めちゃくちゃな形にぐちゃぐちゃな絵の具……〈現代アート〉っていったい何?なぜ「わからない」作品を作っているのか?どうして高額な値段がつくのか?今回は「わからなさ」をテーマにした〈現代アート〉入門をお届けします。
現代アートが「わからない」のはなぜ?
- ポイント① そもそも楽しませるために作られていない
- ポイント② 「美術品」ではなく「知術品」を作っている
- ポイント③ むしろ「わからない」ものを作っている
- ポイント④ 本当は「わからない」のではなくちょっとだけ「わかって」しまっている
- ポイント⑤ 作品は「答え」ではなく「問い」を求めている
- 最後に
ポイント① そもそも楽しませるために作られていない
遊園地や、サーカスや、スポーツの観戦会場は、人を楽しませるためにあります。
お金を払って来てくれた「お客様」へのサービスがあり、面白さを「わかりやすく」伝えるための趣向が凝らされています。
見どころが「わからない」なんてことがあれば、サービスとしては大失敗でしょう。
一方、現代アートを展示する美術館は、人を楽しませるためにあるとは限りません。
ある意味では、わざわざお金を払って見に行くにもかかわらず、「わからないもの」=「サービス精神のないもの」を観せられる場所なのです。
美術館ではアニメや漫画の原画展のように、親子連れやデート向きの展示もおこなわれていますが、現代アートとは種類が違うと言ってよいでしょう。
あるアーティストは、『私は人を不快にさせるために制作しているのだ』と言い切りました。
現代アートは、綺麗なオブジェを作って人に見せることや、面白そうなオモチャを作ることとは性質が違います。
たんに楽しませることよりも、見る人が深く考えてしまうような作品が評価されています。
ポイント② 「美術品」ではなく「知術品」を作っている
「美術品」といえば、綺麗に描かれた絵画や、高い技術で作られた工芸品がイメージしやすいでしょう。
「美術」という文字の通り、「美」のための「術」が尽くされた作品です。
しかし、多くの現代アートは「美しい」わけではありません。
評論家の古崎哲哉は、『現代アートは「美術」ではなく「知術」だ』と言っています。
一目見て「きれい!」と思う作品より、よく見て、よく感じることに、現代アートの魅力があります。
私自身、「美術館」に行くときには、「博物館」ならぬ「知術館」に行く感覚があります。
「目で味わう哲学書」といった趣があるのです。
特にアートの歴史を踏まえて作られた作品だと、頭をはたらかせなければなりません。
慣れれば気軽に楽しるのですが、多くの人の「わからなさ」を強めている要因でもあります。
(それに、どこか偉そうな感じを与える原因でもあるでしょう。)
先日、鳥取で「ただの箱に3億円」というニュースがありました。
鳥取美術館がアンディ・ウォーホル作の「ブリロの箱」という作品を、3億円で購入していたという報道です。
多額の税金を使って買ったアートですが、見た目が素朴な(あけすけに言えばゴミのような)作品だったため、批判が起きてしまいました。
たしかに、何も知らないで見ると「ただの箱じゃん」で終わりでしょう。
たとえば国宝の「八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)」のような「箱」と比べると、まったく「美しい」ものではありません。
ウォーホルの「箱」には、市民から「どこが美しいのかわからない」という批判が来たそうですが、見た目はそのとおりなのです。
しかし「ポップアート」や「20世紀のアート史」を知っていると、これも偉大な「知術」品と言えます。
現代アートの中には、マイノリティへのインタビュー映像が流れていたり、冊子型の資料を読まねばならなかったりする「作品」もあります。
それらはもはや「美術品の展示会場」というより、問題を議論するための「研究発表会場」のような雰囲気です。
これも「美術」ではなく、「知術」を見せているためでしょう。
ポイント③ むしろ「わからない」ものを作っている
昨今のベストセラーは、「1ページでわかる」「3分でわかる」「マンガでわかる」など、即効性のある「わかりやすさ」を売りにしています。
今の世の中では、「わからない」ことや「時間のかかること」が悪も同然であるかのようです。
ですが現代アートの世界では、手軽に「わかる」ことに価値はありません。
「わからない」にも種類があります。
一つは、たんに情報量が多かったり、説明されることが複雑すぎるせいで、「わかる」までが大変なこと。
もう一つは、普段の自分の言葉や考え方から逸脱してしまっているせいで、うまく受け止められないことです。
アートについてではありませんが、精神科医の小澤勲は、『「わからない」というのは「わかると困る」ということなのだ』と言いました。
たとえば「学校に行く」ことや「(異性と)結婚する」ことは一般常識であり、「わからない」ことはないでしょう。
それに対して、「不登校」や同性愛は、必ずしも「わかる」ものではありません。
半世紀前はどちらも「病気」とされ、一般の人にとっては、わかろうとする対象でさえありませんでした。
今の社会では、「不登校」や同性愛の当事者が声をあげており、情報だけならたくさんあります。
知識として「わかる」ための材料ならあるのです。
しかしそれらの考え方や生き方を納得して、すべて受けとめられるかどうかという点では、「わからない」人も多くいます。
ひとたびわかろうとすると、これまでの自分という人間性や、人生で信じてきたことが変わってしまい、何かが終わってしまうような危機感が生じるせいでしょう。
同性婚の場合、反対派は「社会が変わってしまう」、「慎重な議論が必要」などと言います。
個人的には、同性婚をする人がいたところで、しない人の生活に実害があるわけではないため、本当に「社会が変わってしまう」かどうかは疑問です。
おそらく同性婚の反対派が必要としているのは、情報や知識を集めて「わかる」ための時間ではなく、自身が納得して折り合いをつけられるだけの、「わかる」ための時間なのでしょう。
現代アートの「わからなさ」は、社会的に受け入れがたいものの「わからなさ」と重なりやすいものです。
仮に「学校」や「結婚」を表現したアート作品が、「わけのわからない」ものだったとしても、それは「わかる」に「わからない」がぶつかることで、新たな見方を生む力を秘めているのです。
画家のゲルハルト・リヒターは、『優れた絵画は理解できない。理解不能性の創造』と言いました。
(リヒターは、絵が30億円くらいで売れるすごいお爺さんです。)
アーティストは自ら率先して、「わからない」ものを作っているといえます。
極端に言えば、「理解できるならアートではない」とさえ言えるのかもしれません。
ポイント④ 本当は「わからない」のではなくちょっとだけ「わかって」しまっている
現代アート以外でも、前衛的な試みはすぐに「わからない」と言われてしまいます。
現代詩を例にとると、文章が意味不明になりやすく、小説と比べて人気がありません。
しかしどんな詩でも、書かれている言葉のすべてが「わからない」わけではないでしょう。
これは思想家の佐々木中の指摘ですが、「わからない」のではなく、「ちょっとだけわかってしまう」ところに、前衛的な作品を味わうこわさがあります。
それこそ、アラビア語やギリシャ語のような外国語で書かれていたら、内容が「わからない」以前の問題です。
図形として「見る」ことしかできず、「読む」ことさえできません。
ですが日本語で書かれているために、すべての単語が何らかの意味を持ちます。
どんな文章であっても、必ず「わかる」部分が生まれてしまう。
現代アートも同様で、すべてが「わからない」ことはできません。
少なくともそれがどれくらいの大きさで、どのような素材や色で、どのような形であるのかは、目で見える分「わかる」ものになっています。
そのため、作品が他の何かに見えたり、まったく違うものを連想する可能性を秘めています。
むしろ「わからない」部分が多ければ多いほど、「わかる」につづく道が、さまざまな方向に広く開かれているといえます。
ポイント⑤ 作品は「答え」ではなく「問い」を求めている
私が現代アートに感じる面白さは、作品に向かって「どんな意味があるのか」と問うことではありません。
むしろ、自分に向かって「どんな意味にするのか?」と、作品の側から問われるところにあります。
多くの解説書が出版されていますが、楽しむうえでは、私はあまり参考にしていません。
作品に対して、「これが正しい見方だ」と決められることは、アートの楽しさから遠のいてしまうように感じます。
現代アートには、学校のテストやクイズ番組のような、決まった「正解」がないのです。
先ほどアンディ・ウォーホルの「箱」についてふれました。ウォーホルは、解説によれば「大量消費社会を表現した」とか「現代のネット社会を予見していた」などと評価されています。
それは「わかる」知識としては「正解」なのでしょう。
しかし、現代アートの「わからなさ」を楽しむにあたっては、知識を前提とすることが「間違い」でさえあります。
間に合わせの「わかる」よりも、自分なりの「わからなさ」に没頭できることが、現代アートの本領だと思います。
最後に
現代アートには、自由があります。
学校や、会社や、結婚のように、世の中の常識とされていることが、自分にあてはまらなくとも。多くの人があたりまえにおこなっていることが、自分にはどうしてもあたりまえにできなくとも。
私にとって、社会の価値観や「正解」にとらわれない作品は、自分を慰め、励ますものでした。
通俗的な「わかりやすさ」にくじけず、この社会で生き延びられるだけの力を与えてくれたのが、私にとっての現代アートです。
ご覧いただきありがとうございました。
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。八歳からホームスクール(「不登校」)だったため、学校に行った回数より美術館に行った回数の方が多い。普段は自作の現代詩が人から「わからない」と言われている。
ブログ https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000