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私が引きこもっているとき親にどうしてほしかったか 「わからない」をこなすためのネガティブケイパビリティ

(文 喜久井伸哉)

「子どものことがわからない」とき、親はどうすればいいのでしょうか。今回は不登校とひきこもりの経験者が、「親にしてほしかったこと」を伝えます。

 

「寄り添う」だけでいいのか

子どもが引きこもっているとき、多くの親は、どうしたらいいのかわからなくなります。

安易な「原因」を求めたり、子どもにきつく当たったりすることもあるかもしれません。

市販の解説書を手に取る人も多いでしょう。

教育者や精神科医は、「どうすればいいのか」という親の声に応じて、あれこれの「解決策」を書きつづっています。

そこには、「寄り添いましょう」、「待ってみましょう」といった穏当なものもあれば、

「刺激を与えるべきだ」、「無理にでも就労させるべきだ」といった、不安が増すような主張もあります。

中には、強引に引き出すべきだという主張を見つけるかもしれません。しかしそれは暴論というべき、極めて浅薄で危険な判断です。

 

私は、自分自身が親の悩みの原点でした。

幼少期から学校への通学がなく、また「ひきこもり」の時期もありました。

私からすると、「こうすればいい」というQ&A式の回答は、総じて納得のいきかねるものです。

「寄り添いましょう」、「待ってみましょう」という主張も、間違ってはいないのですが、親がよほど寛大で受容的な態度でいなければ、なかば放任になりかねません。

「子どもの話をよく聞いてあげましょう」という回答もあります。

これも正しくはあるのですが、「原因」を探るために「聞く」姿勢ばかりだとしたら、子どもの負担が大きすぎます。

子どもに限らず、苦しいときには言語化がうまくできません。

話を聞こうとする親に対して、子どもの側が「うまく話せない」という自責になりかねない部分があります。

それぞれの回答が間違っているわけではないのですが、私が子どもの立場でしてほしかったかというと、必ずしもそうとはいえません。

 

本当は「答え」が出ないことばかり

入門書や解説書は、その性質上、なんらかの「答え」を出す必要があります。

しかしそもそも悩みになるのは、「答え」が容易に見つけられない事柄です。

テストで用意される「問題」と違い、人と人との関係にQ&Aは向きません。

「問題への対処法がわからない」という語法は一般的ですが、定義的な意味からすると、「問題」そのものが「対処法のわからないこと」を指しているといえるでしょう。

言葉の一部だけをとらえるなら、「『答えが出ないこと』の答えは何か」を聞いてしまっています。

 

少々うがった見方ですが、「寄り添いましょう」や「待ってみましょう」といった「答え」は、明瞭な解答ができないことを、専門家の態度を保ったまま言葉にした結果のようにも思えます。

(それに現代の日本語では、「寄り添うことが大切」、「聞く力を持つ」、「丁寧な議論が必要」といった表現が、実質的に「無回答」のヴァリエーションとして機能しています。)

 

私としては、「どうすればいいのか」という親の問いかけに対して、わからないことそのものを答えとする構えが、確保されてもよいのではないかと思います。

「親はどうしたらいいのか」、という悩みに対して、そのまま、うろたえて、動揺して、困って、悩み、考えて、堂々と「わからない」でいたらいいのではないか、と考えます。

これは真面目に悩んでいる親からすれば、「何てことを言うんだ」と怒られる話でしょう。

教育者や精神科医の立場では、なかなかできない主張です。

しかしぶしつけではあるにせよ、暴論ではないのです。

 

ネガティブ・ケイパビリティ 「わからない」をこなす力

「ネガティブケイパビリティ negative capabil-ity」という言葉があります。

19世紀の英国の詩人、キーツの残した言葉で、「負の能力」などと訳されます。

「不確かさ、不思議さ、疑いの中にあって、早く事実や理由を掴もうとせず、そこに居続けられる能力」を指します。

キーツはシェイクスピアを論じた際に、「詩人が外界に対して有すべき能力」として、このネガティブケイパビリティを語りました。

 

「問題」が起きたときに、多くの人はすぐに「原因」を求めます。

殺人事件のニュースでも、すぐに犯人の動機が報じられ、なぜ悲劇が起きてしまったのかという疑問への「答え」が、短い報道のなかで伝えられます。

しかし本来、劇的な事件や人間の情念が渦巻いているとき、心理的な機微が一言で「答え」になるはずがありません。

ネガティブケイパビリティのある人は、「問題」に立ち止まります。

物事を疑い、安易な言葉にせず、表現を探り、結論を留保して、どこまでも追及していく。

ネガティブケイパビリティの概念は、「わかる」か「わからない」かが観点になるわけではありません。

しかし「『わからない』ことに耐える力」という一面があるのではないかと思います。

この概念は、医師と患者の関係において重要性が指摘されており、ケアの分野に影響しています。

 

世の中は答えを急ぎすぎている

作家で精神科医の帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)は、『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(朝日新聞出版 2017年)を著しています。

そこでは現代において、ネガティブケイパビリティとは反対の、ポジティブケイパビリティが重視されていることが指摘されています。

もっとも身近な例は学校教育です。

テストの「問題」には必ず定まった「答え」があり、時間内で正確に、連続して答えていく能力を高めねばなりません。

ネガティブケイパビリティが「『わからない」力』だとしたら、即座に「『わかる』力」が求められすぎているわけです。

これは私見ですが、生徒だけでなく教師の側も、「わからない」ことが有害になっているのではないでしょうか。

生徒からの質問があったとき、ほがらかに「わからない」と答えられるのは、日本の教師のモデルとしては想像しがたいものです。

教育の理想としては、「私もわからないから 一緒に考えていこう」という態度こそ、モデルになってほしいと思います。

引いては、大人が余裕を持って「わからない」でいる態度が、この社会で「問題」を持久しやすくなることにもつながるでしょう。

 

余談になりますが、私はクイズ番組が苦手です。

テンポの速い番組だと、強迫的な忙しさを感じてしまい、見ているのが恐いくらいです。

次から次へと問題が出ては、猛烈な速度で「正解」が出され、即座に次の問題へ移り、また「正解」が出されていく、という運動には、異様な切迫感が宿っています。

おそらく「わかる」ことの優美さよりも、間違いを切り捨てて振り返らない、「わからない」ことへの乱暴さを感じてしまうのでしょう。

クイズ番組の興隆には、「『わかる』力」の爽快感だけでなく、「『わからない』を否定する力」の嗜虐性があるのではないでしょうか。

 

わからなさを積極的に維持する

親と子の関係にあっては、わからなさを積極的に維持できるだけの、ネガティブケイパビリティがあってほしいと思います。

現代社会では、「問題」を素早く理解し、即時対応することで、次々と「解答」していくことが良しとされます。

親は不安の渦中にあると、「ひきこもり」の子どもに対して、即効性のある決断をしたくなるかもしれません。

ですが、そこで拙速な解決策に傾くのではなく、むしろ不安なまま、動揺し、わからないでいる不安定な状況を常態にできないでしょうか。

簡易な解答に飛びつくのではなく、堂々と「わからない」でいるのです。

 

「不登校」について、文科省が21年に発表した調査(※「不登校児童生徒の実態把握に関する調査報告書」2021年10月発表)があります。

その設問の一つで、欠席の多かった子供に「どのようなことがあれば休まなかったと思うか」を尋ねました。

もっとも多く選ばれた項目は、「特になし」でした。

半数を超える、50%以上の子どもが選択しています。

「学校の先生からの声かけ」や「学校にいるカウンセラーと会って話をすること」という項目もありましたが、これらを選んだ子は10%以下でした。

先生から声をかけられることや、カウンセラーと相談することがあっても、ほとんどの子は欠席の結果が変わらなかったと思っているのです。

 

私自身、「不登校」と「ひきこもり」の時期に、親に何をしてほしかったかといえば、「何もしないこと」をしてほしかった、という感慨があります。

今振り返ってみて、この「何もしない」ことの内実を強いて言葉にすれば、「ネガティブケイパビリティがほしかった」になるでしょう。

無理に特定の「解決策」をとって、親子関係がぎくしゃくするよりも、はっきりした手立てがとれず、悩みつづける状態そのものを、ある種の「答え」とするのです。

親や大人たちの成熟した人間の仕事には、子どもを前にして「どうしたらいいかわからない」ことに、そのまま踏みとどまっているという営為もあるのではないでしょうか。

結論や、解答や、解決ではなく、わからないことをわからないままでとらえ、腰を据えて向き合っていく力です。

それは結果として、「ひきこもり」の内情の一部分を、親の立場で「わかる」態度につながっていくように思います。

 

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000