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道を歩くことができないほどの恥ずかしさ 〈歩行〉の哲学

今回は、〈歩くこと〉がテーマのエッセイです。孤立によって「外をうまく歩けなくなる」とはどういうことか。哲学的な当事者手記をお届けします。

 

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 街なかを歩いているときに、人の外見ではなく「歩き方」そのものに着目することはあまりないだろう。しかし「歩き方」は千差万別で、人それぞれに違った個性がある。

 

 先日のニュースで、大阪大学の研究チームが、人の「歩き方」によって個人を特定する技術を開発したという発表があった。
「指紋認証」や「顔認証」のように、人それぞれに固有の「歩き方」で識別ができるという。
これまでは監視カメラの角度の違いなどによって見分けることが難しかったが、AIのディープラーニング(深層学習)により、判別技術が飛躍的に向上した。
手の振りや足の振り方を比較し、個人を特定できる精度は96%にのぼるという。
監視カメラなどに搭載し、指名手配者の探知に用いられることが期待されている。

 

学習したAIから見れば、人の「歩き方」は顔や指紋と同じように、明確な個性であるらしい。
もっとも、人の目も、地域や文化によっては「歩き方」で個人を見分けている例がある。

 

 村上春樹の『遠い太鼓』という旅行記では、作家がイタリアへ行った際、ある村人が「歩き方」を見分けている記述がある。
自分たちの村と違って、ペスキエラという隣村の住人は、歩き方も考え方もまるで異なっている、となかば嘲笑するように話す。

自分たちとは世界観も人生観もまったく違う。特に歩き方が自分たちとは全然違う。へんなちょこちょことした歩き方をする、足が曲がっているんだ。だから、世界中どこに行ってもペスキエラの人間は見分けられると言う。

 個人の違いではなく、地域ごとの文化の違いが歩き方に表れており、一目見ただけで判別できるという。
顔や衣服ならある程度ごまかすことができるが、普段の「歩き方」は隠せない。
「自分が何者であるか」を道行く人のすべてに晒(さら)してしまうとしたら、買い物や散歩などのちょっとした外出にさえ、うすら寒い居心地の悪さを感じないだろうか。

 

 根本的すぎて取りざたされることもないが、歩行は危険な意味を生じうる。
「女性は夜に出歩いてはならない」とか、「子供だと入場できない場所」とか、歩くことそのものが問題になりえるし、精神面においても、歩行の困難さは日常に発生しうる。

 

 80年代にソニーの社長だった大賀典雄氏に、今でいう「パワハラ」のエピソードがある。
不振事業の責任者が廊下の真ん中を歩いているのを見て、「恥ずかしそうに端を歩け!」と怒鳴ったというのだ。
ただ「端を歩け」というのではなく、「恥ずかしそうに」という感情面での命令まで含まれている。
日本経済が最も好調だった時期の、大手企業のトップの話で、昭和的・男性的な価値観の一端が伝わってくるエピソードではないだろうか。

 

 私自身の体験だが、自分が社会から取り残され、孤立していると感じられているときには、「外を歩く」ことに困難が生じてくる。
自分がどんな顔をして、どんな身振りで街中を歩いていけばいいのか、正しいあり方がわからない。
ガードレールにはさまれた狭い歩道で、スーツ姿の若い会社員男性とすれ違うとしたら、私は間違いなく端によけて、その会社員をやりすごすだろう。

雨の日に人とすれ違うとき、劣等感にさいなまれていたなら、自分の側が傘をよける角度の傾斜は大きくなっている。
人を避けねばならないと思う斥力(せきりょく)が強いと、そもそも外に出ることがかなわない。
道を歩くことができないほどの恥ずかしさが、私には十代のころから心身に滞留していた。

 

 聞いたところによると、フランス語の「歩く(marcher マルシェ)」という言葉は、「(予想通りに)運んでいる」、「(ビジネスが)動く」、「(興行で)当たった」など、良い意味に使われるという。
そこからいくと、「うまく歩けない」というのは、人生の行き詰まりを意味する直接的な表現でさえある。

 

 詩人リルケが描いた『マルテの手記』では、パリをさ迷う孤独な若者が描かれていた。
苦悩する心理が精緻に編まれた作品だが、これが私には「うまく歩けない」者の物語に読める。
和訳では、最初の5行だけで「歩いて来た」「歩いていた」「歩いた」と、歩行の動詞が3回も出てくる。
作品では、詩作に「踏み出すことができない」恐怖や、子供のころの「足の痺(しび)れ」の記憶など、「うまく歩けない」記述がつづられていく。
詩人はパリの街をあてどなく彷徨しながら、その目は障害者や死者などをとらえ、歩道で急に倒れた男や、痙攣(けいれん)を起こした老人など、端的に「歩けない者」に注目している。

 本作のマルテは、現代の日本でいうなら「ひきこもり」的な精神を持っているが、「ひきこもり」的なものの原点には、「うまく歩けない者」の姿があるように思う。

 

 特定の社会病理や診断名と違い、「うまく歩けない」なんてわざわざ語られることもないが、むしろあたりまえすぎるからこそ、一度は注意深く検討され、重大さが共有されるべきではないだろうか。
うまく歩けるかどうかは深甚な意味をもっており、就職して金を稼ぐようになっても、社会的な地位を得ても、「うまく歩ける」ようになるとは限らない。

どうすれば「歩ける」ようになるのかを考えていくことは、私自身の課題を含めた孤立の問題に対して、短絡的でない、深いところからの解消策をみちびき出す手立てでありえる。

 

 

 

参照 /JCASTニュース「『歩く姿』認証、96%の確率で個人を特定」https://www.j-cast.com/2017/11/14313749.html?p=all/ロジェ=ポル・ドロワ著 『歩行する哲学』 ポプラ社 2018年/内田樹・安田登著 『変調「日本の古典」講義』 祥伝社 2017年/リルケ著 『マルテの手記』 大山定一訳 新潮社 1953年 

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文・写真 喜久井ヤシンきくい やしん)
1987年生まれ。20代半ばまで断続的な「ひきこもり」を経験している。
ツイッター 喜久井ヤシン (@ShinyaKikui) | Twitter 

 

 

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