ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

わたしが「生きづらさ」を感じるのは、人生から〈グレーゾーン〉がなくなったとき

(文 喜久井伸哉)

 

私が「生きづらさ」を感じるのは、人生の「グレーゾーン」が少ないときだ。

 

「学校に行くか行かないか」、「就職するかしないか」、「結婚しているかしていないか」。

はっきりした「白か黒か」の状態しか許されず、中間の選択肢がないとき、社会は窮屈になる。

 

もし私の「ひきこもり」の期間に、グレーゾーンを選べたら楽だったと思う。

たとえば「学校に行くか行かないか」だけでなく、フリースクールやホームエデュケーションを選べたなら。

「就職するかしないか」だけでなく、短時間勤務や専業主夫を選べたなら。

他の選択肢が闊達(かったつ)に認められていれば、もう少し自由な心持ちで暮らしていけただろう。

(そもそも学校や会社と、柔軟なかかわり方ができる社会ならいい、ということはあるにしても。)

 

「グレーゾーン」のなさについては、「ひきこもり」の古い当事者手記でもふれられている。

2001年に出版された、上山和樹の『「ひきこもり」だった僕から』という一冊だ。

 

『最近受けた指摘なのですが、「ひきこもりの人は『生きるか、死ぬか』という両極端しか知らない」。つまり、親の援助を受けたりしてなんとかやっている間は「生きる」が、それが行き詰まり、どうにもならないと見るや、突然「死ぬ」となる。

 「うまくいっていないが、でも踏んばる」という〈グレイゾーン〉が、経験されないままである、というわけです。

 この指摘には唸りました。確かにそうです。』

 

追い詰められたときは、物事の中間的な見え方が消え、「0か100か」の両極端になってしまう。

生き方からグラデーションがなくなってしまうのだ。

特に「ひきこもり」でいると、社会的な選択肢が狭まりやすかった。

 

グラデーションといえば、私は「多重人格」の話を思い出す。

一般的に、多重人格は一人の人間の中で、いくつもの人格が「増えて」しまった状態だと思われている。

だがある精神科医によれば、対照的な解釈ができるという。

人格が多重なのは、むしろ一般的に健康と見なされる人の方で、「多重人格」は、人格が少なくなった状態だ、という。

健康な人は人格のグラデーションが豊富で、相手に合わせて自分の人格を変えられる。

話しかける相手が、小さな子供なのか、目上の人なのか、職場の人なのか、親しい友人なのかで、めまぐるしく「自分」が変わる。

しかし多重人格者は、人格のグラデーションが欠損し、断片的な「自分」しか現れてこない。

それによって、人からは人格が「多重」になっているように見えるが、実際は、人格の「欠如」が起きている、とも考えられる。

 

私の「ひきこもり」の記憶でも、社会に対する、「自分」のグラデーションが奪われてしまっていたように思う。

自分にグレーゾーンを許さなかったために、物事との関係が、断片的にならざるをえなかった。

 

 

また、「ひきこもり」と「ニート」が分かれるのは、このグレーゾーンの密度の違いがあるだろう。

「働いていない」という点が同じでも、「ニート」の場合、中間的な暮らし方を選ぶことに、罪悪感が薄いのではないか。

短時間のアルバイトをしたり、友達と遊びに出かけたりして、自己採点で50点くらいの状態でも、「まあいいか」と思える余地がある。

(「余地がある」というのが、まさしくグレーゾーンを意味するかのようだ。居場所やサードプレイスのように、社会的にも心理的にも「余地」が多かったなら、私は少しだけ生きやすかっただろう。)

 

だが私の経験した「ひきこもり」の期間は、そのような中途半端が許せなかった。

「0点か100点か」、「白か黒か」の極端に分かれてしまう。

どちらかしかないと考えてしまう、二元論に浸っていたのだ。

精神科医の中井久夫が、患者の二元論的な思考について述べている。

『急性期の緊張病性興奮の人、興奮しておられる人たちは、だいたい「二つの勢力が相争っていてイヤなのに、それに巻き込まれて逃れられない」と感じていると思って間違いないです。

〔…〕

要するに世界全体が二つに分かれて闘っている。

「なぜ二つか」と人に聞かれたことがありますが、三つ以上の対立だと隠れるすき、つけこむすきがあるからでしょうか。「白か黒か」「敵か味方か」がいちばん逃げ隠れできない世界なのでしょうね。』(『こんなとき私はどうしていきたか』 医学書院 2007年)

 

精神が追い込まれた人の、世界の見え方について語られている。

同時に、これは外にある物事が「0か100か」「白か黒か」の選択を迫るとき、人の精神を追い込むという帰結についてでもあるだろう。

 

私は今でも、両極端な思考をしやすい。

そのため悩んだときには、「選択肢を三つ以上にすること」を心がけている。

たいていの場合は、どちらかではない方策がどこかにあるものだ。

 

これは自分だけでなく、周囲の人を判断するのにも使える。

「働くか働かないか」といった、両極端な判断を求める人がそばにいるようなら、あまりその人とその選択肢を、信じすぎるべきではないかもしれない。

反対に、「選択肢を三つ以上にする人」がそばにいるなら、おそらくその出会いは大切な意味を持つ。

議論においても、「AかBのどちらか」で考えさせ、それ意外の軸を重視していないようなら、深みに欠けやすいのではないだろうか。

私は二元論的な見方を強調する人や、物事を二項対立にして議論させたがる人を警戒する。

 

人が暮らしていく濃淡のある諸相は、単純な選択肢だけでは表せない。

「働くか働かないか」、「生きるか死ぬか」だけではなく、それ以外の、中間的な生き方のバリエーションが膨大にある。

グラデーションのある人が、グラデーションをもって過ごす社会で、私もまた、グラデーションをもって生きていきたいものだ。

 

 

 

 KIKUI Yashin 2022 / Photo by Pixabay
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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。
8歳から教育マイノリティ(「不登校」)となり、ほぼ学校へ通わずに育った。約10年程の「ひきこもり」を経験。20代の頃は、シューレ大学(NPO)で評論家の芹沢俊介氏に師事した。現在『不登校新聞』の「子ども若者編集部」メンバー。共著に『今こそ語ろう、それぞれのひきこもり』、著書に『詩集 ぼくはまなざしで自分を研いだ』がある。
Twitter https://twitter.com/ShinyaKikui