作った時には、ナレーションで参加させていただいた。
盧德昕 監督「Last Choice / もがき」予告編
Last Choice (2018) Trailer Cut B from 盧德昕 on Vimeo.
本誌の冊子版、HIKIPOS第6号「ひきこもりと父」の中では、ひきこもりのご次男を津波で喪った岩手県のあるお父さまにインタビューさせていただいた。冊子版に載ったインタビューはダイジェスト(縮約)であり、いずれ完全版をこのウェブ版HIKIPOSで連載する予定である。
また本誌ウェブ版でも、3.11にそのことを書いた記事がある。
そのように私は、
「津波に呑まれてしまったひきこもりたちは、いったいどういうつもりでいたのだろう」
と思いをめぐらせてきた。
しかし今回、思いがけず想像力のアンテナを遠い死者たちへ向けて伸ばす必要がない状況にあった、と思い至った。
私の部屋の近くを流れる川が、千曲川のようにならない保証はなかった。
台風一過の晴天の下で、今日も私がひきこもりとして生きているのは、一つの幸運な結果論にすぎず、
「避難所へ行かないことが正しい選択であった」
と理由づけるものではないのである。
大きな災害が来たとき、多くのひきこもりは避難所へ行きたくないだろう。しかし、それでは死を現実的に覚悟しなければならない。災害が過ぎたのちも、ひきこもりとして生きていたいのなら、やはり避難所へ行った方が確実なのである。
(了)
< 筆者プロフィール >
ぼそっと池井多 :まだ「ひきこもり」という語が社会に存在しなかった1980年代からひきこもり始め、以後ひきこもりの形態を変えながら断続的に30余年ひきこもっている。当事者の生の声を当事者たちの手で社会へ発信する「VOSOT(ぼそっとプロジェクト)」主宰。
facebook: vosot.ikeida
twitter: @vosot_just