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チタ紀行 〈戸塚ヨットスクール〉まで行って海に花束を投げ捨てた話

今回はひきこもり当事者による、〈戸塚ヨットスクール〉への旅行記をお届けします。戸塚ヨットスクールは、80年代に多数の死者を出して社会問題となった団体。しかし現在でも運営が続けられており、在籍者の自殺などが発生しています。本稿は、その戸塚ヨットスクールの前の海に「ただ花束を投げ入れるためだけ」に旅をしたルポルタージュです。終盤には、読者の予想を裏切るであろう展開が記されています。

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(文・写真  喜久井ヤシン)

 

愛知県知多半島にて

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  名鉄名古屋本線の電車は、駅を出るたびにプゥプゥとやや間抜けなクラクションをあげる。私はわざわざ東京から知多半島まで来たというのに、いっそ電車が止まってほしいと思えてきた。心がざわつき心拍はあがり、熱いのか寒いのかよくわからない体から汗が出る。目的地が近づくにつれ、体は拒絶反応を示してあきらかに嫌がっていた。

 

 電車は名鉄名古屋駅を出て約一時間。愛知県の中心から神宮前駅、太田川駅を通って知多半島を南下。終着駅まではもうすぐだった。終点の河和駅の近くに、私の今回の旅の目的地となる〈戸塚ヨットスクール〉がある。私と戸塚ヨットに直接のかかわりはなく、取材をしようというのでもない。ただ海に向かって花を投げに行こうと思っているだけだ。それでも戸塚ヨットに近づいているというだけで、私は怖気に襲われていた。

 

 私は八歳の頃から学校に行かなくなったために、親や教師たちからさんざん責められてきた。不登校を「治す」ための関連施設に行かされ、不登校の原因を追究され、不登校を叱られ、不登校を否定されてきた。そんな成育歴の中で、不登校の若者を何人も死に追いやってきた戸塚ヨットスクールは、私に底深い憎悪と恐怖を引き起こす。

 

 この旅を大げさにたとえるなら、ユダヤ人がアウシュビッツを訪れるようなものではないか。時代と親の対応が合致していたなら、私がこの土地に来て暴行されていた可能性がある。戸塚ヨットで罵声を浴び、殴られ、海に突き落とされていたのは、知らない誰かではなく自分であったかもしれないのだ。被爆者にとってのヒロシマや、遺族にとってのフクシマのように、私にはこのチタがおそろしかった。

 

 車窓から見る知多半島の町並みは、郊外にあるような大型の商業施設と戸建ての民家がひしめいており、人口密度の高い地域だった。私はなんとなくのどかなところを想像していたのだが、電車は一時間に3~4本も走っており、中部国際空港からのアクセスも良いため、田舎の雰囲気ではない。電車から見えるのは海ではなく小高い山であり、海辺の町を感じさせる趣もなかった。しかも通過する駅は「青山」という、私の地元にもある名前で、全然旅情が感じられない。季節は秋にあたる9月だったが、蒸し暑く、気温は33.5℃。空は晴れながら小雨が降っており、しかも遠雷が聞こえた。気分においても気象においてもうやむやなことが多い。私は雷の事故でも起きて電車が止まってくれたらいいと思った。引き返す理由ができればいいのだ。しかしこのような臆病さこそ、不登校経験者の叩き直されるべき「軟弱」さだろうか。戸塚ヨットのコーチたちが「体罰」で「治療」させようとする性根かもしれない。さきほど「ユダヤ人がアウシュビッツを訪れるようなもの」と言ったが、しかし団体も人も現役で活動しており、これから行く場所で息をしている。私は怖気づいていたが、残念なことに、電車は終着駅にたどりついた。 ホームを見ると、駅の案内板には「河和 KOWA」とある。心を強くもたねばならない。何も戸塚ヨットの人間と話すわけではないのだ。しばらく手を合わせて早く帰るだけだ、と心を決めて私は席を立った。

 

美浜町河和駅にて

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   私は駅前の花屋で、480円を出して仏花を買った。事前にグーグルマップで確認していたので、花屋の立地も、駅から5分ほどの距離でしかない戸塚ヨットまでのアクセスもわかっていた。私は片手に花束を持った不審な姿で、心拍を挙げながら道順に沿って歩いていった。駅前には自転車がびっしりと並び置かれており、スーパー帰りの人たちがビニール袋を提げていた。雨のせいか、駅を離れても潮の香りがまったくしない。通りを渡ろうとしたものの、大量の車が行きかっていたため、しばらく道なりに歩くしかなかった。しばらく行くと、海沿いの堤防が国道とともに長く続いているのが見える。海はまったく見えなかったが、土手の先には知多湾の水平線が広がっていることだろう。私には潮でなく血でできていると感じられる海だが、美浜町の人たちにしてみれば、当然ながらただの地元の海にすぎない。道路の右手には、長年営業していそうな定食屋が見えた。景色だけは平凡な 町並みだった。

 

 傘をさして足を進めていくと、100メートルほど先に何らの味わいもなく目的地が見えてしまった。そしてまず驚いたのは、戸塚ヨットの建物ではなく、通りを挟んだ向かいの土地だった。ほぼ正面に、新築の物件が建てられている。看板によれば値段は1380万円で、土日と祝日にはオープンハウスを開催しているとのことだ。派手な垂れ幕に詳細が書いてあったが、正面の建物で複数の死亡事件があったことの説明はしていないだろう。

 

 私はあらためて戸塚ヨットのビルを見た。もしもこの文章をフィクションとして書くなら、コンクリートの建物を暗鬱な墓標にでもたとえて、亡くなった子供たちへの哀悼を演出したかもしれない。だが現実に目にする建物は、単に潮風に晒されてきた三階建てのビルだった。建物の側面に「TOTSUKA YACHT SCHOOL」のロゴとイラストが堂々と描かれている他は、よくあるコンクリート製のビルでしかない。私はたいした情感も湧かず歩き寄っていた。それにしても、車通りが激しすぎるためにうかうかしていられない。この国道247号は半島の主要な交通路らしく、ぎりぎりの道幅でガードレールもないのだが、大型車などが猛烈な速度で疾駆していた。雨の中事件現場を見つめてたたずむという、静謐な雰囲気が全然出せない。

 

戸塚ヨットスクール横にて

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  私は両側から来る車を止めて道路を横切り、戸塚ヨットの側面の空き地に立った。玄関脇には一台自転車が止めてあり、プラスチック製のじゃばらのサッシ越しに、海上で使うヨット用品らしきものが何人分も並んでいた。現在でも複数名の「訓練生」の生活していることが見てとれる。最盛期には「訓練生」が100人も在籍していたというが、とてもそれだけの人数が寝泊りできるような広さがあるとは思えない。それだけの人数を詰め込むというのがすでに問題であるだろう。

 

 ここでは何人もの死者が出ながら、建物も変えずに、何十年も同じ場所で運営が続けられている。「かつて死亡事件があった団体」というだけではなく、「かつて人が死亡した場所」に今もあるという事実を、私は目の前にしていた。戸塚氏は著書などで脳幹を鍛えねばならないと主張しているが、死亡事件にも動じないことが、鍛えられた脳幹の成果なのだろうか。

 

 目の前のコンクリートのビルに、私はあらためて憤りを覚えた。運営の継続にあたって、政治家や住民による反対運動はどれだけあったのだろう。愛知県は、長田塾による監禁事件(2005年)と、アイ・メンタルスクールによる死亡事件(2006年)も起きている。愛知の教育関係者たちはこれらの惨事をどうやって忘れていられるのだろうか。

 

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 実際に来たことで気づくことも多い。建物の裏手は堤防とテラスの屋根があるため、ほとんど2階分の高さしかなかった。この十年で建物からの投身「自殺」は2人ということだが、国道の側が3階建ての高さなので、通りの方に飛び降りたということだろうか。私は少し離れた位置から建物を眺め、これが人間の死ねる高さか、といぶかしい思いがした。1階には格子がつけられていたが、3階の窓には何もない。逃亡しようとして落下した場合と、飛び降りの「自殺」とをどうやって見わけるのか、私の知識で理解できるものはなかった。

 

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 十数メートル離れたところには、慰霊のための小屋が建てられていた。私は縮刷地図を確認していただけだったので、このようなものがあるとは知らなった。だが事件の大きさからすれば、むしろ設置されていることを予測するべきだったかもしれない。簡素な小屋に入ってみると、中は三畳ほどの広さで、中央に約1メートルの赤い服を着た地蔵と、左に四体、右に三体の、赤ん坊ほどの大きさの地蔵が並んでいた。右端には立方体の墓標があり、それぞれに仏花が供えられている。8つの花束は戸塚ヨットでの死者数と一致していた。忘れずに献花している人がいるのだ。私は何となしに、これ以上死者が出たらもう地蔵を並べるスペースがないことを案じた。必要な数はまだ最後ではないと思えてならなかった。それにしても、このような慰霊所があるとわかっていたら、花ではなく別のものを用意していたかもしれない。花束は持っていたが、一束だけ中途半端にお供えするのも違うように思われた。少し迷ったが、元々の計画通り、やはり花は海に投げ入れることにした。ちょうど戸塚ヨットの脇の空き地は、腰ほどの高さの堤防から、眼下に海を見渡せる立地だ。手を合わせるならここでよいだろう。

 

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 空は濁っていたが雨は弱まっていた。私は傘をたたみ、仏花を堤防において、一応記録だけしておこうと思い、写真を撮った。海は雨あとのにごりが激しいために、濃い苔色になってよどんでいる。戸塚ヨットがあり、花があり、海があった。追悼の要素はそろっているはずだった。私は自分のために少し待ってみたが、何の感慨もわいてこなかった。体は濡れて重く、移動の疲れもあった。憂鬱と憤激と哀哭と無感情をないまぜにして、私はしばらくどうしていいか、目的を見失った。国道からはエンジン音が途切れることなく聞こえている。この道路がずっとうるさかった。「訓練生」は波音とエンジン音をずっと耳にしているのだろう。私はもう少し落ち着いた時間を過ごしたかったが、誰か人に見つかるのも嫌で、心が急いていた。

 

 私はやむなく花束を手にとった。そして腕を振り上げて、なるべく遠くへ飛ぶように海に投げ入れた。花束は早くもなく遅くもない速度で、音もせず海面に落ちた。私はしばらくのあいだ、流れるでもなく不動でもなく漂う花を見ていた。私はつかのま手を合わせたが、どうしても作り事の行為のようになってしまい、まったく集中できず、数秒でやめた。すぐに立ち去る気分でもなかったので、しかたなく海を見ながらたたずみ、時間を潰すために適当に写真を撮って、気力なく花束の行方を見ていた。仏花は沈むことなく、だんだんと沖合の方へ流れていくようだった。近くの浜辺に座礁して、汚く散らかるよりはよかった。私はやることをなくして、来たばかりの国道を戻っていった。

 

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で?

 タイミングの悪いことに、空は用事が終わってから晴れだし、淡いオパール模様の光が雲の隙間からたなびていた。雨の後で街の表面が艶めいている。私はすぐに帰るのもしゃくだったので、河和駅を通りすぎて周辺を適当に歩くことにした。通りがかりに見たヨット置き場や防波堤の景色は、テレビの戸塚ヨットの特集で見たことのある場所だった。戸塚氏やコーチたちが、「訓練生」に「体罰」をしていた現場だ。かつて悲鳴があがっていた地に、私はまったく感傷を起こさなかった。駅の通りを横切っていくと、歩道橋のあたりで七歳くらいの小学生たちがいた。二人ではしゃぎながら階段を降りており、楽しげにしている。彼らは戸塚ヨットの存在なんて聞かされないで学校に通っていることだろう。この土地で学校に行っていない子の心理には、あの場所がどんな影響を与えるだろうかと危惧したが、その思念もたいして続かなかった。

 

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 うろつきだしたものの、特に見たいものもやりたいこともない。「美浜町」というくらいなので浜辺は綺麗なはずだが、天気が荒れていたので期待できそうもなかった。また電車で引き返す他ないのだろう。名古屋にとった宿に着く頃には日が沈んでいるはずだ。いったい私のこの半日は何だったのか?予定通りの行程をこなしたのだから、もう少し満足してもよさそうなものだった。感傷的になって涙の一つでも流さないものかと思ったが、全然そんな気分にならない。むしろ不愉快さがつのり、私にはいきどおりさえ感じられてきた。
そもそも仏花の文化とは何だろうか。花というのは草の性器ではないか。さきほど自分のしたことは、追悼とまるで無関係なことのように思われてきた。私がやったのは、植物の性器を輪ゴムで束ねたものを、死体があるわけでもない海に投げ入れて、手を合わせたというだけだ。この嗜好は人間が編み出したなかでも相当の変態行為ではないか。右の手と左の手をあわせて数秒うつむいたところで、誰の何のたしになる?

 

喪に服している場合か?

 私はこの町に対する緊張が霧消し、急速にアホらしくさえなった。まるで深淵な遠路のように感じていたが、チタなど東京からの日帰りだって可能だ。その気になれば二往復だってできる。それに、この旅全体が不快なものだ。太陽が出ているのに大雨があり、雷の音だけして稲光は見えない。蒸しているのに服が濡れているせいで体が冷えていく。町は都会とも田舎ともいえない。海の町のはずなのに山がよく見え、堤防で海が見えず、潮の匂いが全然しない。静かに海の前でたたずむ時間になると思ったのに、国道の車通りが激しすぎて詩的な情緒もなかった。気楽さも哀哭も旅の味わいもなく、これまでの経験のなかで最悪の旅になっている。花代の480円も無駄だ。通りがかりのスーパーには380円の仏花があったので、それだけでも100円の損だった。だがどちらにせよ沈んでプランクトンまみれとなるにすぎない。太平洋に浮かぶ菊の花一輪のように、私は痛快なまでの無力さを感じた。学校に対する子供がそうであったように、戸塚ヨットが存在するこの社会に対して壮大に無力だ。

 

 たとえ石原慎太郎(※戸塚ヨットの代表的な支援者)氏が謝罪して大寺院を建てたところで、死者は還らないし、叫び一つ分も帳消しにできない。せめて正面の新築物件は霊標にすべきだと思うが、そうなったところで愛知教委の人事さえ変わらないだろう。この日本社会のガッコウをはじめとする「教育」体制は、こんな列島の切れ端で手を合わせていたところで微塵も動かない。私は痛烈にむなしくなった。暴力的支援団体よりも、ガッコウこそ多くの子供が亡くなってきたところではないか。毎年大量の「自殺」が報告されているが、あれは自ら死んでいるのではなく、環境によって殺されているというべきではないのだろうか。不可解な行事や校則に縛られ、小中高生の33万人が「潜在的不登校」(※通学が極度に苦痛な状態。「隠れ不登校」などとも言われる。)だという。問題なのは愛知県南東のビル一個ではなく、全国約3万校のガッコウではないか。今後も相変わらず、日本全国で子供は亡くなっていく。夏休み明けに自殺が増えるという統計結果がそうであるように、「教育」によって子供の命が絶たれていく。私はそれを忘れて、のこのこと愛知の端までやってきて、手など合わせていたのだ。私はこのチタで亡くなった人たちのことを忘れないし、悼みつづけるが、はるかに巨大で憐れむべきものが、現在進行形でこの国にあった。

 

もういい。

 私は半日をかけて、無駄で馬鹿々々しい、ひきこもりの暇人の、何もならない花の無駄遣いをした。これは感傷的で、自己憐憫のある、キザな、ナルシシズムの、マヌケな、一人遊びだった。また来ることがあるかもしれないが、今日のところは用事がない。私はとっとと帰るために駅へ戻り、停車中の名古屋本線に乗車した。座席に座って一息ついたところで、私はこの日はじめてすっきりした気持ちが湧きあがった。私が何をしようが、あの海はいつだって人を沈めるし、しけには船ごと沈ませるだろう。そしてこの平日も子供たちはガッコウ教育の体制下にある。私の哀哭がどれほど深かろうとも、知多湾にもガッコウにも一切の関係がない。戸塚ヨットもこの社会も、私が祈ったところで何も変わらないのだ。

 私は唐突に、生き延びていかなくてはならないと思った。この海に対する無力さのように、どうにもならない現実の中で生き延びていかねばならない。追悼だけではなく主張もしていかなければ、社会への影響も一切ないままだ。この無価値でどうしようもない、くだらなくて無意味な行為は、追悼とは別の効果で私に作用するようだった。私は私の日常に帰るばかりだ。時刻は夕方で、名鉄名古屋本線が走り出した。私をふり返らせるものは何もなかった。悲しみも闘いも続いていくが、この旅について語ることは、もういい。

 

 

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 執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)

 1987年生まれ。詩人・フリーライター。8歳からホームスクーラー(「不登校」)となり、ほぼ学校へ通わずに育った。約10年の「ひきこもり」を経験。20代の頃は、シューレ大学(NPO)で評論家の芹沢俊介氏に師事した。現在『不登校新聞』の「子ども若者編集部」メンバー。共著に『今こそ語ろう、それぞれのひきこもり』、著書に『詩集 ぼくはまなざしで自分を研いだ』がある。
Twitter https://twitter.com/ShinyaKikui

 

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