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ギャンブルでも人生でも、「もしかしたら」という悪性の希望が身を滅ぼす

(文 喜久井伸哉 / 画像 Pixabay)

 

人がギャンブルにハマるのは、「うまくいく」からではない。

「うまくいくかもしれない」からだ。

 

ボロボロに負けても、「次はうまくいくかもしれない」と思えるせいで、欲望が立ち切れなくなる。

ゲームの勝敗にしても、アプリの「ガチャ」にしてもそうだ。

人生にはあちこちに、ギャンブルのような「~かもしれない」の魔力がある。

 

「不登校」も例外ではない。

親が「不登校」で悩むのは、厳密にいうと、子供が学校に「行けない」せいではない。

学校に「行けるかもしれない」せいだ。

はっきりとした病気や、公的な手続き上の理由で、絶対的に「行けない」のであれば、それは「悩み」にならない。

「行けない」という事実に対して、現実に即した判断を下すだけだ。

しかし子供が「行けるかもしれない」状態でふわふわしていると、親は登校の可能性を捨てきれず、「改善」策を模索し、ワラにもすがる思いで、無用な取り組みをしてしまう。

「もしかしたら」という思いが悪性の希望となって、親子関係をこじらせるのだ。

ギャンブル依存とは比べられないにしても、親の言動にはどこか、「登校圧力への依存」めいたものが生じているように思う。

 

子供への心配が膨らむと、時には信憑性の低い方策にも手を出し、「賭け」に出てしまうことがある。

ひきこもりで悩んでいる場合、「引き出し魔」がそれにあたるだろう。

子供のひきこもりに対して、親は「立ち直れるかもしれない」、「元気に働けるようになってくれるかもしれない」などと考える。

(「なおる」という言い方の有害さについては、ここでは置いておくとして。)

本来なら検討に値しないことでも、追い詰められていると、「この方法しかない」と思い込み、「引き出し魔」にすがるような「賭け」に出てしまう。

しかし、冷静さを欠いたやけっぱちの判断で、複雑な物事がうまくいくはずもない。

 

とはいえ、私のような「ひきこもり」当事者にしても、現状に対する「賭け」に期待するような心理がある。

人生を「一発大逆転」させなければ、とてもではないが、同世代の人々には追いつけないと思えるせいだ。

就学や就労が手遅れなら、「地道に」、「コツコツと」やっていたのでは間に合わない。

閉塞的な状況を打破するためには、大きな「賭け」に出ねばならないのではないか。

そうして「今すぐに決断せねばならない」と考え、持続的な習慣の獲得や、穏当で長期的な思考を、ズタズタにさせてしまうのだ。

 

「一発逆転」的な心理は、世の中の粗雑な広告にも表れている。

「たった〇分で30万稼げる!」「あっという間に痩せる!」「これを買うだけで運がめぐってくる!」……。

すべてが劇的に変化するかのように広告するのは、「一発逆転」を狙う、ギャンブル的な思考に憧れる人が、それだけ多くいるためだろう。

 

(私がひどく孤独だったとき、時間をとらえるピントが合わなくなっていた。視野狭窄(しやきょうさく)というよりも、時間に対する極度の遠視のようなものが生じ、「現在」がうまくとらえられなかったのだ。そのため落ち込んでいる時は、特に浅薄な広告が目に入りやすかった。)

 

 

引きこもりをとらえた『HOME(ホーム)』のラストシーンにも、「賭け」の決行が映っていた。

『HOME』は、映画監督志望の弟が、引きこもっていた兄を撮影したドキュメンタリー映画だ。

兄は最後に至って、撮影のことも家のことも放り出し、唐突に行方をくらませる。

実家以外あてはないはずで、ホームレスになったのか、どこかで働き出したのか、行き先はわからない。

映画そのものが、断ち切られて終わってしまう。

これはかなり危ない「賭け」だった。

しかし映画の公開から十年以上が経って、私はこの「兄」を見たことがある。

ひきこもりの講演会に登場し、熱狂的なスピーチをしていたのだ。

映画では描かれていないが、少なくとも舞台上では、命懸けの「賭け」に「勝った」人であるらしい。

 

ギャンブル的な思考という点では、勝山実さんの話も思い出す。

勝山さんは自身の体験を元にした『ひきこもりカレンダー』などを出版し、「ひきこもり名人」を自称している。

これは何年も前に聞いた話だ。

学生時代の勝山さんは、大学を受験したものの、落第してしまい、浪人生となる。

勉強をして一年を過ごすのだから、同じ大学を受験すれば、合格の確率は高くなるだろう。

しかし勝山さんは、「一浪したのなら、より上の大学に入らねばならない」と考えて、前年よりも偏差値の高い大学を受験。

そして、そのせいでまた落第してしまう。

二年目の浪人生活に入り、元の志望校を受けるのであれば、今度こそ合格できたかもしれない。

しかしまたしても、勝山さんは「さらに上の大学に入らねばならない」と考え、偏差値の高い大学を受験。

再び落第してしまったという。

勝山さんはとがったユーモアセンスの持ち主なので、これはあくまで笑い話として語られていた。

実際は、相当にきつい体験であったことだろう。

 

「大きなマイナスは、大きなプラスで取り返さねばならない」。そんな心理が私にもある。

カジノのようなギャンブルでも、確率的には、冷静に少額ずつ賭けていく方が、コインを貯めやすい。

だが、大きく負けた分は大きく勝って、「早く損失を取り戻したい」と思う人間心理がある。

そうして、余計に大きな負けが込んでいき、取り返せないほどの負債を背負い込んでしまう。

 

私は今でもこの人生で、大きな「賭け」に出ねばならないような焦りがくすぶっている。

一枚のコインを賭けて、二枚のコインを得るような賭け方では悠長すぎるのだ。

あらんかぎりの手持ちのコインを賭けて、一刻も早く人生のマイナスを帳消しにし、勝負をやり直しにしてみたい。そうでなければ、自分の落ち切った境遇がみじめすぎるように思えて。

 

 


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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。8歳から教育マイノリティ(「不登校」)となり、ほぼ学校へ通わずに育った。約10年程の「ひきこもり」を経験。20代の頃は、シューレ大学(NPO)で評論家の芹沢俊介氏に師事した。現在『不登校新聞』の「子ども若者編集部」メンバー。共著に『今こそ語ろう、それぞれのひきこもり』、著書に『詩集 ぼくはまなざしで自分を研いだ』がある。
Twitter https://twitter.com/ShinyaKikui