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「子どものことがわからない」理由は〇〇にある わたしが親にしてほしかったこと

(文 喜久井伸哉)

 

「子どものことがわからない」とき、親はどうすればいいのでしょうか。今回は不登校とひきこもりの経験者が、「親にしてほしかったこと」を伝えます。

 

 

そもそも「わかる」ことが不思議

「子どものことがわからない」という親御さんの声があります。

子どもに「不登校」や「ひきこもり」が起き、先行きが見通せなくなることは、強い不安が起こることでしょう。

何を考えて過ごしているのか、将来はいったいどうなるのか。親子関係に悩みは尽きません。

 

しかし「わからない」という前に、そもそも「わかる」とはどのようなことなのでしょうか。

私たちは普段、すべての物事を「わかって」暮らしているわけではありません。

周りの人が何を考えて、毎日をどのように過ごしているのか。スマホの仕組みや製造過程はどうなっているのか。私を含めほとんど人は、深く理解することなく過ごしています。

たとえばコンセントはありふれたものですが、正式名称を「配線用差込接続器」と言い、「コールド」という右の穴よりも、「ホット」と呼ばれる左の穴の方が大きい、という特徴があります。

これが「わからない」ところで、日常生活に支障はありません。

自分にとって重大な問題となったときに、「わからない」という動揺が起きます。

 

親にとって子どもは、「わかる」か「わからない」かを超越した存在だったはずです。

妊娠期間中は言うまでもなく、赤ん坊を「別の人格を持った他人だ」とは考えにくい。

幼いころは、意識の流れを考え、じっくり話を聞くことで内面が「わかる」ということもなかったでしょう。

それが成長し、自然と将来の予測を立てていくなかで、いつのまにか強烈な「わからない」が発生していきます。

いちいちわかりあう必要のなかった関係が、理解したり熟慮したりせねばならない関係に変わっている。

親子関係では、子どもと向き合って「わかる」状態を維持しなければならないことに、すでにある種の事件性が含まれているのかもしれません。

子どもが「わからない」という以前に、そもそも「わかる」と思えていたことが不思議です。

別の人格を持つ他人の内情が、自然に「わかる」必要すらない状態だったことが、そもそも例外的な事態だったといえるでしょう。

 

 

「わからない」というより「納得できない」のでは

子どもが学校に行ったり遊びに行ったりして、「ふつう」に過ごしていると思えていれば、詳細のわからないことは問題になりません。

しかし学校に行かなかったり、引きこもったりすると、とたんに「わからない」存在に変わります。

元々意思疎通が少なく、子どもの情報が足りていなかったとしても、「問題」によって「わからない」感覚が生まれている。

だとしたら、これは「わからない」というよりも、「納得がいかない」というべき事態ではないでしょうか。

 

「不登校」でも「ひきこもり」でも、すぐに「原因」が問われます。

なぜそうなったのか、何をすればよいのか、どうすれば「解決」できるのか。

それらが問われるのは、足りない情報をおぎなうだけでなく、納得するための材料が欲しいということでもありそうです。

不安な親にとっては、いくら本を読んで知識を集めても、「わかる」=「納得できる」とは限りません。

教育や心理の専門家でも、自分の子どものことが「わかる」=「納得できる」わけではないでしょう。

子どものことで居ても立っても居られず、どうにも落ち着かない状態になってしまう。それを何とかしたい。

 

親子関係のオチが着かない

「納得できる」ことは、慣用句で「腑に落ちる」ことともいえます。

「落ち着く」とも重なりますが、もやもやした気持ちが身に落とし込まれ、不安定な心理の収拾がつく、といったニュアンスです。

(かつては否定形で、「腑に落ちない」と使うのが正しかったという説があります。)

「落語」に「落ちる」という字を用いるのは、この感覚に由来しています。

どのような結末になるか分からない物語があり、最後まで話を聞くことで、「ああ なるほど」と納得する。

事態が腑に落ちてくる。それを「落とし噺(おとしばなし)」といい、「落語」の語源になりました。

漫才やバラエティ番組で使われる、「オチ」という俗語も同じルーツです。

「オチが着く」ことで話の全体がわかり、「落ち着ける」ようになるわけです。

 

「わからない」ことに対して原因を問いただすのは、「落としどころ」はどこか、どんな「落としまえ」をつけられるのか、といった模索なのでしょう。

「不登校」や「ひきこもり」によって、ふつうに学校に行くことや、わかりやすく就職するという物語が、子どもから消えてしまった。展開や結末がわからなくなり、納得がいかない。そこで、落ち着けるためのオチが欲しい、という心境です。

 

親には「理解」より「納得」をしてほしかった

一般的によく求められる物語は、わかりやすいハッピーエンドです。

「不登校でも成功できた」、「ひきこもりを脱して働き始めた」、といった結末(オチ)です。

ハッピーエンドは、世間的に理解しやすい=納得しやすい話でもあるでしょう。

 

しかしその理解=納得の仕方は、「不登校」と「ひきこもり」を経験した私にとって、危険性を孕んでいます。

実体験として言いますが、親が納得するための条件と、うまくいっていない自分の境遇は、どうしても解離してしまうものです。

いくら自分なりに考え、できる限りの努力をしていても、それが親の納得のいかない状態である限り、「わたしはこのままでいい」と思えなくなります。

本当なら子どもが自ら歩んで行ける道のりであっても、親が納得していないことで、自力で歩んでいく力が削がれてしまう。

 

私は親に、自分のあり方を「納得」してほしかったと思います。

ほとんどの物事には、はっきりした「原因」と「解決」がありません。

ミステリードラマの結末や、クイズ番組の答えのような「オチ」は、現実には見つけ難いものです。

無理して「理解」を目指すよりも、「しかたないけれど、これも一つの生き方かもしれない」と受容するような、「納得」はできないものでしょうか。

 

親の中には、親の会に参加して何気ない会話をすることで、気持ちの整理がついたという人がいます。

専門家の難解な本を読むよりも、似た境遇にある人の話を聞くことで、わだかまりが溶けていくのです。

これは頭で「理解」するための情報だけでなく、身で「納得」するための、生理的な胆力がはたらいたためではないでしょうか。

 

こう言うと要約のしすぎかもしれませんが、「理解できたが納得していない」という親よりも、「理解できないが納得している」という親のいる方が、子どもとしては家の居心地が良くなるものです。

親が思い詰めているよりも、「気持ちはよくわからないけれど、なるようになるだろう」と、どっしり構えていてくれた方が良い。

親が落ち着いていれば、子どもには間違いなく良い影響があります。

今目の前で起きていることは、親にとって苦しい事態ではあるでしょう。

子どもの将来に対して思い描いた、理想的な物語(オチ)とはいきません。

しかし事態を受け入れることで、今日一日を「まあいいか」と思えるような、納得による落としどころを、どこかに見いだすことはできないでしょうか。

 

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000