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「ひきこもりと少子化を考える」第2回 ミクロな視点からの仰望

「子どもが少なくなった時代の中央通り」by ぼそっと池井多 on Leonardo.ai

・・・第1回からのつづき

www.hikipos.info

文・ぼそっと池井多

 

今回からはミクロな視点で

このシリーズの前回、第1回を今年2月23日に配信したときは、このシリーズは2回で終えるつもりだったから「第1回」ではなく「前篇」とした。

ところが「後篇」を執筆していくにつれ、とても全2回に収められる問題ではないと気がついた。あとで詳しく述べるように、この書為エクリテュールは私にとって「少子化をめぐる当事者手記」、あるいは「少子化を軸とした当事者研究」にならざるをえないからである。

そのため前回「前篇」を「第1回」に改訂し、今回は「第2回」として、今後も複数回の連載が可能なようにシリーズ全体の構成を変更させていただいた。


前回、第1回では、日本の社会問題となっている少子化という現象をマクロな観点から眺めてみた。

そこでは少子化問題の専門家とされるタレント教授などが述べている、
「バブルがはじけ、就職氷河期が始まり、日本社会の格差が広がって、若年層が貧しくなったから少子化になった」
という通説は、じつは裏づけるエビデンスがなく、事実から乖離しているということがおわかりいただけたと思う。


そのような前回のマクロな俯瞰とは対極的に、今回からはミクロな視点から見上げるかたちで少子化を考えてみたい。

マクロな視点は必然的にパブリックな俯瞰になるが、ミクロな視点は個人ごとに異なるから、当然それは記述する者のパーソナルな語りにならざるをえない。つまり、それは
「なぜ ”私” は子どもをつくらないか」
を誠実に語り重ねていくことになるのだ。


だから、これは当事者手記であり当事者研究でもある。
そしてそれは本シリーズ第1回に述べたとおり、
「ひきこもりと少子化は地続きの現象である」
という私の持論をさまざまな角度から裏づけていく作業にもなることだろう。

 

自分の遺伝子を残したくない者はいない?

最近、ツイッター上である対話があった。
公開投稿によるものであり、私にとって学びの多い対話だったので、その全編をここにご紹介したい。ただし、別々の日にスクリーンショットした画像を時系列につなげたものなので、表示されている日時には矛盾があるように見えるかもしれない。赤線部はのちに私が引いたものである。画質の悪さはご容赦いただきたい。

 

 

 

 

議論が噛み合っていない部分も多いが、要するにこの論者、ポン削郎さんは

ひきこもりの哀しみの中心にあるのは「子孫を残せない」ということである

と考えておられ、またその思考の根拠は、

1.人はみな自分の子孫をこの世に残したいものである。

2.ゆえに、ひきこもりもみな子どもを持ちたいが、ひきこもりで子どもを持てている人はいない。

という2つの認識によるものであるらしい。


そんなふうに考えている人は、もしかしたら世の中に多いのかもしれない。
だから、ここはていねいな検討が必要となる。

まずひきこもりでも子どもやパートナーがいる人がけっこう多いという事実は、あちこちの自治体の調査結果などを見れば明らかであるから、わざわざ私が述べることもないだろう。ここで私が述べるべきは「1.」の方である。

 

自分の責任で一人の人間存在を世界に送り出せるか

私は、若い頃から一貫して自分の子どもを持ちたいと思ったことがない。

そのために多くの破局を味わってきたから、そこで嘘をついては犠牲にした関係が報われないのである。


前回も書かせていただいたように、中学高校と男子校で育った私は、女性との距離の取り方がわからず、20代までは非モテ系男子であったものの、やがてこんな私にも「あなたの子がほしい」などと言ってくれるような奇特な女性が人生に現われることもあった。だが、私はどうしてもその希望を叶えてあげることはできなかった。私は彼女たちを不幸にしたと謗られても仕方がない。

しかし私は、わが子という、私とは異なる現存在でありながら、その出現には私がほぼ全的な責任を負わざるをえない存在を、私の意思でこの世界に送り出すということの重圧に耐えられなかったのである。

そこに私の成育歴、とくに母親との関係の病的な痕跡を読み取るのは読者の自由である。

けれども、そのようなことをポン削郎なる上掲の論者に語ったところで、とうてい理解されるとは思えなかった。そういう意味で私は「対話がすべてを解決する」と楽天的にかまえるような対話原理主義者ではないのである。


まだ若いころにフェミニストの始祖のように人々に仰がれるボーヴォワールとサルトルという二人の巨人が子どもを作らなかった、という事実を学んでいたことも大きく影響している。ボーヴォワールはあるフランスのテレビ番組で、
「公園で遊ぶわが子を見る母親の目は憎しみに満ちている」
とまで語っていたものである。

それはちょっと言いすぎだと思ったけど。

ボーヴォワールとサルトル(1955年)写真:Wikimedia



人は、自分の手に入らないものにあこがれる。

だから、非モテ系の男性はとかく、
「子どもがほしい」
と考えがちである。それは大いに頷ける。

しかし、それは本当に「子どもがほしい」から「子どもがほしい」と考えているのだろうか。

むろん、幼いころから子どもが好きで、いろいろな子どもたちと遊ぶうちに自分の子どもが持ちたくなった、という方もいるだろう。けれど、皆がそうとも思えない。


「子どもがほしい」というよりも、じつは
「育てる対象を持ちたい」
「生き甲斐がほしい」
「こんな自分でも親と敬慕してくれる存在がほしい」
という気持ちである場合が多いのではないか。


つまり、子どもという存在がほしいというよりも、対象や関係性への希求なのではないか、ということだ。また文脈が読み取れない人権屋の言葉狩りに遭うかもしれないが、乱暴にいえば、そういう人は「ペット(*1)の延長として子ども」がほしいのである。

 

*1. 「ペット」という語も一時期、差別語にされかねない勢いがあったが、代替語として提唱された「アニマル・コンパニオン」といった語は20年経っても一般化していないので、ここでは「ペット」を採用する。


あるいは「妻や恋人がいない」という淋しさから、もっと直截にいえば「性行為がしたい」という欲望を「子どもがほしい」にすり替えていることもあるのではないか。

 

それはまったく悪いことではない。それどころか、とても大切なことだと思う。

現代はアセクシュアルやアロマンティックといった非性的な志向性を持つマイノリティーの人権を主張するあまり、反対に性欲を持つこと自体が悪とするきらいのある人々がいる。これはおかしいと思う。

「性行為がしたい」という、とくに男性当事者の欲望や願望は生物的自然であり、それ自体では何ら非難されるべきものではない。しかし、「子どもを持ちたい」という願望とそれらがゴチャマゼにされてしまうと、「少子化とは何か」を考えるうえで支障が出てくる、というのが私がここで述べている論旨である。

さらには、子どもが生まれたあと、親として先々までつきまとう成育の責任について思い描く想像力の欠如が、いつのまにか「子どもがほしい」という願望に変質してしまう場合もあるだろう。

 

・・・「ひきこもりと少子化を考える」第3回 へつづく

 

#ひきこもり #少子化 #少子高齢化

 

 

<筆者プロフィール>

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